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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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ルーティン再考。

繰り返しに意味はない。
生きることそのものに意味がないことと同じ。
生きることは、意味が生まれる前提である。
同じくして、意味が生まれる前提としてのルーティンがある。

毎日ちゃんと食べる、ちゃんと寝る。
今の僕なら、毎週末にちゃんと歩く。
生活を整えるため、微細な変化を感知するため。
ルーティンは大切だと知りながら、別の思考が「それ」を妨げていた。


頭の中を流れる音楽の話。
毎週末(土か日)に駅まで歩く40分間、一つの曲が繰り返し再生されている。
何の曲にするかはその時の気分で、しかし気分以外にも選択基準が存在していた。
「先週はあの曲だったから今日はこれにしよう」。

この思考に全く違和感がなかったのだが、今日歩いていて「あれ?」と思った。
きっかけはその曲と歩きとが、いつものようにフィットしなかったことにある。
そして曲の選択基準のことを思い、なにかが「よこしま」だと思った。
後で少し考えて、これは"ルーティン固守思想"と背馳していると思い至った。


それは端的に言えば「毎日同じだと飽きるよな」という感覚のことだ。
これは「意味」であって、しかしルーティンは上記の通り「意味以前」だ。
意味というのは、身体が自然に振る舞おうとする所に"自然に"入り込む。
それは「意味でできた社会」で暮らしている以上避けることはできない。

「意味以前」に至るために、「意味」に対して注意深くなる必要がある。
これは生活の知恵だが、「一度知ったら大丈夫」的な知識ではない。
簡単に抽象化できるが、抽象(意味だけ)に留まる限り、実際的な効果はない。
日々の生活に無数の実際があり、その一つひとつが独自の実際なのだ。

抽象の役得は、一つの実際がそれ(抽象)を介して別の多くの実際と繋がることだ。
それは歴史の役得でもあり、学問の役得でもある。
ただそれが「手間を省く」ことだけに利用される(=手段の目的化)と怠惰に陥る。
手間を省くのはあくまで、同じ過ちを無駄に繰り返さないためにある。


歩いていると、机の前に座っている時より頭がよく回る。
しかしそれを「机の前に座っている時よりも思考が捗る」と考えてはならない。
回転数が上がっているのではなく、「別の回転の仕方」をしているのだ。
だから、歩いている時には、「歩いている時に考えること」があるのだ。

それは全くとりとめのないことかもしれない。
風景を見ながら連想を自由にさせれば、日本の街並が如く思考も整然としない。
しかしそれはそれで、「その時にしか考えることのできないこと」なのだ。
それが今を生きるということ。


ルーティンに自分を馴染ませることは、それを意識しなくなることとは限らない。
自分の生活の別の一部とルーティンが対立している場合がそれだ。
中には、対立させたまま意識せずにいられるようになる種類のルーティンもある。
しかし、これはそれではない。

あるいは、対立しないように生活の一部またはルーティンを変える方法もある。
それは広い意味での今の生活を維持するうえで身体にとって楽な選択肢である。
しかし僕がそれを選ばないのはその結果の身体に付随する思考が腑抜けるから。
そう、よく考えてみると自分は何もしないわりにとてもワガママなのだ。

まあ、それはそういうものだから。
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「誰が言ったか」を、まず考えてみる。

前に書いたことと最近書いたことで矛盾していることがある。
「言葉は誰が言おうとその意味が変わるものではない」と前に言い、
「同じことでも言う人によってその影響力ががらりと変わる」と最近言った。
しかしこれは少し考えれば矛盾していないと分かる。

デノテーションとコノテーションと言えばすっきりするが、あまり面白くない。

前者は、意味が変わってしまうことに理不尽さを感じたという話に出てきた。
「あの人が言ったと思ったから信じたのに」という発言。
しかしこれは発言主体が訂正されて、意味が変わったわけではない。
それを信じた人にとって「意味」に意味はなく、ただ効果だけがあった。

後者は、最近読む本でよく出てくる話だ。
保坂和志はカルチャースクールか何かで喋った経験からこんなことを言っている。
話は用意していくよりも、その時に必然を感じた話をした方がよい。
これは少し話が違うが、「同じ話でもそれが場に合うかどうかで影響が変わる」と。

これも(「も」は一つ前の記事との対応)言葉はそれだけでは存在しないという話。
話す人の雰囲気も影響するしその人に関する情報を聴き手が知っている場合もある。
発言内容とそれらがミックスされその内容が聴き手にとって独自の広がりを見せる。
これをひっくり返して考えてみてはどうかと、さっきふと思ったのだった。


深く問われぬまま人口に膾炙している話というのはたくさんある。
常識はその最たるもので、僕はそれが好きではない。
もちろん好悪はその常識の通用する場面と何ら関係はない。
などと言えば歯が歯茎と一緒に浮いてカシャカシャ鳴りそうだ(意味不

もとい、色々考えようと思うと「常識のなりたち」は格好の素材となる。
その矛盾や不合理を並べ立てて抗議しようというのではない。
意味など関係なく、常識へ差し挟む明示的な疑義はすべて非常識となる。
だから同じフィールドに立たなければよいというだけの話。

と言いながら別に常識だけを取り上げようとは思っていない。
要するに意味の通る一連の言葉であればなんでもよい。
ただ、その始まりとして自分に「ん?」と思わせるものが適している。
違和感は全ての始まりなのだ。


本を読んでいて、「これは誰に向けられた言葉か?」と思うことがある…
と言えば話の流れとして良いのだが、実はその経験はあまりない。
自分の読みたい本をハズレを引かずに選べるほどその経験は減って行くのだ。
そして最近は自分に合わない本はさっさと中断する潔さも身に付けた。

と言って対象を本にするから話が進まないわけで、つまり新聞が好対象である。
どうも新聞を読んでいて、自分に向けられた言葉が少ないと感じる。
そんな時、この言葉を喜んで読み進める人のことをたまに想像する。
あまりいい気分はしない。(そりゃそうだ)

それはよくて、「なんでこんなこと言うんだろ」という疑問の方が本題である。
正確には「なんでこんなことを当たり前のように言えるんだろ」で、
それが常識に近いところでもあり紙面上に書かれる違和感が別にあったりして、
そこで自分は「この人は勝手に何かを前提にしている」と思う。

(なかなか辿り着かない。たぶん続く…)
昨日の続きかもしれない。

変化に対応すると言った。
油断すると不変に固着するから意識して変化に気を配る。
(気を配る、というほど丁寧にやるイメージは僕に今のところない)
これはぜんぶ頭の方の話。

対して身体はというと、常なる変化が標準である。
きっと全身の細胞の変化は目まぐるしく、全的掌握を目指せば脳は狂う。
それは「バランスのとれた狂い方」(あるんです)ではなく「ぷっつん」の方。
何事も経験なので一度試してみてもよいかもしれない。

さておき、不変にこだわる脳は、ある程度以上の変化に見舞われると不安になる。
脳が「掌握(制御)しておきたい」部分がいうことを聞かなければ、不安になる。
それは逆に言えば、脳の可視範囲だけ整えておけば自己満足により不安は消える。
低能な王に無難な範囲で好き勝手をやらせる執事になったと思えばいい。

で、この喩えを使うと「王」は脳でよいのだけど一方の「執事」も実は脳である。
身体はどこかといえば、この一文には出ていない、言わば「治世」である。
農民とか領主とか奴隷とか、具体的にし過ぎるとアレなので「治世」である。
一国の成り立ちは(専ら脳で制御しようとするものだけど)身体なのである。

つまり、脳にほどよく運動させて満足してもらう場を整えるのは脳の仕事なのだ。
だからこそ自己満足と呼ぶのだが、これをそのまま意識することを脳は好まない。
その理由は外を見れば「社会」なのだろうけど、それに対応する内の理由は何か?
あんまり二分法にこだわるのも単純だけど、脳か身体かでいえば…どっちだろう。

別の個体との共振を身体が求める、と言えば説得力を感じないこともない。
しかし、その「別の個体」が人間である必要はない。
まず「社会」を理由に挙げたのはこれがあるからか。
一方で脳に原因を求めれば、「不徹底」の一言で済むのではないか。

世界は素直に生きるには単純で、頭で理解しようとするには複雑に過ぎる。
複雑なことを単純に理解したがるのは脳の怠慢かといえば、そうでもない。
もし脳に身体性が無ければ考えたいことを無限に考え続けるのではないか。
つまり脳が疲れを知らなければ、オーバヒートしない計算機であったらば。

さて、脳は脳でありながら身体でもある。
では逆に、身体に脳的な性質はあるのか?
論理的な思考を得意とする身体、とか。
…ないか。

「脳と身体の対比」の対比の仕方は色々考えられる。
上の例がまず一つ(不発だけど)で、あとは「把握の相互性」とか。
「身体の脳的な把握」というのは上で何度かやった(たぶん)。
では「脳の身体的な把握」とは何か?

…書いたそばから気付くほど言葉の使い方が怪しい。
前者の「脳的」は「論理的」と言い直せる。
後者の「身体的」は「身体として(の)」と言い直せるはずだ。
これのどこが対比なのか。

というか、対比とは何か?
…きっと、あやふやに使っても論理的思考の深化の糧になる論理装置だ。
あと、ちょっと臭ったりするんだよ。
うん、「堆肥」だけにね。

よし、オチた。
いたいのいたいの…痛いの?

今日は大山登山後4日目で、ふくらはぎはまだ痛い。
和らいではきていて、あと2日もすれば気にならなくなる。
平地を歩くより階段の上り下りで痛いのはまあ当然として、
これくらいの痛みがちょうど創造的になる分岐点となる。

というのも、ふつう、痛いのはイヤである。
普通に歩いて痛いのなら、歩き方を変えて痛くならないようにしたい。
これは頭も思うし、それと独立に身体も思っている。
普段よりも身体の声がよく聴こえる状態なのである。

で、身体にお伺いを立てながら、頭は歩行動作の微調整を模索することになる。
ちょっと変えて、「これどうすか? あ、いまいち?」みたいな。
そしてどこかで投げやりになって、「もう、好きにしちゃって!」みたいな。
「分岐点の中の分岐点」が、ここである。

疲れというのは、変な言い方だけど、ある程度は絶対量ではない。
身体のある部分が疲れるのは、そこを集中的に使っているからでもある。
ある身体部位の使用度が同じでも、その周りの身体部位もバランスよく使えば、
局所的な疲労は感じにくくなる。

だから一つの動作で身体全体の「バランスの良い使い方」ができれば、
疲労を感じずに長時間その動作を続けることができるようになる。
しかしそれは一つの理想であって、なかなかそう上手くはいかない。
そんな時に、どんな次善策が思い浮かぶだろうか?

というところで先の話と繋がるのだが、「歩行動作の微調整」によって、
ある身体部位が疲れている時のベターな歩行動作を発見できる可能性がある。
つまり、全身が元気な時の歩き方と、脚のそこここが疲れている時の歩き方を、
その都度の身体に蓄積される疲労を少なくするように変えることができる(かも)。

この考え方を応用すれば、履いている靴や靴下の種類によっても、
最適な歩き方を選んでいつでも気分良く歩けるようになる。
(僕は靴下を厚手と薄手とをランダムに履くので、これも歩行動作に大きく絡む)
これは「常にベストな状態で歩く(のがよい)」というのと逆の考え方である。

一言でいえば「不変を維持するのでなく、変化に対応する」ということ。
言葉の力。

思っていることを言葉にすること。
断片を繋ぎ合わせてストーリーを整理すること。
その内容如何で自分に与える影響が決まる。

しっかり把握しておかねばならないこと。
それが信念であれば、忘れぬために必要かもしれない。
それが隠しておきたいことならば、把握には痛みが伴う。

隠しておきたいことが信念を曇らせるならば。
自分の生きたい行き方をそれと知らず逸らせるものならば。
痛みをその身に受けても、隠しておくわけにはいかない。

そして痛みの質について考える。

抑圧を解く痛みが別の抑圧を発生させてはならない。
それは痛み損でもあり、何より上っ面だけ張り替えた現状維持でしかない。
痛みに、言葉の力を信頼した結果以上の意味はない。

そして痛みを正しく受け止める身体を維持すること。
正しく痛み、正しく苦しみ、正しく病む。
正しく病めば、正しく癒えることができる。

その正しさを担保するものは、自分の中にだけある。

サイレント・マジョリティ。

新聞やネットなど言論の場にはごく一部のひとしか関わっておらず、生活者の大部分はそれを享受するだけの傍観者だということ。
テレビの街頭インタビューに応じる人には偏りがあり、新聞に投書する人にも偏りがある。
だからマスコミの取り上げる「国民の意見」はその実際と隔たりがある。
それはまあそうで、「その実際」を知りたければ、偏っていることを前提とした「国民の意見」をもとに想像力をはたらかせなければならない。
基本的にマスコミは想像力とは無縁なので、マスコミの素材は想像の素材にしかならない(ものごとに対する「直接の判断材料」にはならない)。

という話は一冊の本に書かれてあることの「行間を読む」ことと関連がある。
想像力の使い方が似ているのだ。
本当に大事なことは行間に書かれている。
この意味は、本当に大事なことは(諸々の規制がかかって、あるいは「言葉にならない」ために)活字にされないから、あるいは読み込む読者の事情次第だから、といったところにある。
「諸々の規制が…」の方は、建前として理由に挙げられるだけで、実際は活字媒体を選ばなければ(昔は機関誌、今はネット掲示板かしら)規制などあってないようなものである。
「言葉にならない」の方は、文学を思い浮かべればよい。

思ったのは、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知るにはどうすればよいか、ということ。
例えば、「世の中に出回る言葉」に全く触れずに生活している人(地方の田舎に住み、新聞をとらず、ネットもしない→Aさんとしよう)は、それを直接知っているのだろうか?
論理的にはイエスだ。
けれど、それを知ろうとしているのは誰であったか?
例えば(郊外に住み、新聞をとり、ネットでも情報を得ている)僕がそれを知ろうとしているのであれば、このイエスには意味がない。
すると、それを直接知ろうとするなら、僕はAさんのような生活をしなければならないのだろうか?
この疑問は、「世の中に出回る言葉」に触れている限り、それが伝えないことを直接知ることができないことを前提している。
(疑問形が続いてややこしいが)それは本当だろうか?
それを知ろうとする目的が、「世の中に出回る言葉」に振り回される人々にもっと落ち着いて欲しいという願いを叶えるためにあるのならば、それを「直接」知ることに意味はない。
しかし、この断定の裏には「当事者の気持ちは当事者にしか分からない」というイデオロギーがある。
その通りであることも多いからイデオロギーなのだけど、それで全てではない。
つまり、無理やりまとめるならば、直接か間接かを問わなければ、どのような生活をしていようと、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知ることだけはできる。
ただ、それに「それを他人に伝えること」も含めれば、想像力は必ずいる。
事実をそのまま言えば相手に伝わるほど、言葉の仕組みは単純ではない。
だから当たり前だが、これはマスコミの仕事ではない。

そういえばまた「そろそろ新聞止めようかな」と今日思ったのだった。
配達の人がいい人だからいつも意思を貫けないのだけど、今度こそは。
ということでおぼえがき。
「弱さ」を守る。

どのような社会に住むかによって、人の理想の生き方は変わる。
その社会で育ってきたこともあるし、「社会込みでの自分」というのもある。
しかし、理想の生き方が、住んでいる社会に沿ったものであるかは別の話だ。
「社会込みでの自分」と言った時、まず広義で、社会と自分とは関係している。

その社会(町、国)で暮らすという意味で、自分は社会に含まれている。
だがもちろん、自分の価値観は、社会に影響されこそすれ、含まれるものではない。
それは当たり前に思われて、実際数としては少ない。
「思想の自由」とは、自由の推奨ではなく、自由の保証であるからだ。

「『誰もやったことがない』は後押しにしかならない」という言葉をさっき目にした。
「そのことに自分で価値を見出せるかどうかがカギだ」と。
その通りだと思い、しかし前者はマジョリティの意見ではない。
それは論理的にそうだ、というだけの話だろうか?

誰もが「誰もやったことがないこと」の実現に励む。
「それは結局みんな同じことをやろうとしているのではないのか?」
この構造主義的観点が、耳に心地よいかどうか。
それは、この観点を取れるか取れないかとは、別の話だ。


自分の弱いところを失いたくないと思う。
強くならなければ乗り越えられない場面がある。
しかし強さは鈍感さと背中合わせであることがある。
その時に、「守るべき弱さ」を選ぶ判断ができるかどうか。

何かを守りたいと思う、とはどういうことか。
それは変化の否定ではない。
自分と他者(環境)の移ろいを肯定しながら、自分のある一部分の不変を固守する。
それに他者の一部分も、あるいは他者との関係が含まれるのかもしれない。

いずれにせよ、
「守る意志」に先だって、
憧れが、理想が、
あるはずなのだ。

閉じて、開く。

流れを止めようとするのは自然に逆らうこと。
人を構成する流れは多層的で、層を成すのは具体と抽象のグラデーションである。
ある単層の流れを止めようとすると、他の層の流れにも澱みが生じる。
その澱みの重なりが生の全体に悪く影響せぬよう、配慮しなければならない。

流れのうちより抽象的な流れは、それを止めようとする時に、
(再)認識によって流れたままにすることができる。
ある弁を閉じようとする時に、同時に別の弁を開いておく。
つまり同じ一つの考え方で、弁を開くことも閉じることもできる。

閉じた分は、開く。
どこで開くかを、じっくり考える。
あるいはもう、知らない間に開かれているかもしれない。
どうすればそれに気付けるか、落ち着いて考える。

静かに、静かに。
調子は上向き。

「知性が全く無力でしかない場面」において、知性は無力ではない。
まず、それと気付くための知性というものがある。
その知性を発揮できた場合と、できない場合とで状況は大きく変わる。
後者の単なる諦めに比して、前者は「人事を尽くして天命を待つ」。

諦めて流れに身を任せる時と、「待つ強さ」が断然違う。
それはまず知性的なものだが、同時に身体とリンクする。
待つことを受け入れる姿勢を、知性が底面から支持する。
その支えがしかとあってこそ、「待つ身体」が安定する。

無力であることを知る。
それは力にもなる。
逆の言い方をすれば、それは「力を抜ける」ことにもつながる。
必要な力を蓄え、余計な力を抜く。

無力であることを、自力で知る。
それは、自分はある面で無力であるが、別の面で力があることを示している。
両者の「力」は、全く関係のないものかもしれない。
けれど、「有る力」が「無い力」を包み込んでくれるかもしれない。

それを知る力は、「有る力」に含まれていることは分かるのだ。
足を止めずに。

道を歩く。
道の端にちょこんと猫がいる。
こちらに気付き、目が合う。
人懐っこそうな視線に誘われているように思える。
目を合わせながら先を進む。
直線距離が最短になっても猫は逃げない。
そのまま通り過ぎる。

田んぼのそばを歩く。
稲がまだ若く青々しい。
張られた水に遠くの山と空が映り込む。
若い稲と空が混ざり、緑と青が混ざる。
自然の鏡が自然を映しとる様に見とれる。
緑と青に吸い込まれるようでもある。
その引力を感じながら、通り過ぎる。

車の通れない細い路地を歩く。
いくつかの墓石がひっそりと並ぶ傍に大きな木がある。
家の敷地内から伸びる幹が枝を張り出し、路地に日陰をつくっている。
その存在感を頼りに雀たちも寄り集まってくる。
一帯に家屋の立ち並ぶ中、この大木の周りだけ異なる生態系を感じる。
日陰にいる間だけ吸い込む空気の質が変わる。
上目で木漏れ日を味わいつつ枝の下をくぐり、通り過ぎる。


一度歩き出せば、時が来るまで止まらない。
この「歩く」はメタファーだが、それに留めず実感したいと思う。
歩くことに意味はなく、歩くことから意味が生まれる。
だから、考え続けるために、歩き続ける。

歩き続けて、生まれたものが、意味。
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