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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
本の本文は内容であるが、本の本分は家庭教師である。

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併読というのは面白いものだが、やり方によっては疲れるものでもある。
ここ最近併読に疲れてるなあと思い、似たような本を選んでるからだと気付き、しかしそもそも自分が手元に置こうと思う本が既にある種の(というか自分の趣味の)傾向の顕れなのである程度は構造的な問題である。
とはいえ「併読に堪えるラインナップ」を目指してこその併読家なので、自分の選定に文句をいうことは生産的でなければ自虐でしかない。
時々それに(どれに?)目覚めることがあるがそれはよくて。

併読書の傾向が似通ってきたので気分転換を図ってみた。
といってここでいう傾向とはジャンルではなく著者のことで、つまり最近読んでいなかった人を選ぼうと思い、仲正昌樹の本(『ポストモダンの左旋回』)を手に取る。
(仲正氏は「ジャケ買い著者」としてソーシャルライブラリーにも名指しで著書をジャンル分けさせてもらっているのだけど、意外に蔵書が少ない。本屋で眺めて読みたくなる本は沢山あるのだがブックオフに滅多に並ばないせいかもしれない。新品で買えよという話なのだが)
読み始めて、元気が出てくる。
「ああ、いつも通りだ」と。
(そういえばしばらく氏の本から遠ざかっていたのはこれの前に読もうとした『思想の死相』が期待外れで読むのを中断してしまったからだ。その「期待」の中身はこの下に書かれるはず)
氏の本の内容もとても身になるし(「単なる正しさで終わらない正しさ」を地に足着けて論じているという印象がある。語り口はおいて、小浜逸郎や中島義道と(その思想的な立ち位置の?)似たところを感じる)、文体も好きなのだけど(思えば最初に出会った著書は院生の頃に読んだ『なぜ「話」は通じないのか』で、この本は氏の辛辣な文体が激しく発揮されていて、(たぶん「怖いもの見たさ」で)終始眉間に皺ををぐぐと寄せながらなんとか読み終えたものだけど(だって「パブロフのワン君」ですよ)、きっとその時の衝撃体験に開発されたに違いない)、そういった自分の好みを自分なりに書いてみようと今日読み始めた途中に思い付き、読み進める中でそういう視点でいくつか拾えるところがあった。
 このようにネオ・マルクス主義の代表的理論家であった廣松でさえ、<古典としてのマルクス>、から何を新しい売りとして打ち出したらよいのか分からない、もどかしい状況になっていたのである。ここから”廣松の苦悶”は読み取れたとしても、このもどかしさの中から、新しいマルクス読解の可能性を見出す新人は極めて希であろう
p.15-16

既に述べたように、マスコミに登場している「父親たち」のような象徴的なイメージ戦略を展開しても、彼[東浩紀]のエクリチュールを「自分自身の欲求に対応する思想として読みたい」と思う人がそれほど増えるわけではない(…)
p.29-30

思うに、「自分で考えたい」と思う人のための「実践的な教科書」のようなところがある。
僕が読んできた氏の本に偏りがあるのかもしれないが、現代思想の解説がとても上手くて、分類的興味を満たす整い方もしているけどそれより「現代思想を使えば(ツールという見方は今一つで「その中に身ごと飛び込む」ものなのかもしれないが)こんな考え方ができる」ことをしっかり示してくれていて、例えばローティやアーレントの解説本ではなく著書を読みたいと思わせてくれる。
(そう思わされた人にとっては、例えば上の抜粋で「新人」と書いてあるのを「お、俺のことか」と思って読めるのである)
僕は学部生の頃に読書に没頭し始めて、その時色々気付いたことの一つが「学びたい教授で大学を選ぶという発想がある」ことで(「電車で乗り換えなしで通える高校」の延長で大学を選んだ人間なので)、ちょうど理系から足を洗おうとしてもいたので、読んでいる本に惹かれることが書いてあってその著者が大学の教授なら「ここ行こうかな…」と思ったことが何度かあったのだけど、そう思わせるのも本の力の一つなのだろうけど仲正氏の著作はそれとはちょっと違う。
確かに氏に学ぶ(「氏」を「師」にしてしまう)のも非常に興味深いのだけど、そうではなく「今いるここで頑張ろう」と思わせてくれる力がそこにはあるのだ。
考えてみれば、読者に「この本を書いた人に学びたい」というより「この本に学びたい」と思わせることが本の本分ではないか(前者はある意味で「販促効果」だ)。

氏の本を読む時はいつも「元気が出る」とまず思うのだけど、それは自分が考えることが好きで、けど日常がその好みにいつも沿うてくれるわけではなく時に挫けそうになるけれど、氏の本は具体的な内容でもって「がんばれ」と思考を賦活してくれるからなのだった。
 大事なのは、(集団ではなく)各自が、自分の「意識」と「存在」の間のねじれを”意識”し、緊張感を持って「闘い」続けることである。本書の最終章で述べるように、既に獲得した地盤を守り抜こうとする思想は、閉鎖的になって、いつか死滅していく。それこそが、「物象化」である。
p.34

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 直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりすべきでもない。(…)
『カント政治哲学講義』のある箇所でアーレントは、(「活動的生活」の裏面としての)「観想的生活」を「注視者的な生き方(spectator's way of life)」と読み替えている。「注視者=観客」として、「歴史」を公平=非党派的に注視し、判定しようとするまなざしが、孤独に陥っていく傾向のある「私の思考」を、政治的共同体を構成する他者たちのそれと結び付け、かつ、その共同体を存続させているのである

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』p.211,215(4章 「傍観者」ではダメなのか?)
「傍観者」は、それというだけでダメなのではない。
問題の、あるいは対立の外からでしか全体像は見渡せない。
利害の絡む当事者だからこそ、その立場に適う選択ができる場合はある。
だがどのような問題にも客観的な視点=「傍観者」があって悪いことはない。

傍観者の居心地が悪いのは「見て見ぬ振り」をしていると思われるからだ。
当事者から見れば利害の絡まない第三者は気楽にさえ見える。
だからといって、一つの問題に対して全員が当事者になる必要があるだろうか?
「当事者が多ければ安心だ」という数頼みの短絡がそこにないとは言い切れない。

この抜粋とリンクする、なかなか辛辣な文章を最近読んだので抜粋しておく。
 戦争に対するかかわりがその人の知性と倫理性の「査定」のための踏み絵となる、という考え方は一つのドクサにすぎない。このドクサのイデオロギー性についての無自覚。それが戦争を語るすべての知識人に深く蔓延しているように私には思われる。(…)
彼らは戦争「そのもの」には関心がなく、ただ戦争という「事件」のどうかかわるかをショウ・オフすることによってローカルな同職者集団のなかでのヒエラルヒーを高め、発言権を増し、自分に反対するものを黙らせることに主たる関心がある。(そしてそれこそが「主な関心」であることを、夫子ご自身は都合よく忘れているのである。)

内田樹『ためらいの倫理学』p.14,18

ここで最初に取り上げたかったのは上とは別のことで、自分のことなのだが、
それは「(具体的な)他者を志向した思考をすべきではないか」ということ。
「しかるべき時にしかるべき判断をするための日々の思考」では漠然としている。
"孤独に陥る"のはそのような思考が完全に宛先を見失った時だろう。

別に日常生活で同僚を口説けばいいというわけではない。
例えばその同僚が話題にするようなニュースについても考えてみる。
つまりリアルタイムな出来事も取り上げてみてはと思うのだ。
思考内容と他者をつなぐ線がよりはっきり見えてくるだろう。

もちろん大切なのは、「観想(思考)」と「活動(意志)」のバランスだ。
「活動」と「観想」は、ヒトが「人間」らしく生きるための両輪であって、一方が欠如すれば、他方も不十分になる。「活動」を通して他者のまなざしを知ることで、「観想」の視野が広がるし、「観想」を重ねることで、「活動」における言論の中身も洗練されていく
同上(仲正) p.167

このような氏の指摘は励みになるが、これだけでは「思考」でしかない。
「思考」を「活動」に活かすために意志は必須で(その意味で上で括弧をつけた)、
その意志をしっかり発揮するために必要なのは集中力だ。
繰り返すがこれが今の自分に足りないものであり、常に意識すべきことだ。

気を張り詰めて集中した末の、心地よい疲れというものがある。
安穏とするはずいつの間にかが居心地の悪い怠惰に変わることがある。
どちらも、想像と実体の差が生み出す、幸福であり不幸だ
実体を大切に、こつこつと経験を積んでいきたい。

今日のBGM:【東方自作アレンジ】ネクロファンタジア【ピアノ】
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