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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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看板を変えた。
「募集中」だと、寄ってくるのが腰の軽い人間ばかりだったからだ。

「おじさん、なにやってんの?」(おじさんじゃねーよ)
「えーと、時給いくら?」(内容よりまずそっちか)
「ねえねえ、お兄さん暇?」(君ほどではない)

もちろんそれはそれでよくて、というかそれは予想通りだった。
意味不明な状況に、今を真面目に生きる人は近づかない。
時間をかけて顔を売っていけば脈が広がるとは予想されるが、
よくない感じの想定外の路線が見えたのでひとまず中断した。
ひとまず選べないなりの選んだ選ばれ方をしたいと思う。

あと、小道具も揃えなければいけないようだ。


今住んでいる古民家は背中を山と接している。
目の前の通りから一つ折れればすぐ山道に入れる。
それほど整備されておらず、森のところどころには空間がある。
土地の所有者が伐採しているらしく、丸木や枝が散らばっている。
これが本当の選り取り緑である。

ほどよい長さの丸木を持ち帰り、土間で鋸を引く。
板目で平たく切った板にし、軽くヤスリをかける。
板の形は気にせず、文字を入れる面を丁寧に磨く。
墨汁が滲みそうなのでニスを塗って乾かす。
筆と硯と墨はすでに手元に揃っている。

ここはひとつ「応相談」で、いってみようか。
毛筆二級の腕が鳴る。
「やっとわいの出番でんな」

耳鳴りだろうか。
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(承前)

真新しいタイル張りの広場は駅の西口に面している。
広場を挟んで西口の前に広々としたロータリーがあり、片側3車線の主要道は東に延びている。
ロータリーを囲んでコンビニや牛丼屋、学習塾などのありふれた店が並んでいる。
デパートの地下では地元名産の「生湯葉丼」を食べられる軽食屋がある。
広場から北へ向かう道はビルに囲まれて日陰になっている。
いくつかのオフィスビルやパーキングタワーが日陰の細い上り道を無機質にしている。
日陰をくぐり抜けると上り坂の先に城が見える。
城の石垣の上は高台で、街並を遠くまで見渡せる。
ビルは駅前に集中しており、そしてそれほど高くないことが分かる。

城の南東口の向かいには市庁舎がある。
○月×日 晴れ

ちょっと遠出して沿線の主要駅へ。

駅前の広場。
朝晩と日中で通る人の種類が変わる。
通勤の時間帯を過ぎてもがらりとすることはない。

ある晴れた日に広場の端っこに陣取る。
端から長居するつもりでパイプ椅子を広げる。
変に人目を気にして立て看板を抱えている。
板には「(仕事じゃないけど)募集中」とある。
看板を作った人間は何を考えてこれを書いたのか。

看板の縦棒がちょうど良い長さなので猫背でもたれかかる。
なんらかの理由で人を募集している目で通行人を眺める。
一人あたりの所要時間がそれなりに長い。
看板のおかげで自意識が合わせ目を背けさせることはない。
なにしろこちらは募集しているのだから。
目的を抱えた好奇心の目で相手をとらえる。
その目的も好奇心も存在として嘘ではない。
少なくとも結果的に嘘でなくなる予定ではある。

歩き方を見る。
体の傾きに注目する。
早歩きの人はまず前傾姿勢をとっている。
通勤帯の駅前の歩き方としては自然な形。
スーツなどの服装にも合う。
逆に言えばその姿勢はのっぺりした昼の時間においては目立つ。
弛緩した広場の空気の中でその人の周りだけピリピリしている。
早歩きの当人はもちろんそんな事実に目もくれない。
そしてそれを見ている彼はその事実に自分の事実を付け足す。

全体として、空気は弛緩している。
久しぶりに思考館を更新しました。
「脳内BGM」について、最近とみに(自分の生活に対する)重要度が上がっていることに気付き(というのも日常が日常であるほど意識化することがないので)、詳しく書かねばなるまいなと思い、そういえば小説と相性の良かったBGMのストックがあるなと思い出して一気に更新しました。
つまり表を増やしただけですが。
あとリンクも頑張って貼りました(頑張ったというほどでもないけど)。
しかしもうHPの作成にHTMLをいじくるのは時代遅れなのだな…と日経BPの「人生の諸問題」を読んで思った(確かこの辺だったはず)。
トップページのLast Updateの更新を忘れた…
けどアップロードがもう面倒なので次回に。
ということで更新したのはこの辺です。

で、脳内BGMだけど、仕事してる時も気分で流す曲を変えていて、それは「今の気分に合った曲を流す」場合と「今の自分が望む気分になれるような曲を流す」場合があってなかなか融通が利くなあと改めて思えば感心してしまえるもので、その仕事中に「これってウォークマン(死語)聞きながら仕事してるようなもんだよな」とふと思ったのだった。
そして曲に没入して周りの音が聞こえないわけではないし、一時期話題になった骨伝導スピーカーみたいなもんだろうか、と(使ったことないんで想像だけど)。
そういえば中学だか高校の頃、授業中になんとか音楽が聴けないものかと極小イヤホンラジオを探した記憶がある(ふつうのイヤホンのコードをなくしたような小さいのが当時にもあったのだ)。探してそれを見つけた所までは記憶があるけれど、それを実際に使ったのかどうだったか。。
まあそれはいいんだけど、昔から音楽を肌身離さず身に纏う努力をしていたのだなあ、そしてその努力の結果が脳内BGMというこれは洗練なのか? とか思うところはけっこうある。
いつか掘り下げよう。

というのも実はこの記事を書く前は、というか思考館を覗いてしまったのはふとした出来心で、別に書きたいことがあったはずで…
近況を書こうと思ったはずだが…


あ、「内部循環する"青い芝"」です。
無い物ねだりはたいてい他者の所有物に対する羨望から始まるものだけど(「他人の芝は青く見える」というやつ)、それだけではなくて、「自分の中にある自分の持ってないもの」を手に入れようとしたがることでもあるのかな、とさっき思い付いたのだった。
なんか変なこと言ってるけど、「あるはずなのにないもの」とか「本来そうであるはずなのになぜかそうでない状態」のことで、なんとなく自分の中にはあってでも意識化できないのが不安だからちゃんと明示化したいという意思も一形態としてあるのかな、と。
そして無意識とか感覚レベルのものを意識化すると元の姿を変えてしまうので、「いや、こうではなかったはず」という期待はずれが別の"それ"を欲望する、というような。
で、どうもそれは悪い事ではなく、むしろ言葉を扱う人間の宿命なのでは…

これ続くのかな…
というか近況ではないよな…この話じゃなかったっけ…
いいや、また元気な時に整理しよう。

近頃ようやく夕方が涼しくなってきたので毎週末に散歩に出ている。
(気のせいか、日が暮れる前の方が夜より涼しい気がする。風のおかげ?)
からりと晴れることが、少し前の「随時にわか雨体勢」な不安定な数日からなくなっていて(今はそんな湿気ているわけではない)、それと関係があるのか夕方頃の雲が日替わりの壮観を呈していて、部屋から見える(色のみならず形も)彩り豊かな秋空を眺めているとじっとしていられない。

散歩コースは決まっていて、すぐ近くを流れる川の土手に出て川沿いを歩き(しばらくは歩道が続くのだ)、歩道の切れる所で川を離れて山(と言って戸建の連なる低い丘)へ向かい、大体の方向は決めて路地をジグザグ進みつつ、TESCO(3つある近所のスーパーのうちの1つ。ここにしか置いてない輸入ものがお目当て)に寄って買い物をし、下りも閑静な住宅街(車はたまにしか通らないし暗い。僕好みだけど女の人は一人では歩けなさそう)を練り歩いて帰途につく。

ちょっと散歩の仕方が変わったようで、まず周りをきょろきょろ見なくなった。
海外旅行の「おのぼりさん」的挙動不審を所構わずやるのが散歩スタイルなのだけど、もちろん日が暮れると何も見えないからしないわけではなくもともとあまり見えていない(いつも裸眼で歩く)ので輪郭だけとらえての想像力勝負なところはあって今もそれをしている時もある(という言い方をするのは意識していなければ勝手にそうなるからだ)のだけど、自分の足下を見たり、そのすぐ前の地面に目線を据えたまま歩いていることが少し増えたように思う。
それは何か考え事をしているからではなくむしろ何も考えていないがゆえの歩行スタイルであって、ちゃんと言えば「何も考えていない」ようになろうと意識して歩いている。

最近ふっと意識がそれた時に特定の言葉が浮かぶ癖がついてしまったようで、その理由やその瞬間の状況について実地的経験をもとに考察を深めているのだけど(実地もなにも、何をしていても起こるので数えきれないほどの経験を積んでいるのだ)、まだその理由を一つに断定する気もないけれど3つ目に思い付いたこれが一番ありそうかなと思うものがあって、それは自分が「言葉から離れたいと思っている」のではないか、と。
とだけ言えば誤解を招くので言い換えると、四六時中言葉について(あるいは言葉を使って)考えているとイヤになるので「たまにはぼーっとさせてくれ」と自分の中のどこかが訴えかけているのではと思ったのだ。
この「特定の言葉が浮かぶ瞬間」の状況をいえば、「集中が切れた時」と前に書いたけどこの表現だと少し的を外れていて、おそらく「思考の階層が繰り上がった時」すなわち思考内容そのものからその内容の枠組みに視点(←思考の話なのに視覚の表現なのだな)が移った時と言った方が近い。
これは構造主義的思考として珍重(というほど珍しくないので…有用視?)していてむしろどんどんやりたまえと思っていたのだけど、実はこの傾向は病的でもあるという認識をかつての自分がもったことがあって(この思考の流れが無意識にごく自然に為される機制は院生時代の絶望的なコミュニケーション不成立状況において形成されたのだった)、思考は充実していても徹底的に「閉じた状態」(しかも自然に←傍目には「ふつうに見えるけど何か違和感がある(何か通じない)」という僅かな違和感のみある、と僕は想像している)であるということを忘れていた。
別にそれはいいのかもしれないけど(ぶちっ←あ、ひどい)、きっと振る舞いの自然さを取り戻そうとしているのかもしれなくて、ここで自然というのは、閉じているのならそうと分かるように閉じるといった「見かけと中身の一致」のこと。
それは単純なことなのだけど、特に面白くないからやらないでもいい単純さではなくて、コミュニケーションのルールだから守らなくてはいけない単純さなのだ。
だからそれをなおざりにしていた自分は身を世間に晒し回る散歩という行為において反省的に再構築しようとしている…のか? ホンマかいな?

…多分違います。何せ話がズレまくってるから。すみません。
話を幾分か戻すと、上で触れた「意識がそれた時に浮かぶ言葉」はすぐイメージに結びつく特定の言葉であって、つまり肝心なところ、その言葉が間髪入れずにイメージに変換されるせいでその後に別の言葉が続かない。
だからこの癖が「言葉による思考の打ち切り宣言」のようにも受け取れるのだ。
散歩の時にきょろきょろしなくなったこととはこの話と少しつながっていて、きょろきょろしなくなったという変化においては「何を集中的に見ているか」よりは「何を見なくなったか」の方が大事で、それは文字なのだ。
風景と文字をごっちゃに見ていると風景からも文字が勝手に連想されてくる、ということもあるかもしれないが(という話もしたいのだが今回は泣く泣く諦める)、何かを集中してみるのではなく「見るともなく見る」ことで言葉による連想を遮ってみようという実験を最近始めた、ということが本記事を書く前に言おうと決めていたこと(たぶん)。
で、歩きながらなにかを見るともなく見るのだけど、それは視覚に関係なく物思いにふけるのではなくて、「意識は視覚にとらわれているのだけどそれを言葉に変換しない」ことができるのかな、というのがその実験内容で、昨日やってみた感想としては、実に難しい。

意識がある以上なにかを見ていればなにかを連想するのだと思うのだが、言葉を介さないで連想するなんてことは不可能じゃないかと思ってしまった。

という一文が、実感の吐露ではあるのだけど「なにやら色々怪しい」ので、怪しいなとだけ言っておきます。
うーん、どう転がってくのかなこの話。。
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