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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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風邪をひいて何をするにも億劫なのだけど、サラダと味噌汁の具の仕込みは日課なので体調に関わらずやる、ということで野菜を切っていると元気になった。
主夫の素質は家事の出来不出来ではなく「家事をやっていて元気になれるかどうか」だと思った。

以下、野菜を切る間に頭の中でくるくる回っていたものを膨らまそうとしたもの。

・真っ直ぐだった牛蒡を縦に切ると反るというか"くねる"のだけど、これは繊維の細胞の並びに異方性があってそれが円状に配置することで安定していたのがホールケーキを食べる時みたく分割することで潜在していた力が発揮されたことによる。この潜在力こそが「牛蒡力」なのだなあと感心した。(そのこころは…?)しかし真っ先に「ご暴力」を出力することえり氏はホントかわいいなあ。今度から琴絵里氏と書いてあげよう。

・「有機的な知」なるものについて思いが及んだのが有機物と戯れている時というのも頷ける。有機とは生きていることであって、有機的な知とは「変化する知」ということだ。だから間違いなく正しい(これ重複表現だよね)ことは、それそのものは有機的な知ではない。四則演算とか法律とかが有機的たりうるのはその活用時においてなのだが、たとえば法曹の「有無を言わさぬ正しさの力」に憧れるなどと言う時、彼は法律の有機性(通常の言い方では「弾力性」か)を疎ましく思っていることになる。それはいいのだけど、たとえばレタスを冷蔵庫で保存していて芯(の断面)がだんだん赤くなってくるのを見て、「これは動物でいうところの血だろうか」と思ったら、それは知なのだ。チだけに…と言いたいわけではもちろんなく、たぶんじっさいは酸化とか植物の色素が関わっているはずで、けれどそれを本で調べるのではなく時間の経過を細かく長く追うとか他の野菜で同様の観察を行うとかすることで証明(あるいは反証)されていく過程は変化であるし、反証された時には最初の印象(に思考の過程で深められたもの)が知識ではなくメタファーとして頭の中に新たな位置を占めることも変化である。そんな曖昧な把握でいいのか、と言われれば「ええんです。テストに出るわけやないんで」と答えよう。だからテストに出るならちゃんと事実を勉強した方がよいということだ。当たり前だが。

・料理本のレシピには「調理時間」が書いてないものは恐らくないと思う。それは別に構わなくて、しかしそれを読む方がいざ作る時に時間にとらわれることにつながってしまうのは、生活における料理の位置づけを狭めているのではないかと思った。というのも何よりまず学生時代の自分が調理時間を「居酒屋バイトの時給換算」して材料費と合わせて一食にかかる費用を計算した挙げ句「憩食堂(仮)で食うた方が安いやんけ!」と憤っていたりして、今の自分からみてちょっと切なくなったのだった。調理時間の時給換算というのは(バイトでの仕事がそうと言うのではなく)包丁の手応えから切る野菜の新鮮度を推し測るとか計量カップを使わずに味噌汁用の水を鍋に入れて煮込んだ後の汁の少なさ(多さ)から自分の体調・精神状態を想像するとかいった経験を全て捨象する(要するに「金にならん」と)考え方なのだ。実際その時も調理をしている間は楽しんでいたのかもしれないけど、それが「自分が(良いと?)思う生活」からは切り離されていたのではないかと想像されたのが切ないと言った所以だ。今も調理時間を気にすることはするが、それは読書や睡眠の時間と比べてのことだ。そして上のようなことをあらためて整理してみて、(睡眠時間が減るのは困るけど)「読書時間が減ってもいいや」と自然に思えるようになりたいと思った。…実はこの「睡眠時間」というのも曲者で、「7時間半寝たから大丈夫」とか「6時間寝れなかったから今日しんどいかも」とかいう発想は高校時代から変わらず健在なのだけど、その発想自体が良き睡眠を妨げている、というような話が『経験を盗め』(糸井重里)にあったので今度取り上げてみたい。この本ホントいいですよ。オールジャンルの魅力イイトコ取りでどのテーマも「もっと知りたいなあ」と思わせてくれます。うん、ちょうどいい機会だから付箋つけた所読み返そう。

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すれ違いに納得することがある。

「みんなに好かれる人」は時によって、好かれるべきでない人にも好かれることがある。
「好かれる」とは「互いに影響を及ぼし合う距離にいられる関係」が相手主体で形成されることで、好かれる人からは道端ですれ違う人より大きな影響を受ける。
「好かれるべきでない人」とは、その人の影響を受けて自分が望まない方向に変わってしまう人のことで、しかしこれを事前の判断だけで済ませられるほど単純ではない。
「好かれるべきでない人」を選ぶ姿勢が、既に自分のあるべき状態を決めてかかっているとも言える。
それを「自分の状態の理想を思い描いている」と呼べそうだが少し違って、正確には「自分の状態の理想を思い描いた上で、それ以外の可能性を想定していない(信じていない)」ことになる。
理想を描きつつも、そこから逸れる可能性も排除しない。
それが融通無碍。
という理想論は筋が通ってはいて、あとはそれを実践に移せる日常における精神力・体力の問題なのだが、まあこれがいちばんハードルが高いわけで、「簡単に実現しないからこその理想」と表現することで「ハードルが高いほど理想が崇高になる」という概念操作はさっき思い出した「ロバスト設計」ですね。

制御工学懐かしいなあ…

実は今日は振休とって銀行に行ったんだけど、窓口のお姉さんの対応の話をしようとして全然違う話になった。
ちなみに待ってる間は『ビジネスに戦略なんていらない』(平川克美)を読んでました。
「一回転半ひねり」のマッチング。
たぶん。
nは自然数(いまのところn>3)です。

橋本治の文章は表現が簡単で、使われている一つひとつの単語の意味で詰まることがまずない。
きっとそれは「在野の人」だからというのもありそうだが、吉本隆明の難解さ(晦渋なのかもしれないけど読み手との距離はそこそこ近くてきっと衒学的ではない)を例外と捉えるべきかは『母型論』しか読んだことないからわからない(実家で見つけた『共同幻想論』を持ち帰っているので近いうちに読みたい、と以前思ったことを今思い出した)。
表現が簡単なもんだからさらりと読めばするっと理解できそうで、しかし一文を読み飛ばさず思考を丁寧に展開していくと凄いことが惜しげもなくどどどと書かれていることに気付いてこちらの負担が一気に増えて、読み手の態度いかんで「さらり」が「どどど」になる文章はまず凄いのだが、その文章は色々な可能性をこちらに想像させてくれるものでもある。

引用のなかで特に下線を引いた箇所が「まさにその通り!」と僕は思って、読書が日常からの逃避というか気分転換なんかではなく読書と日常が密接に相互に影響を与えていて、この意味は「読書ばかりしている日常」ではなく「仕事とか炊事・食事とか散歩含めた日常に対する読書の影響力の大きいこと」であって、「評論でも小説でも一冊を読み終えるごとに自分が変わったように思える」ことがあながち嘘でもないのだがそれは併読する本が多過ぎて一冊ごとの区切りに意識が向かないことが原因でつまり「”変わってない”という意識がないなら変わってるんだろう」という大雑把な認識が実際のところである。
読書が日常に与える影響は小説だとわかりやすくて、気に入った小説はひとつ決めた音楽と一緒に(最初はスピーカで流しながら、慣れたらそれを脳内で再生させながら)読んでいて、その効果のひとつとして例えば仕事中でもその音楽を頭の中で流せば対応する小説世界が現前する。
現前といって具体的なものではなく、その小説がSFだったりすると具体的になるはずもないのだが、「その小説世界にいる主人公の心持ちが投影される」のがその一例で、ざっくり言えばなんとなくで、なんとなく哀愁を感じながら、とかなんとなく魂の高揚を感じながら仕事ができたりする。
ではその一方の日常が読書に与える影響といえば、本を読んでいる最中に日常の出来事が思い浮かんだりということもあるし、そもそもの「よし、これから何を読もうかな」と本棚を漠然と眺める時に頭を掠めて意識せざる所で決定的な影響を及ぼしているのがその時期の仕事における自分の立ち位置とか先週末にカフェで隣に坐った受験勉強する高校生たちの印象に残った言動だったりすることもある。

なんだか話が「とりたま」(タイトルを愛称化してみた)に近づきつつあるように見えて、べつに「読書と日常のどちらが先か」という話ではなく、というかそのまま当てはめて書いて「なんのこっちゃ?」と今僕も思うことがつまりそういうことで、でも最初に言いたかったことと繋がってはいる。
日常を充実させるために読書をする(ハウツー本読んで仕事の能率を上げる、とか)。
読書を充実させるために日常をこなす(お金ないと本変えないよね、とか)。
そう言って言えないことはないが、じっさいそんなことはないのだ。

物事の連鎖には起源があり、目的があるのかもしれない。
起源はじっさいあったのだろうし、目的が立てられたからこそ連鎖が起こったのかもしれない。
けれど実は、目的は、そして起源も、見出すものなのだ。

+*+*+*

中途半端だけど続く…のは確かだけど、この話自体が続く保証はないです。
今日の分は最初に設定した方向に戻る気配が全く無かった。
さてどこへ行くのか。
昔のブログ読み始めたら止まらない…
SWING(大学時代のジャズ研)にいた頃のを読み返してる間にかるく1時間以上経ってしまった。
憑かれるように読んでしまった理由もないではないが…今はそっとしておく。


で、ちょっと書いておこうと思ったことを、もう眠いので、項目だけ並べておく。

・「自分の感覚に基づく人」どうしのすれ違い
 …相手の事を考えてこそのすれ違い。
  相手の感覚を汲んで行動することは自分の感覚に沿わないことがある。
  それを自信を持ってできるようになるのは、相手のことを深く知れた時。

・言葉か物か
 …同じものを見ていて、興味を示す部分の違いが明らかで面白かった。
  これも上の話と通じるけれど、相手の興味対象に興味を持つ秘訣はあると思う。
  それは相手の感覚を媒介すること。

・振る舞いの場所依存
 …当たり前だけど、いつでもある人を「同じ人」と見ると心が乱される。
  会社は人間性を(メインに)発揮する場所ではない。
  人はそれを混同するものだとしても。
  付き合いが深くなる人ほど、その区切りをしっかりせねば。

・「現場感覚への信頼」の一つ先へ
 …変化を望むなら、これを考えなくてはいけない。
  まあ、望んでないけど。
前に「カンタンに反省してはいけない」というようなことを書いた。

「あの時ああいうことをしたのは間違いだったのではないか…」と、後になってくよくよ考えることがよくあるが、落ち着いて冷静に考えて「こうすればよかったのだ」と考え直すことは、その「あの時」の(現場にいた)自分の感覚を否定することにつながる、と。
つまり、後から落ち着いて考える状況では「あの時」の臨場感が抜け落ちているからカンタンに考えを翻すことができる、という捉え方をしている。

これを逆から考えると、後から落ち着いて振り返った時に「あの時の自分の行動は正しかった」と思えた時、その振り返り(=想像)において「あの時の臨場感」がしっかり再現できていた、と言うことができそうだ。
もちろんその結論ありきで反省するなんてのは反省にならないわけで、そうなると「想像(=反省)における臨場感の再構成」の理想としては、やはり腰を落ち着けて当時の場面(周囲の状況と自分の状態)を思い浮かべ、自分のとった行動とその結果を頭の中で再現したうえで、「まあ、そうなるよな…」という流れが自然であったことの肯定が沸き起こって、「あの時の自分の行動は正しかったんだ」という認識が(ここからが勘所なのだけど)「やっぱり」という自信の確認に因るのではなく「そうだったのか」という驚きとともにもたらされる形だろうかと思う(ここの驚きには「想像で臨場感(現場感覚)を再現することは基本的に難しい」という前提がある)。
こういう経験を何度かしていくうちに、現場感覚に磨きがかかる(「その時」に後で後悔しないような行動を自然に選択できる)とともに、後でくよくよ後悔することも減っていくのではないだろうか(この2つは同じことだが)。

ではその「理想の形」は具体的にどう実現されるのか、ということについては、実はこの記事を「実現できたから書いている」のではなくて「実現できたら充実した感覚が得られそうだなと思ったから書いている」のであって、つまり単に予感にシビれただけでその「できそう」の中身はまだ空っぽのままだったりする。ははは。
まあこの手の話は予感さえ訪れればあとはするっと進んでいく(予感がする)ので、それが経験できて、抽象できそうなら続きを書こうと思う。

キーワードは「するっと洒脱に」ですね。
リアル洒脱(また分からんネタを…)。
手紙でもメールでも、特定の誰かを想定して書かれた文章は、一度書くとその相手に届けたくなるものである。
もちろん最初からその目的で書かれることが多いのだが、そうでない場合もある。
例えばある種の気分屋の人間は、自分の生活の構成要素と誰かの何かが結びつくと思いつきでその相手にメールをしたためる。
そして書き上げてから「せっかく書いたし送らないと勿体ない」などと思い、僅かな逡巡を免罪符に送信ボタンに親指が伸びる。
そんな人間がいるのかと問われれば僕自身少なくとも一人なら思い付ける、とだけ言っておく。

それはさておき、その彼のメールは成分内訳が全て彼自身の都合(要するに「欲望」)で構成されている。
日常でそのメールの送信相手とのやりとりがあれば(そしてその延長としてのメールなら何ら違和感はない…というかそれがふつうだ)まだマシだが、そんなありきたりな脈絡と関係のないところの発想に価値を置く人間もまた僅かだが存在する。
そして彼は自分の作った流れに流されるままメールを送り、後悔することになる。

ではどうすればよかったか?
メールを書くだけ書いて、送らなければよい。
自分の発想を面白いと思って、本当にそれだけなら、それを外に出す必要はない。
外に出したい意思があれば、それには「聞いてもらう相手への気遣い」が必然的に含まれるはずである(常識的な人間ならば)。
その気遣いが面倒だという思いが頭をかすめでもすれば、その事実を以て彼に自分の作文を特定の人間にアウトプットする資格はない。

「出されなかった手紙」とはふつう、相手への募る思いを文章にはしたが勇気がなくて手元を離れなかった、という経緯で生じるものだ。
本記事はそれとは趣旨が違って、つまり「出されることなく落ち着いてしまった手紙はそもそも手紙ではなかった」という話。
抽象すると…
「形式から始まったものに内実が伴うか」という問題提起であって、その否の、形骸化の一例を示したことになる。

どうしてこのような事態が生じるのだろうか?
という問いが、彼の脳内世界と日常生活を架橋してくれる。
彼にダメージを与えるような回答を一つ示すとすれば(何せ彼は社会人なのだ)、想像力の多寡ばかりに囚われるとその使いどころを間違えることになるよ、と。
想像力の軽視を嘆く人間は、その「想像力の軽視が成り立たせている日常」をも軽視しがちになる。
結局それは自分の想像力を(その過信を通じて)軽視することになる。

自分発の問いに自分を繰り込む姿勢について、「それをできていると思っているが実はできてない可能性」を時々想定することは大事だと思う。
そしてそれはルーティンワークではない。


話を戻しまして。
「まがいものの手紙」の判別方法として「塩漬け」を提案します。
「もったいないおばけ」に化かされないようにね。
今まで何度か考えてきたことだけど、タイトルの言葉がパッと浮かんだので軽くメモしておく。

「ご縁」の存在感は現代でどんどん薄まっている。
それは日常においてあらゆる選択肢が増え、世間で「自己決定」が推奨されていることからも分かる。
縁は自分で勝ち取るものではない。
かといって、何も考えずの成り行き任せで出会った全てが縁の賜物かといえばそうでもない。
「ご縁だからね」といった言葉は後付けであることが多いがそれはそういうものだから仕方なくて、問題なのはこの言葉は事実認知ではないということがあまり知られていない(かどうかなんて実際知りませんが)こと。
つまりこれを略さずに言えば、「こういう成り行きになったのはご縁だから仕方ないしどうにもならない」(これは諦めの言葉だ)ではなくて、「(同上)ご縁だからこの流れを大切にしましょうね」(これは意志の言葉)なのだ。

自分が選んだ道ではないけれど、自分で引き受ける意志表示として「ご縁」という言葉がある。
だから仕事も遊びも食事も家具も何から何まで自分の好きなように選べる(こう表現すると「仕事」だけは違和感がありそうだが、選び取れるかどうかは別として選択肢だけなら無数にある)今にあって、選択の際に意思表示をしないことは「主体性がない」とか「優柔不断の付和雷同」などと言われてあまり好まれない。
そして主体性のもとに自分で仕事を勝ち取って(就職「戦線」という表現が勝負というか「戦争」のイメージになっている)、それが想像と違ってあまり面白くなかったりしてでも別の仕事を探す面倒を考えると億劫なのでついつい「ご縁だから」などと自分に言い聞かせることになるのだが、こういう使用法こそ諦めている。

何の話がしたいのか。
今の社会で「ご縁感覚」を賦活する方法について書こうとしていたのだった。
流れを肯定する、場の成り行きに吉兆を見出しそれを信じる。
要するにそういう意志をもつことなのだが、本来このような感覚は意志をもたないことで発揮されるはずだがそれと逆のことを書くのは、現代社会のデフォルトが上述のように実質的にご縁感覚を否定しているからだ。
それはまあ当然で、成り行き任せでは会社は潰れるから。
そして日本は「株式会社」なのであるからして。
(この辺詳しくは橋本治の『貧乏は正しい!』シリーズに書いてある…かもしれない。思い付いておきながら記憶はかなり曖昧)
で、「意志をもたない意志をもつ」という矛盾めいた作法が必要となってくるのだ。
(関係ないようであるけど、文脈無視で短い文章の中に矛盾を見つけると条件反射的に「論理的に間違っている」とか「禅問答だ」と鬼の首をとったように勝ち誇って指摘する人は「言葉とはなにか」について少しでも考えれば裸で風呂を飛び出すくらいのカルチャーショックを得られるだろうに、というこれは仲正昌樹風「おもしろ被害妄想」でした)

ええと…気軽にメモで済まそうと思ったのだけど面白くなってきたので、たぶん続きます。


お、これは「あのこと」ではないのか?
といった「気付き」を普段からとても大事にしている。
普通には結びつかない事象同士のリンクを見つける。
全く別ものと思われた物達から同じ構造を見出す喜びは大きい。

しかし自分はそれを過大適用しているようだ。
なんでもかでも結びつけるといって、結びつく先が固定化してくるといけない。
自分の場合どこに固定されるかといえば「自分」である。
通常、対人的(に限ることもないのだが)なそれは自意識過剰と呼ばれる。

自分の座席に誰かが近づいてくるだけで、自分に用事があるのではと思う。
歩道を歩く自分の少し先で車が停まれば何事かと思う。
もちろんそれらから自分へのアプローチが始まる可能性はゼロではないのだが、
ほぼゼロに近い可能性を(よほど疲れていないと)かなり高確率で拾ってしまう。

他人の目を異常に気にする性質は中学入学の頃からでもう始まって長く、
それはもう半分無意識の反射ということで諦めてよいのだが、
自然な振る舞いだからといってそれが思考の傾向にまで及ぶのは良くない。
思考は基本的に内で閉じて集中して行うものだ。

連想自体はよいのだが、あまりに突飛な、牽強付会なものはスマートではない。
時に「考える次元が異なる」と突き放すことは思考の怠慢ではなく、「常識」だ
自分を元気づけるための思考もあるにはあるがそれは別の話。
客観的な思考に個人としての自分が出てくることはないと前提しておくのもアリか。

「日常をもう少し冷めて過ごそう」と前に書いた意味もここにある。
思考内容に「自分にとっての価値」を過剰に見出す姿勢はNGだ。
そういう種類の思考もあるというだけで思考の全てではない。
恐らく今の自分は「内では責任感に圧され、外からは無責任に見える」状態だ。


「内から湧き出る無責任」を活性化させる方策を考えよう。
その一つは「想像を敢えて現実から突き放す」だろうか。
これはなんでも「実際」に役立てるプラグマティストの苦手とするところではある。
まあ、「実際」の意味を変えればいいのだが。

ここで初めて(!)高校以来の我が師M氏への歩み寄りの方向性が生まれる。
妄想癖の強い点では共通の自分とM氏の大きな違いは「妄想の位置づけ」にある。
自分はあまりに現実(これもひとつの妄想には違いないが)を意識し過ぎた。
もっと気前良く、「あさっての方向」を眺めながらニヤニヤしてもよいのだ。

時に、「あさって」とは「未来」の別名でもある

「マジメな不真面目」だけではちょっと救われないので、
根っこから不真面目になる可能性も検討してみよう。
投げやりではなく没頭。
そして意志と集中力。

有名な一節を引用して締めよう。
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」

森博嗣『全てがFになる』

反省が精神によくない理由の一つに思い至った。
「今回は失敗した。次はこうすればよい」という反省は次の成功につながる。
その成功がきちんと思い描けていれば心は晴れるはずだが、どうもそうでもない。
理由は、その反省が「その時にあるべく振る舞った自分を否定している」からだ。

簡単に反省するということは、その都度の自分の現場感覚を否定することになる
「なぜその時自分はそう振る舞ったか」を、その時から時間が経ってから振り返る。
振り返り「あの振る舞いは良くなかった」と判断する基準は「現場感覚」ではない。
現場感覚をトレースして、「なぜその時良かれと思ったか」を放念してはいけない。

きっと、「自分が好きだ」という時の「自分」は、
個別具体的な状況で成功を収める自分ではなく、もっと総体的なもののはずだ

失敗を成功に変えることは、失敗を否定することではないはずだ。
きっと「そうあるべくして失敗した」ことは、自分の望むべき有り様を示している

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非公開
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