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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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サイレント・マジョリティ。

新聞やネットなど言論の場にはごく一部のひとしか関わっておらず、生活者の大部分はそれを享受するだけの傍観者だということ。
テレビの街頭インタビューに応じる人には偏りがあり、新聞に投書する人にも偏りがある。
だからマスコミの取り上げる「国民の意見」はその実際と隔たりがある。
それはまあそうで、「その実際」を知りたければ、偏っていることを前提とした「国民の意見」をもとに想像力をはたらかせなければならない。
基本的にマスコミは想像力とは無縁なので、マスコミの素材は想像の素材にしかならない(ものごとに対する「直接の判断材料」にはならない)。

という話は一冊の本に書かれてあることの「行間を読む」ことと関連がある。
想像力の使い方が似ているのだ。
本当に大事なことは行間に書かれている。
この意味は、本当に大事なことは(諸々の規制がかかって、あるいは「言葉にならない」ために)活字にされないから、あるいは読み込む読者の事情次第だから、といったところにある。
「諸々の規制が…」の方は、建前として理由に挙げられるだけで、実際は活字媒体を選ばなければ(昔は機関誌、今はネット掲示板かしら)規制などあってないようなものである。
「言葉にならない」の方は、文学を思い浮かべればよい。

思ったのは、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知るにはどうすればよいか、ということ。
例えば、「世の中に出回る言葉」に全く触れずに生活している人(地方の田舎に住み、新聞をとらず、ネットもしない→Aさんとしよう)は、それを直接知っているのだろうか?
論理的にはイエスだ。
けれど、それを知ろうとしているのは誰であったか?
例えば(郊外に住み、新聞をとり、ネットでも情報を得ている)僕がそれを知ろうとしているのであれば、このイエスには意味がない。
すると、それを直接知ろうとするなら、僕はAさんのような生活をしなければならないのだろうか?
この疑問は、「世の中に出回る言葉」に触れている限り、それが伝えないことを直接知ることができないことを前提している。
(疑問形が続いてややこしいが)それは本当だろうか?
それを知ろうとする目的が、「世の中に出回る言葉」に振り回される人々にもっと落ち着いて欲しいという願いを叶えるためにあるのならば、それを「直接」知ることに意味はない。
しかし、この断定の裏には「当事者の気持ちは当事者にしか分からない」というイデオロギーがある。
その通りであることも多いからイデオロギーなのだけど、それで全てではない。
つまり、無理やりまとめるならば、直接か間接かを問わなければ、どのような生活をしていようと、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知ることだけはできる。
ただ、それに「それを他人に伝えること」も含めれば、想像力は必ずいる。
事実をそのまま言えば相手に伝わるほど、言葉の仕組みは単純ではない。
だから当たり前だが、これはマスコミの仕事ではない。

そういえばまた「そろそろ新聞止めようかな」と今日思ったのだった。
配達の人がいい人だからいつも意思を貫けないのだけど、今度こそは。
ということでおぼえがき。
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