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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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抜粋太字は本文の傍点部。
抜粋下線は引用者のお気に入り箇所。

・たそがれの内面世界
人間はゆったりとくつろぐとあの内面世界に旅することができる。本にすっかり夢中になっている子供は魂空間の「中」にいる。が、われわれのほとんどは内面世界の奥深くまで踏みこむことはきわめて難しいと感じる。それはあたかも、長いロープで客観的な世界──そして客観的な心──につながれているかのようである。われわれはある程度までは緊張を解くことができる。が、そのうちロープが伸びきってしまい、そこで停止を余儀なくされる。これに対し、途方もない安堵感を体験したり、誰かに強く魅せられて「心を奪われ」たりしたとき、われわれはロープを切り、われわれの内部にあるあの未知の世界の奥深くへ入ってゆく
(…)
 そのうえ、これが肝要な点なのだが、精神界の奥深くまで入れば入るほど、深くくつろぐことができ、直観力も冴えてくるあの主観的な心の世界は、客観的な心のとげとげしい昼の光とはまったく異なっており、輪郭はもっとなだらかで柔らかく、色彩はもっと精妙であり、そこの日中はわれわれの世界のたそがれに近い。われわれの直観がしばしば最も強力に働くのは、たそがれ時である。したがって、この直観の世界においてわれわれは、昼間意識のぎらぎらしたとげとげしい光の中では見すごされ無視されているあらゆる種類の事柄を「知って」いることを、忽然と悟ることになる。
「4 長かりし徒弟時代」p.104-105

・創造的思考の仕組み
創造性には、鳥のように主題の上を舞い、取捨可能な多くの選択を見てとることが必要である。そうして、鳥は鷹のように舞い降り、こうした可能性のうちの一つを──別の可能性をつかむこともできるのに──敢えてつかみ取る。言うまでもなく、ここで私は「左脳思考」と「右脳思考」の違いについて語っているのである。人間は真に選択の自由を持っているという事実を証明するには、右脳はその「鳥瞰図的視野」で百の可能性を知覚し、左脳はそのうちのどれを選ぶかを決定する、という創造的思考の仕組みを理解しさえすればよい。
同上 p.112

・能動的想像
「もし魂が、意識を保ちながら超感覚的世界に入ることのできる能力を獲得しようと願うなら、まず第一に、根本的には創造活動にほかならない或る活動を内部から開花させることにより、魂自身の力を強くしなければならない」(…)人間は、地球にもたとえられるほど大きな内面世界をもっているというオルダス・ハックスリーの言葉は前にも引き合いに出したことがあるが、神秘学者はこの内世界を「アストラル界」と呼んでいる。魔術の伝統に従えば、物質界を旅するようにこの世界を”旅する”ことができるようになるという。根本的に要求されるのは、まざまざと思い浮かべる高度に発達した能力である。それには、現実の対象と同じくらいはっきりした表象を喚び起こすよう自分を訓練することが必要である。最も簡単な行の一つを例としてあげよう。木製のさいころを思い浮かべてみる。それをまざまざと思い浮かべるようにし、頭の中で、ころがしたり、いろいろな角度から眺めたり、木の感触を確かめたり、匂いを嗅いでみたりさえするのである。そして遂には、目を開けていてもまざまざと思い浮かべて、そのイメージを現実界に投射することができるところまで行かなくてはならない。この修行についてのある権威者が語るところでは、達成まで毎日十五分の行で約一か月かかるという
 ひとたびこれが達成されると、次の段階は、「タットワ・シンボル」──地、風、火、水およびエーテルの象徴──が描かれている五枚一組のカードを作ることである。これらの象徴はそれぞれ黄、青、赤、銀、黒で彩られなければならない。それが済んだなら、ひとつの象徴を選んで、「残像」が生じるまで凝視する。この残像はもとの色の補色で現れるだろう。さてここで目を閉じ、先に選んだ象徴をその補色でもってまざまざと思い浮かべてみる。これは門口とみなす必要があり、次の段階はこの門口を──創造裡に──くぐり抜けようとすることである。これが「アストラル旅行」の第一段階である。どういう象徴が選ばれるかによって、門口の向こうの”風景”は変わってくる。そして、熟達した「アストラル旅行者」の話では、この風景は現実界の風景と同じように探検することができるという。
(…)
この視覚化という考えには「非科学的」なところは少しもないのである。心理学者ユングはこれを「能動的想像」と呼び、この力は、誰でも育てていくことのできる能力であることを少しも疑わなかった──もっとも、適切な指導者なしにこういった能力を育成することは危険だと警告してはいる。
「6 オカルティストと導師」p.174-176

・教育
わけても注目すべきは、子供たちに自分たちは教育されたがっているのだということを納得させることこそ教師の役割にほかならないとシュタイナーが考えていたという事実である──これは、ほとんどのドイツ人にはつむじまがりの逆説のように思えたにちがいない考え方である。
「8 大惨事」p.222

・プルーストの探究
「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓は地の生き物なのだが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
(…)
ほとんどの人は、自分は個人であるという意識と、自分をとりまく世界の圧倒的な現実性との間の相克が人生なのだということに気づく。世界のほうが私たち個人よりも遙かに大きく、重要でもあるように見えるのだ。この感じは、私たちが疲れたり、がっくりしたときに増大し、そういうときには、自分が海岸に打ちあげられたクラゲみたいに外面世界に「立ち往生」していると感じる。(…)
 それでも、心の奥底では、これが真実ではないのだ、と分っている。何かの匂いや味、あるいは一行の詩か数節の音楽のおかげであの内面世界を想起させられるだけで、もう私たちは、暖かさと強さが自分の内面にどっと溢れてくる不思議な体験をする。プルーストが紅茶にひたした菓子を味わったときに体験した感情がまさにこれであり、この感情はプルーストにこう書かせた。「私は凡庸で、偶然で、死すべきものであるとは感じられなくなっていた……」
 プルーストは、この感情、この気持を意のままに甦らせるにはどうしたらよいか、という問題を探究する目的にあの厖大な長篇小説を充てた。ルドルフ・シュタイナーはこの問題への解答を発見した。初期に幾何学と科学を研究したおかげで、シュタイナーは自分の内部深くに沈潜する「こつ」をおぼえ、遂には、内面の領域もそれ自体で一つの世界、いわば、「代替的な現実」を成しているのだという考えがひらめいた。ひとたびこのことが分ると、シュタイナーはこれを忘れぬように気をつけ、毎日、一定の時間を割いて、この真理を自分自身に想起させた。
「9 後記──シュタイナーの業績」p.234-235

・シュタイナーの思想
シュタイナーは、「サイキックな能力」や隠れている師たちとの接触といった面で私たちの注意を惹く人物ではなかった。シュタイナーの真骨頂は、ゲーテを論じた本や『自由の哲学』や『自伝』に見出される思想にこそある。これらの本で自分が述べていたことは、のちの自分の思想の土台になった、とシュタイナーは主張しているのだが、実のところ、私たちとしては、のちの思想のほうは無視するか、または単なる知的好奇心でそれを研究し、右に記した初期の著書こそ重要なのだという気持から少しでも逸らされることがあってはならないのである。
同上 p.240-241

・現実忘却と居着き
 シュタイナーの本質を把握するには、『ファウスト』の冒頭の場面を読み返してみさえすればよい。過労の学者が、気をめいらせ、疲労困憊したあげくに自殺したい誘惑に駆られる。だが、毒を口元まで持って行ったとき、復活祭の鐘が鳴りだして、子供時代の記憶が滔々と甦る。あの「プルースト効果」が生じたのだ。こうしたファウストは幸福の涙に溶けこみながら、人生は無限に複雑で、無限の刺戟に満ちたものであることを想い出すのである。
(…)
 ファウストと荒野の狼(シュテッペンウォルフ)が抱えていた真の問題は、二人とも、この「別の」現実──モーツァルトと星々という現実ないしは実在を忘れてしまうことを自分に許したばかりか、反対側の極端にまで走って、人生は味気なく、むなしいという感情を土台としてその上に精神的視覚(ヴィジョン)を築いてしまったということなのである。
同上 p.243-244
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『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』(C.ウィルソン)の抜粋です。
図書館から借りた本なので線が引けず、貼った付箋箇所からの抜粋。
今すぐに何かは書けません(あまりに頭ごちゃごちゃしている)が、時間をおいて、また何かに対して連想がはたらいた時に引用したくなるだろう箇所です。

以下、下線は引用書の傍点部。

・心の顕微鏡
一万年くらい前から人間は主として個々のものに集中する能力のおかげで生存を保ってきた。人間は存在にまつわる無数の問題や複雑さを処理するために、いわば心の顕微鏡を開発した。今ではそれが第二の天性となっており、常に顕微鏡を通して世界を眺めている。しかしながら、問題はそれによって、視野が狭くなっている点にある。われわれは現在という狭い地平に閉じこめられてしまっているのだ。この顕微鏡の大きな欠点は、すべての問題を過大視し、ものごとを針小棒大に見てしまうということにある。
「1 内宇宙への門」p.31
・反唯物論
シュタイナーの時代には、学校や大學は、誰が見てもあきれるような嘘っぱちの思想を教えていたのである。つまり、人間は機械であり、宗教は迷信であり、進化は適者生存に基づく純然たる機械的プロセスであるということを、最新の考え方として教えていたのである。立派な聖職者はこれに対して烈火のごとく怒ったが、その偽らざる憤りは事態を悪くするだけだったようである。(…)したがって、唯物論は嫌いだがさりとて正統的な宗教にも与することのできないシュタイナーのような人間にとっては、唯物論者を論駁する科学的な方法を見つけることが肝要だった。それだからこそ、シュタイナーの自伝で若い頃のことが述べられている部分に、何十頁にもわたって、シュタイナーがむさぼり読んだ哲学者のことが書かれているのだ。シュタイナーは、唯物論が誤りであることをはっきり証明しているような思想を探していたのである。
「2 幻視者の少年時代」p.44-45
・フィヒテ
 シュタイナーにとって、こうした知的な同盟者のうちでとびぬけて重要だったのは哲学者フィヒテだった。百年ほど前にフィヒテはカント哲学によって絶望の淵に投げこまれていた。カント哲学は、われわれの感覚は嘘つきであり、「物自体」はけっして知ることができない、ということを証明しているらしかった。もしカント哲学が正しいなら、人間は虫けら同然のものになってしまう。ここでフィヒテは重要な精神的飛躍をなしとげた。われわれは坐って考えているときにはしばしば混乱し確信がもてないでいるが、活発な行動を始めるやいなや、疑念は、朝日を浴びた霧のように消えてしまう、ということにフィヒテは気がついた。
同上 p.45
・ブレンターノ
 フィヒテと同様ブレンターノも一つの単純で強力な洞察を有していた。ブレンターノによれば心的行為と肉体的行為のあいだには根本的な違いがあるという。もし私が雪の上ですべって仰向けにひっくりかえったとするなら、それは非志向的な肉体的行為である。非志向的な心的行為というようなものはありえない。私が思考する場合、何かについて考えなくてはならない。私はその何かに心の焦点を合わせなくてはならないのである。すべての心的行為(思考、意志、愛すること、何かを想い出そうとすること)は、暗闇を貫くサーチライトの光線になぞらえることができよう。すべての心的活動には意志の要素、つまり「志向性」の要素がある。だから、心的活動を化学になぞらえ、流れに浮かぶ葉のように心的活動もいわば漂流しているとみなすことは大変な間違いである。心的活動は目的をもって流れるか、それともまったく流れないかのどちらかなのだ。
同上 p.47
・ゲーテ
 ゲーテはシュタイナーの知的生活に他の誰よりも大きな影響を与えた人物だった。『ファウスト』を読んだシュタイナーは、これで私は唯物論的哲学者たちを退けることができると強い確信を抱いた。さらに嬉しかったのは、ゲーテが自分と同様、科学に熱中していて、独自の非唯物論的科学哲学を作り上げていたことだった。ゲーテにとって自然とは「神の生きた外被」であり、自然は絶えず創造のプロセスにあるという事実を認識したとき初めてわれわれは自然を理解できる、とゲーテは考えた。
同上 p.49
・ロボット
 現代人はワーズワースのようには自然の「実在」を経験することができなくなっているが、その理由を把握することは重要である。現代人は非常に複雑な生活に対処するために自分の存在の機械的な部分を発達させたのである。この機械的な部分は「ロボット」と呼ぶことができよう。車の運転とか外国語を話すといった難しいことを覚えようとする場合、意識的に、骨の折れる努力によってそれをしなければならない。が、そのうち「ロボット」がそれを引き継ぎ、「私」がするよりは遙かに速く効率的にやってのけるようになる。ただここで困るのは、ロボットは、車の運転とかタイプ打ちといったような、こちらがやってほしいと思っている事柄だけを”引き継ぐ”のではなく、音楽を聞いたり田舎を散歩したりといったような、こちらがやりたいと思っている事柄まで引き継ぐのである。急いでいるときなど、本当に楽しむことなく”自動的に”食事をすることだってある。ロボットはわれわれから経験を奪う傾向があるのだ。
同上 p.53
・深い静けさ
催眠術をかけられた人は、深い静けさの状態に入って物質界とのつながりを忘れるようにと説得される。現代人にとってはこれはめったにない状態であるが、それは外界が騒ぎ立ててあまりにも多くの注意力を要求するため、ついには外界から去ろうとする習慣を放棄してしまうからである。(…)しかしながら、われわれの内宇宙を訪れるには──書物に没頭したり音楽に聞き入ったりする場合でさえ──こうした過剰警戒の習慣は捨てなければならない。そして、心の底からくつろぎ、心配(結局のところ、そのほとんどは全く無用な心配である)のすべてを忘れる習慣を獲得することが必要である。シュタイナーはワーズワースと同様、生まれつきこの習慣をもっていたようであり、子供のころの牧歌的な環境のおかげでこの習慣が深く根づいていった。
同上 p.56
・つかみとる手
ハルトマンによれば、意識の目的は生物にもっと多くの知覚を与えることにほかならず、意識は電灯の発明にたとえられるという。事実、われわれのほとんどはこういう見方を当り前だと思っている。これに対してシュタイナーは、意識は能動的な力であり、その目的は問題に焦点を合わせ集中することだと本能的に感じていた。意識は光ではなくむしろつかみとる手だというのである。そして、このつかみとる手は建設し創造することもできる。
「3 ゲーテ学者」 p.66-67
・神智学
シネットは、神智学は科学と宗教を別々にしておく必要を認めないと断言する。物理学と霊性は融和させうるものであるどころか互いに依存しあってさえいるというのであるが、これはシュタイナー自身の深い確信でもあった。
同上 p.78
・時間が空間になる
>>
 霊的な意味では、「過去」の事柄は本当は消え去っておらず、依然としてそこにあります。物質生活においては人間は空間についてしかこういう考え方ができません。一本の木の前に立っていてからその場を離れ振り返って見ても、その木は消え去ってなどいません……霊界においてはこのことが時間についても言えるのです。もしあなたがある瞬間に何かを経験したとしても、物質的意識に関するかぎりそれは次の瞬間には消え去っています。が、霊的に見た場合は消え去ってはいないのです。木を振り返って見ることができるように、それを振り返って見ることができるのです。リヒャルト・ワーグナーはこのことを知っており、注目すべき言葉を残しています。「ここでは時間が空間になる」
(一九一八年に行った講演「死者はわれらと共にある」より)
<<
「4 長かりし徒弟時代」 p.93-94
・死者と交信する
 この講演においてはシュタイナーは死者との交渉という問題について雄弁に語っている。(…)
>>
 われわれは眠りこむ前や目ざめる前に死者に出会います。(…)
<<
 シュタイナーはさらに、眠りこむ前の瞬間は死者と交信するのに特に適していると言う。もしわれわれが死者に何かを尋ねたいのなら、眠りこむ瞬間まで「それを心の中に」保持し」、それから問を発しなくてはならない。(…)
 さらにもうひとつ人を面くらわせるようなことが書いてある。われわれが死者に問を発する場合、その問というのは実は死者から来ており、したがって、答えはわれわれから来るというのである。
同上 p.94-95
・右脳の「観賞」
右脳──「もう一人の自分」──は直観や「総体的な意味」や型(パターン)を扱う。それは音楽や詩を観賞する部分である。左脳は顕微鏡を通して世界を注視するのであり、「今ここにある目先のこと」に取り憑かれている。左脳は言語、論理、計算を扱う。
 脳のこの二つの部分が非常に密接に働き、その結果それらがお互いの存在を実際に感じることのできる時がある。心の底から緊張を解き、「観賞」の気分になったとき、私はくつろいで右脳の中へ入っていくように見える。こういう状態のとき、私は遙かに直観力が研ぎすまされ、記憶力も確かになっている。
 ところで、右脳はハドソンの言う「主観的な心」であり、左脳は「客観的な心」であると想定することのできる証拠がある。
 こうしたことすべてから生じる最も重要な点は、文明人のほとんどは左脳に閉じこめられ、能率的に働くことや外界に「対処」することの必要に取り憑かれて日々を過ごしている、という事実である。文明人は心の底からくつろぐことができず、言うならば、潜在意識的には緊張状態にあって常に電話が鳴るのを待っている人のようなものである。
同上 p.103
『権力を取らずに世界を変える』(ジョン・ホロウェイ)に、

アイデンティティ(「〜である」)の支配は時間を空間化する、過去も未来も現在に従属させてしまう(過去は現在の参照項として、未来は予見可能な現在の延長として)、とあった。

言いたいことはわかるし、同感だなと思う。

が、このことと、行為(〜すること)より状態(〜であること)を志向するという現在の自分の興味との関係がおかしいなと思った。


状態を志向する、という言葉がたぶん微妙で、
それはある特定の状態を維持したい、というものではないはず。

存分に変わるために、変わり続けるために環境を整えるという意味で、ある状態(基盤?)を目指す。

僕の使う「状態」は自分自身の内なるものではなく、アフォーダンスを考慮した「自分を含む周囲環境」を指していると気付いた。

ホロウェイさんによればそれはアイデンティティへの拘りとは遠く離れることになる…そんな気もする。


うーん、出たとこ勝負で言葉に意味を与える使い方をしていると面白いけど怪しいな。
「状態」は言いなおそう。
でも「環境」だと味気ないね。
何がいいだろう?

時間をとりもどす?
うーん。
(…)フランスの革命の時に、バステユという牢屋を打壊して中から罪人を引出してやったら、喜こぶと思いの外、かえって日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入っていたがったという話があります。ちょっと可笑しな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないといいますからあるいは本当かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とかいうのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本来の傾向もそういう風に矯めることが出来ないとも限りません
 こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それなら何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴れ添わない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う

夏目漱石『私の個人主義』p.87-88(「中味と形式」)

この本は年末年始に読もうと思って帰省前に自室の本棚から選んだ一冊である。
普段読まなさそうなものをと思い、行き帰りで読み終えられそうな薄さだったのも好材料だったのだけど、結局行き帰りで読み終えることはできず(読んだのは行きだけで、帰省してから戻ってくるまでは『太陽の塔』に夢中になっていた)、週末カフェ本にスライドしたのだった。
それで今日もブックオフで良い出物があり(赤瀬川源平と尾辻克彦の共著って一人二役やないですかの『東京路上観察記』とかつて一世を風靡したらしい小田実の貧乏旅行記『何でも見てやろう』の2冊)、ほくほくしながらベローチェに向かい続きを読んでいると、何の因果か今の自分にタイムリーな話が出てきたので抜粋してみた。
(関係ないけど、抜粋の最後で「爆発」と「穏当」が並んでいるのが面白い。同じ意味の文章を書いても僕にはこのような表現を選べないなあと思った)
分かりにくい言い方だけど、行きに読んでた中ではこういった感じの内容はなかったはずで(小節のタイトルは「道楽と職業」と「現代日本の開化」)、そうはいっても本書全体に通ずるテーマというか通奏低音はあるはずで、ならば今回のゆくくるの進行を導いたのはこの本だったのかもしれない。
読書において本の偏りはあっても「偶然の出会い」はとても頻繁に起こっていて(この内容はあの本にも書いてあったとか、これはまさに今自分が知りたいと思っていたことだとか、この部分は昨日カフェでみたあの高校生のような人のことを言っているのではないかとか)、それは単なる偶然ととらえるよりはこの読書こそが自分の生活を形作っているあるいはベースとなっていると考えたい。
そう考えた方が、前向きになれるからだ。
その方が、自分は変われるのだと思えるからだ。
今回のゆくくるを書く間深く考えてから、自分の価値観や対人挙動の一つひとつに今までは意識していなかった「刻印」が見えるようになった。
一度知るともう後戻りはできなくて、これから僕がしていくべきことは、その一つひとつをしっかり見る、把握することだ。
それをどうするかは個々別々だし見てみないと分からないが、見ようとしなかったことが見えるだけで状況は変わるし、対処法もその時に分かるのだと思う。
習慣の力は恐ろしいが、習慣を克服するために必要なのも習慣の力だ。
「考える前に考えるんだ」(これも偶然今日の夕食時に読んだ内田氏ブログにあった話)と同じことかもしれない。
急がば回れと言うけれど、急がずとも回ろう。
くるくると。
既に内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というのも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元の儘に据えて置いて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。(…)内容の変化に注意もなく頓着もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度を以て、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推して行ったならば危ない。
同上 p.89-90
最後の方を書いてて思ったけど、自分が好んで読む方々の思想の折り合いを自分の中でつけねばならんなと思った。個々に読んでいる間は「なるほど!」と思っても、そのなるほどが別の本の否定に思ってしまうということはその両者の思想が自分の中で敵対しているということだ

だから、本の内容を自分の内に吸収するということは、別の著者の言うことと相性良く自分の中に住まわせるということだ。これは誤読というか一著者の思考の曲解にも繋がるのだけど、読み手に重要なのは誤読をしないことよりも「自分にとって良いように読む」ことだ。

(…)

つまりここに書いた方々のみんなから自分に取り込めるものを探すというのではなく、一つの本を読むその都度に感心したことについて、「なぜ自分が感心したのか」を問う、ということだ例えば。他者とか常識の価値観を借りて感心してるだけかもしれないんだ
これは昨日の記事を書き終えてからツイッターでつぶやいたもの。
書き過ぎて疲れた後に、ふっと余韻のような、整理体操のような感じでこういう言葉が出てくるんですね。
無理はしてみるもんです。
調子に乗っただけだけど。

それでこの指摘が自分にとって革命的だと思ったのは、今まで自分の好きな本はだいたい「なるほど!」と納得しながら調子良く読んできたのだけど、その「なるほど」同士のリンク付けは興味を持ってやっていたけど「なるほど」そのものの質を問うという発想が無かったからだ。
つまり「なるほど」と思える何かしらの文脈を発見した時点で良しとしてきたということで、上記の通りその文脈を(自分が大していいとも思っていない)他者の考えや(自分が距離を置きたいと思っている)常識から持ってきている可能性を検討したことがなかった。
筋の出自がどうであれ筋が通っていれば論理的だ、というようなまるで主体的でない読み方を時々していた…と書いてもまだやわな方で、実際は客観的思考をすべく進んでそのような読み方をしていたのではないか。
そしてたまに自分の感覚に沿う文脈を見つければ「お、これはいいなぁ」と感心するのだけど、この感心と上記の(文脈が無文脈的な)「なるほど」との間に明確な差をつけていなかったのではないか。
もちろんそのような読み方で読書を楽しむことは達成できるけれど、「自分を変える」という意識を持って読むにしては無節操に過ぎるのだ。
…しかしこの無節操な読み方も「流れに呑まれりゃ流される」渡世法とちゃんと通じてしまっていてその点違和感はないのであって、けどそれはイヤだというのはやはり「自分が流されたいと思う”流れ”を選べていない」所にある。
ここが本当に難しくて、いやだんだん言い訳じみてきたけれど、なんか就活してる時に似たことを書いた記憶が甦ってきたけれど(これです)、「流される”流れ”を選ぶ」振る舞いは「(純粋な?)流されの作法」からすれば怠慢だみたいな今書けば屁理屈としか思えない論理が長いこと自分の中で幅を利かせてきたことは事実なのだ。

別に恨むつもりはないが、カント的直観によれば森見登美彦のせいかもしれない。
自分を読書生活に導いた作家がモリミーという点がまず壮大に怪しい(笑)
今『太陽の塔』を読みなおせば、何かが起きるのだろうか。
社会人になってからそれをすることにこれまで何度も躊躇してきたのは「もっかい読んでつまんなかったらどうしよう」という虞のためではなく、「社会人適性値が下がりそうで困る」なんて笑い話的な理由に留まらない、何かが。

…年末文庫版持って帰ろうかな。
絶句してない絶句。

 ズバズバ書けると 思ったら
 そうは問屋が 卸さない
 下ろす鋏は 空を切り
 返す刀で 人を斬る
 おろす大根 鼻に突き
 返すアスパラ 茎腐り
 筆を下ろすと 紙がある
 指を下ろすと メカがある

+*+*+*

田口ランディの日記が面白い。
今は『くねくね日記』を読んでいる。
「ふつうの主婦」に偉人変人が吸い寄せられている。
なんというバイタリティ、と驚いている。
そして紡がれる言葉に「すごく共感できる」ことが凄い。
性質として具体的な人が、抽象的な話も厭わず語る。
具体的な話と抽象的な話が、「一人のひとが語っている」ことが分かる。
それにはランディ氏が会った色々な人の話が多く混じっている。
けれどその人の話が、ランディ氏を媒介して、氏の語りになる。
「もう何言ってっかわかんねーよ」という諦めも、媒介の一つの形。
「全然共感できないけどそういう人もいる」という断絶も一つの形。
媒介というのは、物語がその人の「身体」を通り抜けることだ。
だから理解を超越する話にも共振できる部分がある。
読んでいて、気持ちが動く。
分析的な読解が全く要求されていない。
「身体寄りの言葉」の使い方がよく分かる。
そこには同時に知性も存在している。
つまりそれは「分析的でない知性」ということになる。
これと本の中で出会えるというのは、稀有なことだと思う。
本文はずっと前の話だけど(まだ二十世紀末)、思わず「頑張れ」と言いたくなる。
きっと日常の中で言葉にならない想いを、言葉にしてくれている。
それが自分の想いに沿うかどうかは、実は副次的な問題に過ぎない。
時に突拍子もないこと、不謹慎なことが書かれ、オカルトだって辞さない。
けれど「言ったことは全部私が引き受ける」という意志が行間に溢れている。
ウチダ氏のよく言う、身銭を切る、というやつだ。
そして体を張って発言して世間(マスコミ)の波に揉まれる所まで生々しく書かれる。
なんということか、と思う。

もっと読もう、と思う。
ロバートといえばガルシア。

ひょんなことからロバート・キヨサキのあの有名本を読むことになった。
実家にあったのは覚えていて、でも読んだかどうかは記憶にない。
初版が2000年だから読んだとすれば高校生の時。
けど当時は感想文のためにしか読書しなかったから当てにならない。

と思ったけど、読み始めるとなんとなく見覚えがある。
と思ったのも最初だけで、立ち読みでさわりを読んだだけかもしれない。

なんだか同じ言葉の繰り返しが多いけど、スピードを落とさず読める。
分かりやすい本とはこういう本のことを言うのだろう。
しかし90刷(2012年)というのはすごいな。
この本が売れ続けて、世間のお金に対する認識は変わったのだろうか。

まあそれはよくて。
まだ途中だけど、読んでいて少し思うところがある。

高校生か大学生くらいで読んでればもう少しテンション上がっただろうなと。
「本当はもっとわくわくしながら読まれる本だろうな」と思いながら読んでいる。
つまり冷めているのだけど、この本が嘘っぱちだと思うわけでもなく、
むしろこの本で提示されているものの見方に共感できる。

あとは、"金持ち父さん"になろうと思ったら、この本を「おおおすげー!」ってな読み方をしていてはいけないのではないか、とか。
「お金のことをしっかり学ばなければ"金持ち父さん"にはなれないってこの本に書いてあるけど、この本をしっかり読めばお金のことなんて学ばなくても(手っ取り早く)金持ちになれるんだ」といった読まれ方をするのがハウツー本の宿命ではないか、とか。

結局ものの見方の一面だけが(さもそれだけで良いかのように自信たっぷりに)提示されてしまうと、その内容に関わらず眉に唾をつけてしまう似非インテリ人間は「マユツバ症候群」と診断されて差し支えなかろう。

いや、文学的でないってだけで、この本面白いですよ?
アイロニーとは演劇性のことでもある。
 僕自身というものがはじめからない僕は、透明人間が体中に繃帯をまきつけ、黒メガネをかけ、マスクをしたように、たえずなにかの役でからっぽの僕を塗りつぶしてきた。中学生、白黒帽をかぶった高校生、それから星一つの肩章がついた軍服をきた兵隊さんという役。これらは主役のほうだが、その他なんでもござれだ。こんどはコレラ患者という役か、よろしい引受けた。役者である僕は観客から受ける演技をしさえすればいいのである。
 コレラ菌が僕の身体を侵し、僕を殺すと感ずれば、怖ろしさに気が狂うかもしれない。が、僕には僕自身が見えないのだ。僕自身が見えないのに、僕の死が見えるわけがない。だから、僕は平気でいるよりしかたがないではないか!

「赤鬼がでてくる芝居」(田中小実昌『上陸』p.54-55)
アイロニーは日常に対して負担になると前回書いたけれど、それは(一般的であるにしろ)ありうる形態の一つであって、抜粋のような「演劇的な生き方」は意識せずともアイロニーが思考のベースになっている。
それは一つの「突き抜け方」であって、だから負担でもなんでもない。

「究極のアイロニーとはこれか」と思って(「人は死ぬために生きてるんだから人生に意味なんてない」というのもその一つだけど、話を単純にし過ぎるこの手の思考とはベクトルが真逆であって、ふつーの人から見る「底知れぬ未知の闇」がそこにあり、田中氏がしごく平易にこのようなことを語れることもその闇をより深くしている)、そういえば最近似たような話を読んだと思って探したら、こんなものが出てきた。
かつて「私と仕事と、どっちを愛しているの?」と訊くのは専一的に女性であった。
ただし、女性にとってこれはあくまで修辞的な問いであり、この問いの含意はストレートに「そんな『くだらないこと』してないで、私と遊びましょ」というラブリーなお誘いであった。
かかるオッファーに対して回答を逡巡するような男は再生産機会からただちに排除されてしまうわけであるから、答えは「もちろん君さ」以外にはありえない。
それに、男が夢中になってやっていることの過半は、分子生物学的スケールで見るならば「くだらないこと」以外の何ものでもないのである。
そのことを定期的に男たちに確認させるのはまことに時宜にかなったことと言わねばならない。

「幼児化する男たち」(内田樹の研究室 2010年6月23日)
この「分子生物学的スケール」というのは『生命の意味論』からの抜粋にある「男は余剰」を指していると思う(そうなるとウチダ氏のいう「過半」の指すものが分からなくなるけれど)。

要するにアイロニーは「取り扱いに注意」と。
「諸刃の剣」がやたら攻撃力が高いのも頷ける(ドラクエⅢの話です)。
海馬判断

2013/02/04 23:03
タツノオトシゴの尻尾みたいにクルクルと巻いたように見える部位。記憶を一時的に蓄えて、その中で必要なもの、いらないものをあとからじっくり選ぶのが海馬の役割です。その海馬で選ばれた記憶が、大脳皮質に蓄えられる仕組みになってます。
(…)
脳は、物事を組み合わせれば組み合わせるほど、覚えやすくなります。意味のある言葉でも、ただの文字の羅列としか脳に入ってこなかったら、記憶できない。その文字の背景にある意味、映像、イメージ、音、そういったものが連合されて、はじめて記憶できるようになっているんです。それ、当たり前なんですよね。意味のないものを覚えるのは、脳にとってエネルギーの無駄な消費ですから。そういう余分なことをしないよう、脳は非常に合理的にできているんです。

池谷裕二、樋口清美、糸井重里「記憶のお話」(糸井重里『経験を盗め』p.53,55-56)

これを読んで、物事が記憶に値するかどうかの判断を海馬に任せてはどうだろうと思い付いた。

「これは重要だから覚えておこう」と思って頑張っても記憶できなければ、それは重要ではなかった。
ちょっとしたことから連想がふわふわ働いて、それが日常のある場面で何度か思い出される時、その連想はじつは重要であった。

「記憶のお話」では記憶力を良くする技術のようなものが紹介されていたが、これに熟達するということは、「内容に関わらず記憶すること自体を重要視することになる」と言えると思う。
見方によっては、本来の自分の必要性に従った「海馬判断」を鈍らせることになるんではないだろうか。
もちろん記憶術を会得することは自分自身が変化することなので「本来の」と書いたのは「変化する前の」と言い直すべきだろう。
それでも、そういう変化を望まないこともできる。
この「海馬判断」を「無意識に聞き耳を立てる」こととみなしてみたのだが、どうだろうか…。
つまり、自分が頭で望んでいることよりも、思った通りに記憶力が働かなかった経験が示す(それは直接的ではないと思う)願望の方が「ほんとう」に近いのでは、という。
「脳の身体性に従う」という表現をすれば刺激的だけど、これは語弊があるかしら。。
脳も身体の一部であるから、意識的でない脳の作用を身体的と呼べないか…単に無意識でいいか。
今日から読み終えた本について、読み終えた時にコメントを添えようと思う。
文字数は気にせず、コメントの内容も「書けることを書く」くらいの自由さで。
感想でも、本の中で印象に残った内容でも、連想したことでもいい。
気分転換の一環としてまずは習慣付けてみよう。

コメントはソーシャルライブラリに書きます。

ついでに覚書をもう一つ。
読中の本で、インスピレーションが湧いた箇所があればその時にコメントを付そう。
記事の頭に抜粋して、その下に同じく文字数を気にせずつらつらと書く。
同じようなことを前に書いたと思えば、「書かない」でなく「その続きを書く」で。

後者の記事には抜粋した本の著者名をタグに付けようかな。

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