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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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味噌汁氏の近況。

味噌全国ツアーはもう記録してないけどまだ続いていて(=一種に定着はしていない)、今は仙台味噌で次は今日購入した新潟の白味噌。
確かに味噌で味は変わるんだけどそれは当然で、当然なだけにあまり面白くなくなってきていて(まだ極端なのを選んでないせいもあるかもしれない。京の白味噌とか極端なイメージ…年末年始しか食べんのでないの、というような)、実は油がけっこう味に効いてくるというのを実感している。
油は最初に豚肉とカボチャ(と二日にいっぺんはウィンナーもだが、これは焼けた時点で取り出して食べる。調理中の腹ごしらえ用ですね。ついでに二日にいっぺんのもう片方は出来合のハンバーグです)を炒める時に敷くのだけど、豚肉がけっこう色つくまで炒めるのと量も多めに入れるのとで味噌汁の味の基礎の部分をつくるのもむべなるかなというところ。
で、季節柄か半月前からスーパでオクラが見当たらなくなって、これまで山芋とオクラのネバネバコンビを楽しんでいたのだけどそれがなくなるのは寂しいなと思い、何か代わりはないものかと普段と違う目で生鮮コーナを物色するに、エンドウ豆(よりは豆が小さい豆類なのだけど…あれ、ど忘れした。さやえんどう?)の値札に「煮物にぴったり」と書いてあって反射的にこれだと思い(僕の中では煮物=味噌汁、です)、すぐ横にもやしがあって「ああ懐かしいなあ」と思って量の多さをちと気にしながらわずかながらの贅沢力発揮で黒豆もやし(¥48)なるものを選んだ。
もやしはどうも学生の頃にさんざん自炊で使ってきただけに「貧乏学生の食生活の象徴」というイメージがあって(別に貧乏してた訳じゃないけどなぜか食に関しては無駄に倹約志向だった)、そういえば社会人になってからほとんど買った記憶もなかったのだけど、これが味噌汁に入れてみるとなかなかよくて、まずもやしというのは歯応えが他の野菜にない特徴をもっているので味噌汁の具の食感にバリエーションが出てよい。
あとは味噌汁の煮方もひとつ技法(?)として定着しつつあって、最初に入れた水がほとんどなくなるまで一度強火で煮込むと汁はドロドロして具も大体がドロドロしてくるのだけど、この状態がカボチャと山芋を液状化させるチャンスで菜箸で「くぬっくぬっ」とばかり八つ突きにして奉ることで汁との一体化を果たすのである(汁が多くて粘り気が少ない時は潰しても破片が小さくなるだけなのだ)。この手順を踏むか踏まないかで味噌汁の旨さが大きく違ってくる。
あ、それと味付けも最初のやっつけプラスその場の思い付きが正規採用されていて、砂糖と塩に加えて合わせダシ(確か椎茸とか牡蠣とかだったような…そして品目が豪勢なわりになんでか安い)を手のひらに三つ振り分投入し、隠し味として「にんにくを浸けていた醤油」を小さじ2杯入れている。この醤油がまた滅法おいしくて、単体で飲むと醤油の濃厚さにニンニク(青森産)の青々しさがつーんとくるのだけどある日突然これを味噌汁に投入することを思い付いたのだった。けど入れてみて味噌汁がニンニクの味がするかといえばそんなことは全然なくて入れたことにも気付かないくらいで、自分にしては珍しく(というか初めてかもしれない)「隠し味が文字通り隠れてくれた」。その昔チャーハン狂の自炊学生だった頃は隠し味にワサビ(!)とかターメリック(!!)とか訳分からんもんばっか入れて散々な目に遭った。成長したね。
あ、あと煮始めに投入していた乾物が乾燥大根だったのがいつからか乾燥ひじき(@業務スーパ)になっていた。その時に思ったのだけど、その昔ジャズ研に所属していた頃自分がコンマスを務めるバンド名が「先輩にちなんで『かたやきそばジャズオーケストラ』ってどうですかね」という虎の尾アフォーダンス的提案をした某後輩(記憶が曖昧。T安?)の一存で決まったことがあったのだけど、リアリティを追求するなら「乾燥ひじきジャズオーケストラ」で良かったんじゃないかというこれは過ぎた日を懐かしむ自虐的発想なのだけど、今思えば「スチールウール・ジャズオーケストラ」がベストだと思う。
これだからMって言われるんだろうな。(どうでもいい)

という味噌汁のお話でした。
うん、これが俗にいう「全ての道は味噌汁に通ずる」というやつだな。

+*+*+*

あ、今日は風と葉と火でした。
木とコーヒーは昼の音だなあ。
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糧生く過程。

最近疲労が溜まっていてカタめの本を読む体力が足りなくて困っているのだけど(でもこれは「ヤラワかい本=今しか読めない本」という価値付けで納得できるので良し)、もちろん疲れて困ることは他にいくらでもあって、その一つが昨日サラダを仕込んでいる時に元気にならなくて(いつもはしんどい時も野菜切ってると元気になるのです)ちょっと愕然とした。
昨日はサラダと味噌汁の具の仕込みが重なる日で全部やれば2時間かかるのだけど、野菜切りながら疲れが意識から離れなくて右肩が震えてきたりして(これは最近肩こりがひどいせい。原因不明だが液だだ漏れのアンメルツヨコヨコにて対処中)「こらあかんわ」とサラダだけ作って止めて、次の日の夕食前に仕込もうと決めた。
それが今日で、じつは今週から土曜出勤のサイクルがしばらく続くのだけど、仕事終わってから夕食をつくる前に具を仕込む元気が果してあるものかと昨日は心配したが人がほとんどいない土曜出勤の楽さもあってそこは杞憂に終わって(あと昼がパン1個の粗食なのに夕食の時間を遅らせて大丈夫だろうかとも思ったしじっさい仕込み中は空腹で不安になって水でごまかしていたけど、よく考えれば不安に思ってるのは頭だけで身体のほうは「飢餓場の底力」を注ぎ込んで躍動してるんじゃないかしらと思い、それが寿命を縮めるのでなく潜在力を引き出す経験になっていると信じてみる)いつも通りプラケース8個に野菜を詰め終えて、そこからいつもと違ってそのうち1つは冷凍せずにそのまま使うのだけど凍ってない野菜を鍋の前に持って来ると煮る前に炒めたくなるのが男の性というもので(たぶん)、豚肉に焼き色をつけてから味噌汁の具(最近はずっと固定のゴボウ、タマネギ、オクラ、舞茸、茄子)も一緒に炒めて、ついでのついでにいつもは同じく煮るから始めるカボチャも一緒に炒めて焦げ目をつける。適度に焦がせばなんでも旨くなるという安直な認識がそうさせたのだけど、今回それでじっさいに旨くなったかといえば違いを認識できるほどではなく、煮ている間の汁がいつもより粘度高いかなあと思ったくらい。
というわけで味が改善されたわけではないのだけど、仕込みを(前日の夕食後から当日の夕食前に)遅らせて憂鬱しか発生しなかったはずが思わぬ発見があったことが書きたかったことで、何を発見したかといえば「冷凍した具を使う日の朝に冷蔵庫に移しておけば(冬なら外に置いてもいいかもしれない)夜は解凍された状態で使える」ことで、そんなことちょっと考えれば当たり前過ぎる話なのだけど驚かねばならないのは「とはいえそんなことちっとも考えない」ことだ。

考えれば当たり前で大発見でもなんでもないことにずっと気付かなかったことに後悔する(「今までさんざん手間かけてきたあの時間はなんだったんだ!」とか。今回の話は違うけど)必要は全くなくて、というのも情報化社会では検索ツールを日常の(効率面の)最適化に使いそれにハマってしまうと際限がなくなると早々に見切りを付けた自分は建前上他者の要請のないところでは効率を無視して我流(というか成り行き)に方法を見出すことに価値を置くことにしたのだった。
つまり保坂和志が(確か『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』の最初の方に)書いている「主観を取り戻す」ということで、そのことが他者に理解されるかどうかはおいといて、まず自分が「これでいいのだ」と思えることが大事なのだ。
自分の思考においてついつい客観性を考慮してしまうのは「他者に理解されるかどうか」を一番に考えてしまっているのであって、それが個別具体の「あの人」と共感できるかどうかは、実は直接は結びつかない。
そこで共感が成り立つのだとすれば、それは自分とあの人とを「客観性」が媒介された上でのことだからだ。
その共感がウソなんてことはもちろんなくて、常識はこの原理で機能しているのだから集団生活において不可欠なのは間違いない。
が、言いたいのは、「それだけではない」ということ。
こう言えば当たり前だが、「常識だけ」で人と深く付き合うことはできない。
だからといって常識がなければ「深くなる前の付き合い」すらできないのだが(>自分)。
その加減が難しいなんてこともなくて(人を観察してればわかる)、問題は「(社会における)加減の行き先」で、それを自分の問題にするならその「行き先」に納得いかないということ。
まあ、「納得する必要なんてない」という意見ももっともだけども。

味噌汁の話をしていたはずだが…?
まあいいや、せっかくなので引用で〆。
 体験というものは”主観”であり数値化できない。しかし、”主観”であり数値化できないがゆえに、個人の生き方を左右する力を持っている。堂々巡りみたいだが、その力もまた数値化できない。(…)しかし数値化があまりに広く深く浸透してしまっているために、私たちは自分一人の”客観化”されざる体験を自分自身に向かって思い返すときにまで、ついうっかり数字を一緒に出してきてしまい、そこで”主観”と”客観”を混同して、考えを違う方向に持っていかれてしまう。(…)
 これは数値化だけではない。”主観”はいろいろなものによって切り崩されている。”主観”と思われがちの「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というような、自我に縛られたちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷的な思考でしかない。これは”主観”とは別のことだ。
 数値化を含む共通了解の誘惑に抗して”主観”を”主観”として保持しつづけ、それを一人でも多くの人が共有することのできる言葉や思考として練り上げること。小説・音楽・絵画・映画……etc.の芸術はそのためにある

「歳月は数値化されない」(保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』p.53-54)
その気はなくとも。

毎日同じようにつくっていても、ふとした拍子に少し変わっている。
いきあたりばったりの変化が新たな定常流を生むこともある。
まあ今回はそうはならないだろうけど、という話。
味噌汁の話です。

同じ野菜が年中スーパーに並ぶ現代でも、季節ものはその本来の季節においては他の時期より活きが良い(はず)。
個々の野菜の値段はその時の収穫量と質で決まるのだろうけど、(肥料とかビニールハウスでの空調とかの?)余計な手間をかけずとも自然な気候で育つ季節ものは、量も質も底上げされると思っている。
何が言いたいかといえば、日常的に同じ野菜を買っていてもその個々のボリュームが違って来ると味噌汁の具を同じように仕込むのに支障が出てくる。
支障と言って、少し考えないといけない場面が訪れるという程度なのだが、前回は洗いゴボウ2本(¥128)がいつもより太くて長くて(余談だけど冬の間ゴボウは冷蔵庫の外に出していたのを夏の初めまで同じようにしていたら4日放置で見事に真っ黒に腐ったことがあって、買った野菜を全く手をつけず捨てた初めての経験だったから覚えているのだけど、あれがあってから土ゴボウ(だっけ?呼び方忘れたけど、土がついたまま袋に入ってる)を洗いゴボウに変えた。最初にゴボウを選んだ時に土臭さを嫌わず土ゴボウを選んだ自分を偉いと思ったが、腐ってしまってはしょうがない。涼しくなるまでは土ゴボウはおあずけ)、プラ容器8個に切り分けて仕込むといつもの2倍は場所をとってしまい、茄子の一部が溢れてしまったのだった。
サラダをつくる時にも同様のこと(皿に盛り切らずに別の料理に使うこと)はたまにあって、で今回は茄子1個だけがまるまる余ってしまって、茄子だけを食べる方法を日常の調理手順の延長で考えて、炒めるならオリーブオイルしかない(学生の頃に本格的なムサカ(戦艦ではない方)を一度だけ作ったことがある)という点は最初に即決して、炒める場面は夕食で味噌汁を作る最初の豚肉を炒めるところ(そう、今まで言ってなかったけど、味噌汁というか豚汁なのだけど、豚汁の豚って多分最初から煮込むんだろうなあという(本当のところは知らないけど)通念があって、しかし肉は炒めて焦がしてこそジューシーであってしゃぶしゃぶはさっぱりしてるからさっぱりしない(分かるよね)という細かいところで男気を発揮する自分は最初に豚肉を焦げるまで炒めてから水をぶっかけるので飛散が激しくガスコンロまわりの汚れがひどかったり換気扇回すの忘れると下手したら火災報知器に検知されかねないような(行き当たりばったりを修正しないという)豪快さをも発揮していて、ま、男の料理ってこんなもんしょや)が丁度良いのでじゃあ肉の前に茄子を炒めて食べちゃえと思い、ついでに味付けはマーガリン(もう自分の中ではバター=マーガリンの等式が成立して久しい)とハーブミックスかなと無思考のありものトッピングでやっつけて、で茄子って本当に油をよく吸うから炒め始めは多めに入れてしまうのだけど炒まって(とは言わんか。火が通って)くると溜めてた油を放出しにかかるので茄子を引き揚げた時にナベには結構な量のオリーブオイルが残るのだけど、もちろんそれを捨てるなんて発想はないのでこれを初期状態としていつもの味噌汁作りが始まることになる。
要約すれば、下地の油が米油からオリーブオイル+マーガリンに変わったというだけの話。
要約だけに漸くか、というね(死

で、お味の方は初日は味噌汁本体のいつもの味付け(砂糖+あごだし)のせいでいつもと違いがよく分からなかったが、二日目の今日はあごだしを抜いてみると意外に効果アリで(正確には「あった効果がなくなった」なのだが)バターらしき香りが漂いどこかしら洋風化したように思われたので、ああこれは味噌汁じゃなくて味噌スープだなと。
インザ・ミソスープ。
これが言いたかっただけ(かわ嘘)
懐かしいな(どっちが?)
明日から広島。

焼きレバーにあたった。
昨日の夕食後あたりから調子が悪くて、体がどんどん発熱していて「あ、風邪か」と思い、その前日に唐突なぶっ飛び残業で25時近くまで頑張ったせいかと思い(何せ昼食パン1つに夜はつなぎの羊羹1個という「飢餓ベース」を地で行ってたので)、しかし1日経ってから症状が出るのも筋肉痛じゃあるまいし妙だなと思いつつ夜は寝る体力が足りずひたすら水分補給しながら『ロバート本』(橋本治)を脳内朗読して読んでいた(背表紙に「落語調」って書いてあって読み始めて「ほんまや!」と思ったがハシモト氏の声を聞いたことがないのでテキトーにあてて再生していた。まあ顔で大体想像はつく。そして内容は過激。過激で非常に面白い。水谷八重子とか乙羽信子とか言われても全然わからんけど面白い。だから内容じゃないのね。グルーヴ感かしら。落語やし。あとロバートって聞いてまずサカザキと続く僕はKOF世代、と書いてから検索してみたらサカザキはリョウの方で、「金持ち父さん」のキヨサキと混ざっていたのだった。細かい)。
で、今朝は休みたいくらいふらふらだったけど「重症でない時は働いた方が治りが早い」という経験則に従って(相変わらずストイックなことで)いつもと同じように出社して、やっぱり水分補給しながら色んな人に巻き込まれながら仕事をしていると少しずつ元気になっていった。
計画性のない巻き込まれ型なもんだから仕事は溜まる一方なのだけど「明日やれることは今日しない」のがマジメ人間が仕事で潰れないコツなので(誰もマジメだと思ってくれてないけど)、というか定時を過ぎると急速に仕事効率が落ちるので無駄な残業を回避すべく帰らざるを得ない。
ということでいつものペースを取り戻し、今日は18時過ぎに帰ってさあ晩飯をこしらえようと冷蔵庫を開けると臭くて、それが問答無用の焼きレバ臭で、考えるより先に「あ、こいつだ」と右手が伸びて生ゴミ入れにポイっと。ポーイっと。
そういえば昨日買ったこの焼きレバーはいつもよりカラカラに乾燥していて、売り場に置いてある時点でいつもより匂いがきついことにも気づいていたのだけど、「味付け変えたのかな」と軽快にスルーしていた。
売り場にたくさん残っていたけど(いつもレバーは他の串より減りが早い。思えば怪しい点はいくつもあった)、あれを食べた他の人は大丈夫だったのだろうか…
というか店の責任はさておきあれに手を出した自分の油断が過ぎたことは否めない。
鼻は「おかしい…」と気付いていたのに「味付けが違うのね」と勘違いした頭に押し切られたことがけっこう悔しい。
そしてレバーごときに負けた自分の体もやっぱり強くはないのだった。
しばらく食えんな…

という愚痴はおいといて、本題は味噌汁の話。
750gの「酵母が生きている」赤味噌を使い切り明日から広島の甘口合わせ味噌。
 愛知→秋田→大分→長野→広島
という全国味噌制覇の旅は続きます。
嘘だけど。(全国というほど選択肢がない)

…体力が切れたので本題に入れず。
きっと今日寝れば明日は元気。

あーした元気にな〜れっ♪
毎回が初回。

味噌汁の仕込みが上達しないなと思う。
その上達とは、仕込み時間の短縮のこと。
毎回、8日分を同じようにパックして冷凍しているはずなのに、気がつくとだいぶ時間が過ぎている。
朝のサラダは一度に4日分作るので、4日のうち1日は野菜をスパスパ切る日があって、野菜を切る日の2日に一度はサラダ分と味噌汁分を切っていることになる。
(出張があっても泊まりはほとんどないので、日常においてこのペースはほぼ守られている)
その8日に一度の「大仕込み日」の今日は一通りの作業を終えるのに2時間以上はかかった。
これは今までで最長。
別に時間短縮のために効率化を考えて作業しているわけではないが、慣れの効果で自然と手際良くできるようになるとは思っていて、しかしそうなっていない。
それは構わないのだけど理由を考えてみるに、「毎回同じように」という話の前段が怪しいのではないか。
スーパーでの買い物ではいちおう習慣に基づいた食材を買うような順路を辿るのだけど、自分のキャパシティを鑑みるに「習慣付けようとしている購入する食材の種類」が複雑に過ぎていて(レジに並んでから「何か忘れてるのではないか」と思い、朝と夜の食膳を想像しながら点検しない日はないし、それでも1/3くらいで何かを忘れている)、しかも値段に過敏に反応するし(決して学生の時みたいに安さを追求しているわけではない)特売に弱いしで、「毎回同じようなものを買う」という意識は確かにあるのだがその場の流れでその意識はあやふやになったりもして、そのような「習慣からのばらつき」の微調整は結局のところ仕込み日のまな板の上でなされているのである。
いろいろ言い訳はできて、けれど一番楽しそうな言い訳を選ぶなら、自分の言う習慣が「野菜を買ってサラダと味噌汁を作る」という階層でしかなくて、作業時間が短くならないのは習慣が惰性にならない秘訣である「習慣の構成要素(=行動単位)を割る」(「割る」というのは行動における主体と動作の相互作用の回数とスピードを上げることで、例えばポップスを4拍子でなく(リズム隊の刻みが4つでも)16ビートでノることを「拍子を割る」と言う)余地をとっておくための(習慣の)抽象化の結果なのだ。
だから8日に一度の大仕込みをやる前に「またあれをやるのか…面倒やな」と思うのは油断であって(じっさい滅多にないけどね)、その仕込みは(正月的な意味で)めでたくも毎回が初回なのである。
これ、「カウントダウンの効用」の逆なのかな…。
高粘性味噌汁。

急がば回れで、まずスーパーの話をしたい。
今月始めに近所のTESCOが閉店した。
毎週歩いている「小町緑地〜愛名緑地(高松山)」コースの帰りにあったスーパーで贔屓にしていた。
直輸入のブランドが他にはなくて、シリアルとコーヒー(粉)とドレッシングは好んで買っていたが特徴はそれくらいで、店舗は少し小さく近所の他のスーパーと比べると通常の品揃えにおいて見劣りはしていた。
レジが4つ(うち2つは店員のいない自動レジ)というのも規模の小ささを示していて、終末の夜の混み方もフードワンやヨークマートと比べれば閑古鳥レベルであって、僕は人混みが根本的に嫌いなので居心地はよかったのだが閉店と聞いてむべなるかなと思ってしまった。
それで普段の買い物は4日周期で行っていて、買い忘れや不定期の消耗品を要する時に散歩帰りのTESCOを利用していたのだけどそれができなくなったので、ちょっと考えて、散歩コースの帰り道を若干変更すれば業務スーパーに寄れることを思い付いた。
長谷って遊ぶところがないけど(パチンコ店をそれに加えていいのかもしれないがどちらにしろ僕には関係ない)、買い物環境は非常に充実しているのだなあと4年目にして気付いた。
もちろん近所にスーパーが3つも4つも必要かと言われれば首を縦には振れないが、選べる数があれば自炊生活は充実するのである。

で、そのちょっとした転機は機会主義者の生活を幾らか余分に弾ませるもので、散歩コースそのものを変更すれば(具体的には愛名緑地を、高松山で下って森の里入り口に抜けるのではなく、そのまま森の里近くまで抜けてしまう)三和スーパーにもいけるなと思い付き、この間お試しで歩いてみた。
もちろんいつもの通りの無計画なので、スーパーに着いてから「帰りはバスやな…」と気付く(普通に歩いて30分以上かかる道を両手に買い物袋提げて歩こうとは思わない)。
駅まで出るのにいつも往復歩く身としてはたかだか買い物ごときで(何が「たかだか」なんだか)バスを使うというのが気に食わなくて、これはあまり日常に定着はしなさそうではあるが、それとは別にいつもと違うスーパーに来たので冒険心が湧いてきて、いつもは買わないものを買う。

それが長芋(安かった)とオクラ(ホマ?)で、購入を決めてから味噌汁の具の具体的な仕込みを考え始めたのでいつも一度に6日分作っていたのを8日分に増やして(というのも冷凍用のプラケースが1つ220mlとそんなに大きくなくて、それにいつも牛蒡1/2本、茄子2本、舞茸(たまに椎茸とか榎茸とか)1パック、玉葱1つを切ってギュウギュウに詰め込んでいるのだ)、そのnew具が今夜お披露目だったのだけど素晴らしく美味かった。
いつも煮過ぎるほど煮込んでいるので長芋なんて跡形無く完全に汁と一体化していたが、それが旨味と共に喉が喜ぶ粘り気を生み出していて(やっぱり長芋は高級食材なんだ)、そしてオクラは問答無用で旨かった。
他の事情(いろいろあるんです)もうまく合えば、彼らも成員に迎えるとしよう。
「生姜事件」の顛末やいかに。

数日前から味噌汁に加えた「ちんげん菜とアスパラ炒め」はJ・アタリ。
いつも汁(というか水)を煮る前に豚肉をきつめウェルダンに炒めていて、その時に一緒に入れると野菜たちはけっこう焦げ目が付くのだけど、それがいい感じに「九州大分の麦味噌」の味を濃厚に引き立たせてくれる。
味噌はやはり煮込みの序盤から溶かし入れるのが好みで、味噌本来の風味がそれで飛んでしまうのかもしれないが、具と味噌がよく絡まり、イメージだけど濃厚になる気がする(煮込みの最後に味噌を入れた時は味が軽くなってしまったように思った。「すっきりまろやか」とも言えるのかもしれないが)。
食膳にメイン料理(肉や魚など、味の濃いもの…とも限らないが)があれば味噌汁の味付けは薄くてもよいのだが、今の夕食は味噌汁が(食材の多様さや器の重さからいって)堂々たるメイン料理になっていて、その味は物足りないよりは「物足りる」方がよいのである。

で、ほぼ同時に投入した生姜なのだが、これは一回目に作っている間から既に不穏な空気が漂っていて、煮込まれている他の野菜を押しのけて「ワイが生姜やで、よう嗅いどきや」と言わんばかりの自己主張の強い香りを発散させていて、でも僕自身生姜は好きで飴や葛湯として日頃から親しんでいるから「味噌と仲良くさえやってくれれば…」とやきもきしつつ見守るしか術が無く、いつも通りの手順で作り上げて食卓に並べてみるとなんだかやけに汁が黄色い。
一口飲んでみて、生姜以外に主張してくるものが見当たらず「一に生姜二に生姜、三四は抜きで五に生姜」とでも言えばいいのか、味噌もいつもと同じ分量で入れてるのに「あのう、わたくし本日は味噌汁ということでよろしかったんでしょうか…?」とか細い声もかき消されるようで、つまりこれは紛れもなく「生姜汁」なのだった。
ここからブリコルール的機転を利かせようと味噌と生姜の相性を取り持つ何かがないかとしばらく考えたのだが、「二重の予想外」のさらに裏をかいたこの生姜の排他性に気圧されるばかりで、結局なすすべなく次善策をとることにした。

次善とはすなわち「野菜スープにしちゃう」ということで、炒め油を米油からオリーブオイル(なぜかEXV)に変え、ダシを焼きあご(飛魚)からコンソメに変えて洋風スープに早変わり。
その一回目が今日で、一口飲んで本当に驚いたのは、昨日の生姜汁と味が「全く一緒」だったこと。
昨日は味噌汁として飲んだから終始違和感があったけど今日は最初からスープとして飲んだから平気だった、と言って「そうね」と納得しかねない程に同じなのだった。
恐るべし生姜…と結論付けるのは尚早で、単に生姜の分量が多過ぎたのだ、きっと。
隠し味として使うには恐らく今回の1/5くらいには減らさねばならず、生姜をまるまる一個購入してその分量で使い切る期間を考えると扱いが難しいのであるなと学習した次第(しかし生姜ってどれくらいもつのか…今回の経験による計算だと6×2÷1/5=60日は冷蔵庫内で健康を保ってもらいたいのだが、まず無理だろう)。

ま、思いつきもたまには失敗しますわ。はは。。
味の複合に関する想像は難度が高いということで、精進。

+*+*+*

味噌汁の話が何度か出てきたので、新タグ作りました。
そいえば「とりたま」も味噌汁の話から始まったのだった…か?
いや正確には「味噌汁の話に逸れて戻って来れなくなった所から始まった」か。
今後もちょくちょく顔を出すテーマになると思います。
もうすっかり習慣として定着したことだし。
ただ上記の通り、時々スープになることも今後増えそうだ。
更なる進化を祈念しましょう。
(今回の「生姜事件」(「生麦事件」ではない)は退化ではなく派生ですね)
縁は「鶏」と「卵」をつなぐ関係性。

味噌汁がまた一段と進化を遂げようとしている。
それは未知なのだが同時に怪しげでもある。
深化でもなく神化なわけがなく、近いのはシンカー。
予想の斜め上ではなく「予想の斜め右下」という二重の意外性。

経緯といえば、部署の後輩(先輩方に対して忌憚なく渾名を付ける子で、僕が部署に移ってきて最初に「剥き牛蒡」と呼び、ロンゲの髪をばっさり切った後は「真面目なサラリーマン」になっている)と味噌汁の話をした時に「母親からは『味噌は火を止めてから溶きなさい』って散々仕込まれました」とか「めかぶを入れると美味しいんですけど煮込み過ぎるとみそ汁が緑色になっちゃいます」とか「ダシはやっぱりカツオですかね、顆粒ですけど」などの興味をそそる話があって、実際その日の味噌汁を作る時に味噌を全部具を煮込んでからの最後に溶かして食べたらやけにあっさりしていて「ちょっと自分の好みではないかな…」とこういう部分ではすぐ行動に移す自分に特に違和感を持たないがそれはよくて、昨日スーパーで買い物してる時にこの「味噌汁の進化の契機」を得ていたものだから普段と同じ陳列棚を見ていながら頭の中には光るものがあって、めかぶを買ったのはまあ話と直接繋がるのだけど同時に生姜も買った(パッケージに「隠し味に」と書いてあるのを見て言葉が浮かぶ前にカゴに放り込んでいた)。
味噌汁に生姜なんてまあ聞いたことはなくて、もしかして恐ろしいことにもなりかねないが、もう具を仕込んでしまったので後戻りはできない。この次タームの具は3日後の鍋に投入されることになるのだが、それとは別に明日から数日間はアスパラとちんげん菜も炒められた後に「いつもの具」達と合流することになっている。
それはなぜというに自分にとってこれほど自然な理由もないのだけど、サラダの野菜が余ったからである。社会人生活が始まった時に決めた「草を4種以上」というサラダルールが今まで破られたことはなくて、しかし何の欲求不満があるのか最近は6種になることが多く(いちおう考えて選んでいるのだけど、冷蔵庫の在庫を買い物の時にいつも完全に把握しているわけではなく、しかも毎日朝晩同じ料理を食べていながら品目が多くて複雑なので買い物において「完全な成功」を収める頻度は半々といったところである)、使う皿もこの3年間でほぼ変わっていない(4枚を使い回していて、いつか一度だけ1枚割れたので似たような大きさのものに買い替えている)ので盛りつけから溢れた分の野菜は他に回されることになるのだが、今の食生活からして行き先が味噌汁以外にありえないのである。
味噌汁が進化する時はいつもこのように複数の要素が一緒に変わるので、味の変化が整った筋道を通らないというか、言ってしまえば味噌汁に関しては「進むべき方向」なんて初めからなくて、それが味噌汁に限らないことを裏付けるというか、その思想の土台になるのもやはり味噌汁しかなくて、しかし最近昼休みに読んでいるTechOnの養老孟司と隈研吾の対談記事の「だましだまし生きていく」というテーマと共鳴していることも偶然ではないのである。

気付けば縁が、縁を呼ぶ。
(今の流行りは「円がドルを呼ぶ」ですかね)
「雄にも産める、卵がある」

みたいなキャッチフレーズも思いついたけどそれはよくて。

さっき味噌汁の具を仕込んでいて、思い付いたことがあった。
あったのだけど、変な事を思い付いたせいでとんでしまった。
味噌汁の話をしていれば思い出すかもしれないのでそれを書く。


一月前くらいから味噌汁に凝り始めた。

味噌汁は社会人生活を始めたちょうど3年前からほぼ毎日飲んでいるが、
(実はもう4年目なのね…いつの間にか、とは言わない)
それはインスタントに毛を生やした代物であった。
毛にあたるのは乾燥わかめセットとか干し大根とかのことで、
要は「調理せずに少しだけ手間をかける」ことで満足していたのだった。

それがとあるきっかけがあって(これはまだ実験中なので詳しく書けない)、
味噌汁の具をぜんぶ初期状態(つまり生)で買って、味噌にこだわるまでになった。
まあこだわると言って経験が浅いのでこれからなのだけど、
とりあえず味噌は愛知の赤味噌(400g)を二度試して、次は秋田の寝かせ味噌の予定。
それで具の方が多分本題で、スタートのコンセプトが
「食べたい野菜をぜんぶ入れる」で、最初から王道を逸れている。
味噌汁を手作りしようと思った日のスーパーで「舞茸と牛蒡の即席味噌汁」を見て
「これだ!」と思ってまず舞茸と牛蒡は決まって、
長ネギと玉葱が好きなのでこれも入れることにして初期の野菜はこの4種類だった。
実はこのことがあって玉葱を買ったのが一年以上ぶりで、
(弁当・外食に頼らない意味で自分は社会人生活を始めた時から自炊人なのだけど、
 品目が多くても1、2日周期で同じものを食べているので偏りは大きい)
それを手製味噌汁一号を食べる前に気付いて、食べる時に涙が出そうになった。
じっさい一号は美味しくて、そしてという繋げ方もアレだけど味付けがテキトーで、
豆腐に使ってるかつお節と毎朝ミルクコーヒーに入れるトウキビ砂糖という
その場にあるものを思いつきで入れただけで理想型を思い描いてなかったというか
「これを入れればどうなる」という想像を逐一やっていたのでその想像に対して
出来上がりが合ってようが違ってようが「なるほど!」と驚く所はいっしょで、
つまりそれが美味しいことに変わりはないという「ブリコラージュ味噌汁」が
このひと月で刻々と変化を遂げていて(進化かどうかは現時点では不明)、
今は具が13種で僕はこれを「倍々コック長の孤独の豚汁」と命名した。
(解題は次回のお楽しみ)
で、今はと言ったけどさっき仕込んだ具はここからまた変化していて、
それは具の野菜を買ったスーパーがいつもと違ったせいなのだけど、
具体的には「舞茸と長ネギ」が「椎茸と茄子」に変わっていて、
その理由が他の野菜との相性でもこれを食べたかったからでもなく、
「そこで売っていた野菜の中で一度に使い切る分量がちょうどよかったから」
という一般的にはもうどうでもよい理由であって、
(でも主婦って案外そういう選び方してんちゃうやろか…主夫やのうて、ね)
そのどうでもよい理由につき動かされつつ「あれ、俺キノコ嫌いやったような…?」
とふと思って、もう舞茸は毎晩食べてて口には馴染んでいて、
でも椎茸って見た目不気味やな、毛生えててちょっと不気味やけど食えるのこれ、
いやしかしよく考えると不気味さでいって椎茸より舞茸の方が…
というどうでもよい混乱が面白くて、

「これが生活するってことか」って思った。

+*+*+*

…言いたいことまでたどり着かなかったけど時間がアレなので続きは明日。
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