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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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ピコピコ。

マイペースで仕事ができるというのは幸せなことだ。
やる気がある限りそれはプラスにはたらく。
残業がふつうにできるようになった。
前までの働き方に問題があったのは明らかだ。

変わり目ついでに社会人ぽいことをしてみた。
ひとつは、腕時計をはめること。
ひとつは、制服のズボンにベルトを締めること。
効果てきめんに身が引き締まったようだ。


聴く音楽、読む本の傾向もこれから変わっていきそうだ。
以前は全然聴かなかった、楽しげな曲を聴こう。
ストレートに前向きな本も読めるようになるかもしれない。
逆に言えば『森の生活』が中断に追い込まれそうな気配。

橋本治とその系列は引き続き、というかどうしても外せない。
むしろハシモト本だけ読み続けてもいいくらいは積ん読がある。
しかし未読本の処理ばかり考えるのも不自由だ。
『ああでもなくこうでもなく』シリーズを読み返すのはどうだろう。

あ、いいかもしれない。

しかしとりあえずは『人はなぜ「美しい」がわかるのか』を読もう。
今日読み始めてさっそくエンジンがかかってきた。
「美しいがわからないとは自分以外=他者がわからないということ」
直球ですね。

 「美しい」ことのわからなさを、
 「美しい」を理解したいという欲求とは別に、
 「美しい」ことが直接は何の役にも立たないことを、
 「美しい」を分析して得られる洞察とは別に。

わくわく。
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 みんな青春が悪いんだ。一番多感な時期に、一番多感である部分(それは人に寄ってそれぞれ違う)を刺激されると、抵抗力のない──それ故にこそ局地的に純粋である青年達はそこにのめり込んでしまう。”芸術”というようなものにのめり込んだ人間の犯す最大の誤ち(”稚さ”と言おうか)は、書いてないことを見、言ってないことを聞いてしまうという、そのことね。そういうものがほしいんだから、そういうものを現出させちゃってもいいと思う──幻想を求めざるをえないその人間の”を、えない”の部分は本物なんだから。ただし、それが幻想であることも確かな事実で、それと幻想を求めざるをえないこととは自ずから別。別なんだけど、のめり込んだ人間は、そのことだけは決して認めない。それが幻想だということを認めた途端、その幻想から出なくちゃならないというのが、そののめり込まざるをえない人間が忠誠を誓う”現実社会”の掟だから。私がつまんないのは「その”掟”だってどれくらい本物なの?」ということを、その掟に縛られて(実は)逃げたがっている人間達が一向に認めないでいることね
10=それぞれの青春(橋本治『ロバート本』p.55-60)以下同
この「”現実社会”の掟」の(それが十二分に機能していることとは別に)内実がほとんど問われない(=個人の中でしか、もっと言えば非言語的な形でしか問われない)ことが、これが”現実社会”で機能している妥当性を保証しているという考え方は論理的なようで単なる循環で、このポジティブフィードバックはつまり単なる慣習的惰性で、しかしこの単純さこそが身体性と抜群に相性が良い。
個で閉じても周りを取り込もうとしても身体性は身体性で、それが満たされている時の心地よさの種類は異なるはずなのだが、片方ばかりを追求するともう片方がなおざりになる。
このあたりは個とシステムの相反性と似ているが、たぶん複数の個体が一つにつくりだす場の身体性から身体性が損なわれたもの(何を言っている?)がシステムなのかもしれない。
ここでいう「掟」を僕なら常識におきかえるが、常識の内実が公に問われるような状況はありえない、というかその時それは既に常識ではない。
 意識からすり抜けるものという意味ではイデオロギーと似ているのだろうか。
 いや、狭義の(=通用範囲が狭い)常識に論理をかませればイデオロギーになる?
時代の変化に応じて常識も変化するというが、その変化に目的があるわけはなく、自然法則なのかもしれないがそれが生態系の維持とセットになっている保証がどこにもないのは「そのもの」と同じである。
だから常識にも手入れが必要なのだ(日本の里山が「雪かき仕事」としての手入れを必要としていたように)。
「雪かき仕事」は市場原理に全く馴染まない。
馴染まないがそれなしに市場原理(を展開している社会)が成り立たないということは、市場社会は「頭の中にある」ということだ。
皆がそれを忘れると崩壊するが現に崩壊していないのはそれをいつまでも覚えている人や時々周知してくれる人がいるからで、そのアナウンスに市場価値をつけるという複雑なテクニックもあるが、原理的に「雪かき仕事」はボランティアである。
そのボランティアであるはずの仕事でお金がもらえるのは共同体(大きくは国)があるからだし、つまり市場原理主義が徹底されていないということで、ここに人間の身体が存在する余地がある。

それはよくて。(ぶちっ)
今回これを抜粋したのは「青春」という言葉に反応したからで、きっとここでは世間一般でいう中高生のそれに留まらず、大人も含めて誰しもが捨て切れずに残して抱えているものを指している。
それは「大人になる前に捨てなければならない」わけではなく、「ずっと持っているという自覚を持て」と言っているように聞こえる。
…押し付けがましくなく、社会の抱える問題を冷静に指摘する文章がほぼ例外なく読者の自覚を促すことは、問題の解決はまずもって自覚という個人の主体性から始まることを知っており、つまり読み手の思考力をその書き手は信頼しているからではないかと思う。
その信頼は不確実性の許容であり、「人事を尽くして天命を待つ」ことのようで、そしてそれは結果を期待しているのでなく「ただ期を待つ」のである。

うーん、これじゃまるで「片思い」だな。
「片思いが幸せになれない世界は、とてもさみしい世界だと思う」
とは"ライテックスの社長の息子"(@髙橋しん『いいひと』)が言っていた。
そういえばまだ最終巻に辿り着かずに立ち読みやめちゃったんだよな…
わかりやすく示唆的だなあ…再開できるのかしら。

という自由記述。
 俺、人生なんて”大人”と”子供”の二分法だけで一向にいいと思うの。ただ、その境界は、機械的に「ここ!」と決められるようなもんじゃないっていう、それだけの話。子供は子供でトータルに人間で、大人は大人でやっぱりトータルに人間である──但し、その移行段階で破綻は必ず起こる。Aなる完成が一度御破算にになって、Bなる階段へ至る以上、そうなるのが当たり前だから。だから、破綻状況を過大に持ち上げる”青春”てのは好きじゃない。(…)
 青年の論理って、実は現実にあってはいけないもんなんだよ。だって、青年ていうのは便宜的かつ観念的なある時期なんだから。現実化してしまった青年の論理の一典型がナチズムだなんて、簡単に分かるでしょ? だから嫌いなの、頭悪い青年てのが。
溝口くんは、鶴川くんになんかしてもらうことばっかり考えて、自分でなんかしようとは思わないんだもんね。そんなのいけませんよ。あなたがこわがってたから、松枝清顕はいなくなっちゃうのサ。三島由紀夫がどういう人だったか、もう一行で言えるよ。こわがりすぎて皮肉にうっちゃりを喰わされた人──そんだけ。
「06=難渋(きつおん)の文学」(橋本治『ロバート本』p.34-46)
「うっちゃり」って最初チョップのことだと思ってたけど、調べてみると違ってた。
土俵際まで相手に寄られて、すんでの所で相手を外に投げ出すこと。
土壇場で大逆転、という意味らしい。
「うっちゃる」はたぶんちゃぶ台返し的な意味だと思うんだけど、あれもまあ追い詰められてるんだろうね。
仕事と家庭の板挟みで溜めた鬱憤にポン酒で亭主がイグニション。
あかんこれ。(←違う)
それはよくて…もう一つの抜粋と合わせると話が分かりやすくなる。
三島由紀夫は、結局、皮肉に足をとられた人なの。”人は理由があってひねくれるのと同時に、なんだか理由は分からなくてもひねくれざるをえない時にひねくれる”って前に書いたけど、自分に向けられる知性と言うのは結局、この後半分のひねくれの理由を解明することでしかないみたいね。そんで、ひねくれを戻すのは、結局”鶴川くん風の明るさ”というような、アンチ文学であるような勇気だけなのよ。
最近読んだ森博嗣本のあとがきにあった「素直な天の邪鬼」というのと似た感性かと思う。
「ひねくれる」と表現される振る舞いがひねくれて見えるのは外部の何か(習慣や常識や、心理学とかの学問)に照らし合わせればそうだというだけで、それが実は「素直」であると理解するためには知性が必要で、しかし知性を発揮するための道具は外から持ってくることもあるけれど知性の発揮場所と方法は自分の中で(に)しかありえない。
冷静に考えるというのは土俵の上で「皮肉」とがっぷり四つに組むということで、しかし思考以外を削ぎ落とした思考、知性の発揮の追求だけでは、(おそらく相手に押し出されたり土俵中央で上手投げといった「明白な負け」はなくて、)抜粋の通り「勝ちが見えた」所で足(というか体)をすくわれることになる。

だから勇気!
『合言葉は勇気』なんですね。
(あ、まだ読んでない…次の次くらいに読もかしら)
皮肉を避けるのでなく突き抜けることで身体を取り戻す。
現代に必要な知性の使い方は、これだろう。
そしてこれは決して目新しいものではない。

そしてつい言ってしまうけど、
「本では得られないものがあることを本によって知る」
ことは、もちろんある。ことによっては、
「本では得られないものを本によって得る」
こともあり得る。
それが橋本治。(おお!)
読めば分かる。
(あ、でも『ロバート本』は相当危険だけどね…『蓮と刀』よりゃマシか)
はい、というわけで予告通り頑張ります。

『ロバート本』(橋本治)で思考を漉すと如何なる出汁が得られるか。
きっと「漉す」という表現は間違っていなくて、つまり「純」とはとても恐ろしいということ(純水は身体に毒だしね)。
しかし「純」とは単純のことではなく、複雑と真正面から立ち向かうための無垢でもある。
よく分かんない前置きはさておき。
記憶が新しいので後ろからいきます。

「自分の書いた文章が異様に好き」で飽きずに読めるというのと、他人の数だけ自分がいて「書いた本の数だけ自分が一つになって行く」というのは繋がっていて、それはその文章(本)を書いたのは自分なのだけど「他人の数だけいる自分」でつまりは他人だということで、そういう他人を自分に憑衣させて書くみたいな芸当を正気でできることがまず狂気で、きっと正気と狂気は最表面なんてない入れ子構造になっているのだと想像させる。
私の中で”僕”と”ボク”と”ぼく”は自ずと違うし、”私(わたし)"と”わたし”と”私(わたくし)”と”わたくし”は、やっぱりこれまた違う。なんだってこんなに人物が違うのかというと、これは勿論、他人の影響下に分立して成立してしまった自分というのがゴマンといるからである。他人の数だけ自分はいるし、その他人とのシチュエーションの数だけやっぱり自分はいる。あんまり多くなりすぎて、ちょっと自分の中では収拾がつかなくなって来たかなァ、と思ったから、こういうものを片ッ端から解き放っているのである。(しかし世の中ってのはそんなもんだけどサ)
「ああ、やっぱり、こういうのは自分と関係ないと思ってた」というような”内容”を、キチンと梱包する梱包材料が私の”文体”なのである。

49=自我の統合 ─どうして私は自分の本が好きか─(p.321-326)以下同様
他人を自分に憑衣させると書いたが、「自分と関係ないもの」を憑衣させて"書き捨てる"なんてことをどうしてわざわざするのか。
という訳で、私のオリジナリティー確定作業というのは、常に、”他人の影響力拭き払い作業”でしかない。という訳で、私のゴミの捨て方である。
それは、ハシモト氏がそれを気持ち悪いと思ったからで、しかも「それを気持ち悪いと思った理由は全て(自分ではなく)それにある」という確信があって、しかしそれでいてイマイチ自信がないからである。
(なんだこりゃ…)
ハシモト氏はこの自分の感覚に対する確信のことを「自分には精神分析はきかない」と表現している。
どこのスーパヒーロだという話だが、この捉え方はスゴい。
大体いけないよと言うのは、精神分析の根本原理は”自分が悪い”なんだよね。(…)私の、この”私自身に関する前提”が間違っているとするのが、私を精神分析しようとする立場で、「なもん、やなこった」と言うのが私なのである。勿論その後に「バァカ」はつくのだが。
自分の確信を確かめる(って妙な表現だが)ために書くために、その結論は氏にとっていつも一つで(上記の「ああ、やっぱり、…」)、しかしその同じ結論を導くまでの論理(過程)が無尽蔵に(それこそ「他人の数だけ…」)あって、そのことが個の身体を通した思考というものの希望をもの凄く具体的にしてくれるし、つまりここで「個が普遍に至る」。

そして(という繋ぎに意味がないほど支離滅裂ではあるが)様々な文体で文章を書き散らし、他人の影響で派生した自分を外在化させたものを面白く読めるのが(自分が何やら偉そうなことを書けた)自己満足ではなく(ちょっと騙されそうになったけどやはり自分の感覚は正しかったと確認できた)自己満足ゆえであるところも、個の境界が既に個人を大幅に突き抜けていることを意味していて(純粋な個人の自己満足に他人が満足できるって場合の「自己」って何なんだ、という話)、それはもう密林を歩く自分が自分の腸をくぐり抜けているかのような小説世界(@『海辺のカフカ』)の感覚なのである。
つまり小説は超現実であると同時に現実は超小説であって、小説と現実もお互い包み包まれて最表面も中心核もない入れ子構造である、と。


という感じでやまだかつてなく激しく脈絡のない筆致でお送りしていきます。
(BGMはkoutaqのSensitive Heartでいきましょう)
「行くところまで行く」というのは、体力がいることだから、「行くところまで行く」ぐらいのことをしてしまうと、思考のピントが合わなくなる。合わないところを合わそうとして、「あ、そうなんだ」の一言に凝縮出来てしまえば、それがきっと「行くところまで行った」になるんだろうと、そんな風に考える。
(…)
 行くところまで行って、「あ、そうなんだ」に出合って、それでよしとしてしまうのは、「あ、そうなんだ」という単純な実感が、どこかで湧かないでいたからだ。それで、「行くところまで行ってやろう」などと考える。行った先が「あ、そうなんだ」で、「これが実感出来た以上もういいや」と思ってしまえるのは、つまるところ、「単純な実感が自分の現実ではつかめなかった」ということでしかない。だから、行くところまで行ったら、「あ、そうなんだ」という実感を抱えて、また現実に帰って来る。難しいのは、「あ、そうなんだ」という実感を発見させてくれなかった現実というところが、それゆえに「あ、そうなんだ」という実感を適用させてくれないということだが、それはそういうもんだから仕方がない。「あ、そうなんだ」という単純な実感が適用できるように、現実を見つめ返すしかない。なんだかわけの分かんないことを言ってるようだが、現実的なディテールを欠いた話は、みんな「なんだかわけの分かんない話」にしかならない。

「物語の土壌」(橋本治『橋本治の行き方 WHAT A WAY TO GO!』)
この「物語の土壌」は本書の最後の項。
ここだけ抜き出して「なんだかわけの分かんない話」に見えるのも仕方がない。
がしかし「現実的なディテールを欠いた話」には、ディテールを欠いてこそ、そしてディテールを欠いた分に応じた広がりがある。
本書を読んできてこの文章に出合って「そうだよな」と思い、この文章を含んだ項で本書が「終わる」ことに納得し、そしてもちろんこれは終わりではない。

既に、世界は始まっている。

自分が誕生したと同時に世界が始まるという認識は、彼が物心付く頃に改められる。
しかし、その認識があまりに圧倒的であったために、頭では分かっていても無意識のところで、あるいは体の感覚がその認識を手放さない。
…などという認識論は、たかが近現代に言われ始めたことではないのか?
個という概念が唱えられたのはいつ?

歴史に学ぶと言って現代のモノサシで過去を測っても、得られる値は「現代基準」で解釈されたものでしかない。
「行くところまで行ったら」、「現実に帰って来る」。
ここに、「現実に帰って来るまでの膨大な手間と時間」が隠されている。


自分が何をすべきか、本書に書いてあった。
それは「自分がしたいこと」ではなく「自分がすべきこと」である。
それは誰の要請か、と?
すぐこう問うのは受動性にこだわる僕自身かもしれない。
しかし、受け身であることの認識は本書を再読し終えて、変わった。
能動性より受動性が本質だとか、後者が前者を包含するという話は違う。
(違うというか、それは机上の空論であって現実ではない)
つまり、

受け身であること」=「世界は既に始まっているという認識

なのだ。
このスタート地点に立つと、目眩に襲われそうな感覚がある。
人ひとりの人生では到底足りないのである。
しかし、これは「帰って来る先の現実」の認識なのだ。
…目眩が。
人類創造のない日本神話には、その代わりに、「これから生活を始める夫婦のための居住地の原型」がある。人が生まれて孤独にさまようのではなく、「新生活を始める夫婦のための確固たる生活前提」が、日本神話では用意されているのである
(…) 

 日本神話を生み出した古代の日本人は、もう家に住んでいた──住んでいて、「自分達に必要な家というものを構成する重要な要素はなにか?」という、意味を発見して行った。「意味の発見」というとむずかしいが、これはつまり、「生活の点検」であるような発見なのである。
(…) 
 八百万と言われるほどの多数の神々を登場させていて、日本の神話は、いとも明確に「現実的」なのである。明確に現実的であるそのことが、神々しくて感動的なのである。「日本人は物を考えるその初めにおいて、かくも具体的に明確だったのか」と思って、私は安心してしまったのである。
「既に始まっていた文化」(同上)
『橋本治という行き方』、再読完了!

 私の文章は、すごく長いか、すごく短いかのどっちかである。「バカじゃねーの」でカタをつけたがる自分を前面に出すと、すごく短い。それをひっこめると、「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」ということになるから、とめどもなく長くなる。(…)「バカ野郎、手前ェで考えろ!」と、昔の職人風に怒鳴りつければ、説教はその一言ですむが、この一言をひっこめてしまうと、説教はやたらと長くくどくなる。だから、品位を問題にする紳士は、その一方で、悪口の表現を洗練させ、「もって回った攻撃」の訓練をしなければならなくなる。クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口を言っているのは、きっと、相手の存在を認めているからである。認めなかったら、さっさと手っ取り早い”排除”に移ってしまう。さっさと殴りつけるのも体力だろうけれど、しつこいほどに紳士をやっているのも、別の種類の体力だ。
「「バカげたこと」をもう一度」(橋本治『橋本治という行き方 - WHAT A WAY TO GO!』p.136-137)
ある出来事あるいはその対応の仕方に問題を感じた時、説教の必要性が生まれる。
実際は相手と自分の立場もあって「説教」などという表現すら思い浮かばないこともあるが、一般的に説教というのは(「自分ならもっと上手く解決できる」といった)他人の問題を自分に引き寄せてこそ発生するもので、立場云々はどうでもよくて、その「相手」が目の前にいる必要もない(本を読んでいて登場人物や著者に説教したくなることもあるのだから)。
その説教が「バカ野郎!」の一言ですむ場合はいくつか考えられて、「自分がバカげたことをしている認識すらない相手にまず一喝」とか、「それを気付かせれば自分で解決手法を思い付くだろう(というこれは相手の力を認めている言い方)」とか、「この問題は頭でウジウジ考えても仕様がないからまず考えるのをやめろ」とか。
で、僕がなるほどと思ったのはそのもう一方で、もう一方というのは抜粋前半の「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」のことである。
これは自分が「相手の思考体系」そのものに興味を持った場合や、情状酌量の余地がある(「気持ちは分かる」てやつ)場合の展開である。
相手の抱える問題の解決法がこちらにズバリと見えて、しかしそれと同時に相手がその問題を抱える必然が見えたり、一般的に思えた自分の解決法を相手が採用しなかった理由に思い当たりかつ納得できる場合、問題の解決法だけを相手に伝えておしまいというのは何だか不親切だし、だいいち自分が面白くない。
そして「クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口」が「相手の存在を認めていること」になるためには、”そこ”が相手に伝わらなければならない。
それは「君のそれはこういうことなんやないかな」という説教が、決めつけでなく仮説の提示に聞こえるということなのだけど、「相手の存在を認めている」というのは、「この説教が"仮説”であるというメタ・メッセージが相手に伝わる」と自分が信じているということで、しかしこのような状況が生活の一場面として全く想像できないし実現できるとも思えないから本ばかり読んでいるのだろう。
寂しいのかもしれない。

まあそれはよくて、前にも「前提の話」をしたけれど、今書いていて気付いたのは、「構造を語る(考える)魅力は"ある確実性"にある」ことだ。
学部生の時に法律に憧れた時期があって、工学部だったからナカとって(?)弁理士の資格をとろうと勉強もしたのだけれど、あの憧れは「法律は揺るぎなく確実なもの」という認識に因っていた。
弾力的な解釈とか「法は破るためにある」とか、実際の運用として揺るぎないわけはないので、もちろん建前の話である。
精神的に不安定な時期は確実なものに憧れるというやつで(法のほかには「権力」とかね)、当時の不安を蒸し返す気はないけれど、自分が(どっぷり読書を始めてこのかた)「構造」に興味を持ち続けているのも同じことのような気がしたのだ。
4回生時の研究室のテーマも「最適設計」で、これも要は構造の話なのだ(経済でも建築でも意味論でも、共通の計算ツール(線形計画法、モンテカルロ法、…中身は記憶にない)を使って目的関数と変数を設定して最小(大)化を目指すのだけど、共通のツールが使えるということは「異なる分野の物事にある共通の構造を見ている」ということ)。
そして復習(もちろん自分にとって。これまで何度か書いてきたことなのだ)はここまでで、また気付いたのだけど、僕は昔から「確実なもの」を求め続けていて(そして大体みんな同じようなものだとも思う)、しかしそれは「(思考する頭にとっての)確実なもの」なのだった。
こっからすぱーんと言ってしまえば、それは男だからで、女にとっての確実なものとは身体で、しかし男にとって身体は(女に比べて安定しているというのに)「不安定なもの」でしかないから確実なものではなく、一方で女にとっての身体は「(安定か不安定かとは関係なく)確実なもの」で、この捉え方の差は「頭で生きる」か「身体で生きるか」という生物学的性差に起因する、と。
だから例えば「他人の芝は青く見える」と言って、身体という確実なものを基盤に生きる女を羨ましいと思う男がいて、その彼の「じゃあその逆で女が"思考の自由に従って生きる男"に憧れることもあるはずだ」という認識が誤っているのは、この話の最初から最後までが「頭の中の話」だからである(何の例えなんだろう…)。
まあもちろん例外はいくらでもあって、しかし原則は揺るぎない、というこれが上で触れた「構造を語る魅力」の一例です。
そしてこれが現代であまり魅力とならないことと「男性の女性化」が繋がっていたりして、しかし言葉を軽く見る者には呪いがかかると言いつつ「呪いを信じない人には呪いの効果がない」こともあって、まこと世の中も頭の中も錯綜しているのであります(そして前者は後者に含まれるってのが「脳化社会」)。
「入れ子っ子」ですね。
(以下、引用で話を戻して〆)
 私は、その初めには、自分の親から「なにバカげたこと言ってんだ」の類をさんざっぱら言われて、そのことに慣れて、「自分の言うことは、親の所属する世界の世界観からすればバカげているのだな」ということを学習してしまった。そんな学習が起こるのは、「それとは別の世界では、別にバカげてはいない」ということを知ったからである
同上 p.139 
パナウェーブが世間を騒がせていた時、マスコミは彼らを「不気味な白装束集団」と呼んでいた。
「共産ゲリラに電磁波で攻撃されている」とか、わけの分からない理由で、山の中を迷走している集団がいた。(…)
「わけの分かんないこと言ってるな」は、判断の保留である。それが、「不気味だ」になったら、もう結論は出てしまっている。だから当然、「わけ分かんない」と「不気味」の間には、なんらかの思考処理があるのである。いかなるものか? 私は、「バカげたことを言っている」という断定が抜けていると思う
「わけの分かんないことを言っているな」は保留である。相手の言うことが分からないのは、相手の言うことが矛盾して「わけが分からない」になっているのか、それを受けるこちらに、相手の言うことを理解するだけの思考能力がないのかの、どちらかである。(…)「不気味」かどうかは分からない。だから、「不気味だ」という断定をする前に、もう一つのステップが必要になる。それは、「こっちはバカげていると思っているが、向こうは"バカげている"と思っているのかどうか?」という判断である。

「批評言語としての日常言語」(『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.130-131)
「不気味だ」は曖昧な印象を表現しているだけに見えるが、じっさいはイメージの断定である。
そしてハシモト氏が「"バカげたことを言っている"という断定が抜けている」と言う意味は、「不気味だ」という発言にはその集団と関わりたくない、距離をおいて遠巻きに眺めておきたい(がニュースのネタにはしたい)という態度が顕れているということで、逆に言えば「バカげたことを言っている」という発言は体を張った発言なのだ。
その「不気味だ」というマスコミや内閣(の閣僚も言っていたらしい)の断定を真に受けて「ホント、気味悪いわよねえ」と世間話に用いられるのも無理はないのだが、その傍観者的価値観は日常の他の場面ともつながっている。
「そんなバカげたことを信じている連中なんだから、「バカげている」なんて思っているはずがない」と決めつけるのは、早計である。もしかしたら、「バカげている」という批判に出合わなかったから、平気で「わけの分からないところ」へまで行ってしまったのかもしれない──という可能性だってある。
論理の矛盾」を指摘されなかったら、論理の「矛盾」に気がつかない。更には、「論理の矛盾」ということが存在するのかどうかさえも、気がつかない。それを気づかせるのが、教育というものである。そういう教育は、あるのか、ないのか? 「あなたの言うことには、矛盾がある」と言って、その相手から、「そんなこと言ったって、言うのは個人の自由だろう」と言い返されてしまったら、多くの人は、そこで言葉を失う。残念ながら、そういう日本の現状はあるだろう。

同上 p.132
この「教育」とは広義の教育で、「日常のあらゆる場面が教育(的)である」と言う時の教育だと思うのだが、これが今の日本ではどんどん減っていて、そして減っているのは「教育の機会」ではなく「教育の必要性」だと思う。
「幼児的な大人」の増加が指摘されていて、それが「戦後65年の平和の代償」などとウチダ氏は言うが、要するに「必要でないものはどんどん端折って易きに流れる」で消費至上主義と高度に発展したシステムへの依存が個人の内実を不問にする価値観を増長させていて、「抑圧すると病は別の形で徴候化する」というフロイト的な話に繋げられそうだけど今言いたいのはこれではなくて、言葉を大事にしなくてはならないという僕の年来の思いの中にある「確固とした論理性の構築」(と同時に「論理を超えた身体的な言葉の力」というのもある)が通常思われているような「客観的視点(思考)への志向」にのみ結びつくものではないということだ。
「自分を消す」のは「消そうとする自分」であって、透徹した思考の追求の過程で必然的に噴出してくる主観があり、両者を「うねる双龍」のごとく前へ前へと駆り立てる言葉の運用法(術?)が恐らくはある。
「価値観の違い」という思い込みが、「批判」を成り立たなくさせる。その結果、「論理の矛盾」が指摘されなくなる。「論理の矛盾が指摘されない」とは、「論理を構築する必要を感じないまま放置される」ということでもある。「なにバカげたことを」が、社会から減少するのは、大問題だ。
同上 p.134
大問題だ、というハシモト氏の認識に同感で、しかし当面一人でつらつら考える自分はその大問題の(社会的な)解決にはあまり興味はなくて、ただ今の自分に必要なのはこの大問題だという認識を自分の中で前提にすることで、何のどのような解決に向かうのかは知らないが、まずこの大問題は「自分の問題」なのである。

 私の「教養がない」はほんとであり、私は日常的に、「教養がない」ことで困っている。それはたとえば、「料理をしよう」と思って冷蔵庫のドアを開けたら空っぽで困っている──というのと同じである。私の教養冷蔵庫はすぐ空になるので、私は困っていることが多いのである。
(…)「教養」に関する私の困り方は、「ない」か、「扱ったことがないから、当然ウチにはない」のどちらかで、困り方としては、後者の方が多い。私はそういう困り方をしていて、しかし、別に「自分の料理の腕」では悩まない。扱ったことのない食材でも、自分の目で見て、手に取り、触って、匂いを嗅ぎ、ちょっとかじってみたり、扱ったことのある人の話を聞いたりして、試行錯誤をしてみれば、なんとなく扱えるようになるもんだと思っている。なんでそんなに自信があるのかと言えば、「料理をする」ということが、そもそもそういう試行錯誤を含んでいるからである

『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.105(蚊柱のように)
この料理の喩え(「教養」=「食材」)がステキだと思うのは、自分で料理をする人間にとっては教養がとっても身近になるからである。
教養と聞けば油断すりゃ権威のようなものを感じてしまうが、いつもまな板でトストス切ってるニンジンやナスに権威なんてこれっぽっちもないのである。
カボチャなら豪州産と鹿児島産で値段に差があって、市場で格付けされた農家による食材は原価や間接費の想定を超えた値段がついていたりするけれど、もちろん僕らはスーパーに同列に並んだそれらを選べるし、自分の好きなように調理ができるし、その食材を用いた料理が美味しいかどうかは食材の格なんかよりも自分の料理のウデやその時の気分や体調といった自分自身にかかっている。
教養という言葉は現代の生活のなかではもはや死語となっていて、しかしそれは現代における教養という言葉の使われ方がそうさせているからで、自分の中に(あるいは自分の価値観の構成において)教養がないという状態はある意味で「料理に使う食材がないので外食しか選択肢がない食事情」と同じ寂しさをもっていることになる。
そして僕はハシモト氏の言う教養ならモノにできると思い、それに付随する自信はハシモト氏が「料理ってそういうもんだから」と言ってる内容が既に自分の生活の一部になっていて、要は京人参やちんげん菜をサラダに使ってみたりアスパラを炒めて味噌汁の具にしてみたり、あるいは生姜を味噌汁に大量に投入して「ぐえー」とか言ってればいいのだ。

実際を知っている人にとって、その実際を軸にした論理ほど身に染みるものはない。
当たり前だが、「ことばの力」とは、言葉だけのものではないのだ。
「教養」というものを「調理された料理」と思っていて、大学というところを「料理を食べるところ」くらいにしか思っていない人が、いくらでもいる。そういう人達が「教養という考え方自体が強迫観念だ」と思うのだとしたら、それは、よほどまずい料理ばかりを食わされた結果だろう。「料理というものは自分で作るものだ」と考える人にとって、こんな不思議な拒絶はない。「出す料理、出す料理が全部まずいレストラン」へばかり行って、「この料理はこうしたもの」と思い込んで、「この手の料理はもう食べない」と決めてしまうのは、料理や食材に対する冒瀆のようなものではないかと思うのだが、もしかしたら、「教養離れ」というのはそういうものかもしれない。だとしたら、「教養志向」というのも、かなり怪しいが。
同上 p.106
以下も抜粋はすべて『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』より。
 私は、教養というものを標準語と同じような意味合いをもったものだと理解している。自分の生活圏だけを基盤にして成り立っている方言は、生活圏の違う人間との意思疎通を不可能あるいは困難にする。だから、狭い生活圏を超えた、広い領域でのコミュニケーションを成り立たせるための共通語──標準語を必要とする。そして標準語は、個々の生活圏に特有の諸々を捨象──つまり切り捨ててしまうから、方言から標準語に入った者は、そこから再び自分の独自性を表すための方言を作り出す方向へ進まなければならない。方言と標準語は両極になって、人はその間をぐるぐると螺旋状に回り続けるのだと思う。
(…)
 教養を捨てることは、自分の現在だけを成り立たせる興味本位の「雑」だけでよしとして、人としての思考のフォーマットを捨てることになる。そして、「雑」を吸収しえない教養だけでよしとしてしまったら、そこでは個なる人間の「生きることに関する実感」が捨てられてしまう。方言と標準語がそうであるのと同じように、「雑」と教養もまた、互いに還流してぐるぐると回るものだと思う。(…)教養というシステムを回復させない限り、情報という中途半端な知識に振り回される人間達は、孤立したままで終わるだろう──そういう逆転現象は、既に起こってしまっているのだと思う。

p.92-93(標準語としての教養)

私は、実のところ「私自身の方言」しか喋れないが、自分の外にある「標準語」も、かなりの程度で喋れると思う。それは、私が「標準語をマスターしよう」と思ったからではなくて、自分の外にある、「標準語」という言語を眺めながら、「あれが共有性を持つことによって”標準語”と言われるものであるのなら、その言語の中にあって共有性を成り立たせるものはなんだ?」と考えて、「自分自身の方言」を徹底的に分析した結果である。だから私は、「雑を突き抜ければ一般教養に届く」と思っている。そして、自分に可能な方法はそれしかないと思っている。
(…)
教養」を「教養」たらしめる構造を理解すれば、「雑」として放置されているものも「教養」になる──大学の専門課程で、「何を書いても結構ですが、私達に分かるように書いて下さい」と教授に言われた時、私はその原則を理解した。それで正しいと思っているし、日本に足りないのは、その考え方だと思っている。

p.96-97(「キィワード」というキィワード)

「橋本治の本にはすべてが書いてある」と思って、そのすべてとは「終わりという始まり」とか「ゴールというスタート」と呼べるようなものなのだけど、ハシモト氏の文章に補足することなんて何もない(あるなんて口が裂けても言えない)が読めば無性になにかを書かなければならないという思いに駆られることになっており、そのなにかとは紛れもなく「自分のこと」なのであって、それは氏の本を読むことで今まで持っていなかった思考のツールが手に入ることに因っている。
読んで自分の何かが変わるのではなく、「自分の何かを変えられそうだという手応え」が得られる。
読んだ時にうっとりしたりわくわくしたりしてしまうのは、自分が「自分のことに関して」ハシモト氏のような思考を展開できたならば一体どんなことが出てくるのだろうという具体性抜きの予感の大きさだけでそうさせてしまうからであり、そしてそこから難儀なのは、当たり前だが「ハシモト氏のような思考」がすぐに使いこなせるわけがなくて先に感じた「うっとりやわくわく」に中身を与えることができなくてうずうずしてしまうことだ。
そのうずうずは不安定でもあって、ちょうど今みたいなミニバブルが割れるか割れないかみたいな社会状況と似ていなくもないがやっぱり全然関係はなくて、それは先は見えないが「プロセスの充実」の予感が霧中の一歩を踏み出させるという「知の目覚め」なのだと思う。
だから最初に言ったのは「あるフェーズが終わり」「別のフェーズが始まる」ということで、その相変化はすべて知の主体の内側で起こる。
「世界を変えるより自分を変えるのが手っ取り早い」とはこのことで、目標が必要なのも「達成して一皮むける」ためであり、人の皮とは結局のところタケノコの皮のようなもので剥かないまま放っておけば面は厚くなって外敵にも耐えられるが、内側の熟成は見えないしともすれば自分でそのことを忘れてしまうのだ(つまり人に「美味しい」と食べられて、おしまい)。

それはよくて。
恐らくハシモト氏の思考はある伝統を引き継いだ作法なのだと思う。
「作法を知らない型は間が抜けてしまう」という話を前にどこかで読んで、その文章で自分の下駄の歩き方が改善された経験もあって「その通りだ」と思って、このことは昔の日本文化に限らずあらゆることに言えるはずだとは思ったがしかし、自分の今の生活を構成する要素(その一番は「本を読む」こと)の作法なんてどこを参照すればよいのかとその時は少し途方に暮れた(「読書論」みたいな本は斎藤孝やら加藤周一やら何冊も読んでいて、それで自分の読み方に自信を持てたかといえばもちろんそんなことはなかった(から今こんなことを書いているのだが))。
読み方に自信を持てないことは「まあそんなもんだろう」と前から思ってはいるが、それはおいて「読書における作法」というのは読書の方法とか読書論とはなにか違うようで、しかしハシモト氏の思考についていくうちに「橋本治は"作法そのもの"なのではないか」と思えてきて(だってもう『橋本治という行き方』というタイトルがまさにそうだ)、すると「〜の作法」なんて限定せずにハシモト氏の思考を自分のものにできれば(←しかし大胆不敵もいいところだ)あらゆる作法が身につく…というのはどう考えてもウソで、しかし「作法とはなにか」が体得できることは確かなはずで、それは「あらゆる作法を身につけるためのスタート地点には立てる」ということなのだ。

結局のところ、日本に必要なのはゴールではなくスタートなのだろう。
(もちろん「ぜんぶリセットすりゃスタートに立てる」という発想は大間違い)
 もしかしたら私は、自分のすることすべてを、「古典芸能」のように扱っているのかもしれない。「自分としてはどうやるのか?」という問いは、「自分のやろうとしているものは、本来的にはどういうものなのか?」という問いとシンクロしていて、「自分のやろうとしているものの本来性」は、常に上位に来る。自分のやらんとすることの「本来形」が見えなかったら、「やろう」とも「やれる」とも思わない。私は、「自分」よりも「自分のやるべき対象」を信じているのである。
自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重していた方が、ずっと確実である。だから私は、「自分」よりも「自分の外にある本来」を信用する

p.27-28(「自分」を消す)

 私の知識のすべては、カテゴリー上は「雑」というところに属して、「雑なもの」しか私の頭には入らない。「雑なら入る」と思うから、教科書もテキトーに裁断されて「雑の一種」と化された上で、「入りそうな分だけは入る」で生きて来た。おかげで、知識間の結合がゆるくて、その結果「どうにでもなる」というメリットを生んだ。全然知らなくても、別に困らない──なぜならば、全ての知識間の結合がゆるくて隙間だらけだから、「全然知らない」という知識の欠落も、「よくあるゆるい隙間」の一種と解釈されて、別に困らない。「別に困らない」というのは偉大なことで、困らないものは困らない──そして、困らないでいると、「雑な知識」が入って来ることを妨げない。「雑な知識」があって、ゆるい隙間もいっぱいあると、「これとこれを結び合わせるとこういう考えが生まれるな」ということになって、いくらでも思考の構築が出来る──もちろんそれは「自分に必要な」の限定つきではあるけれど。
橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.76-77 「アカデミズムを考える」

これは全部ものすごいことを言っていて、しかしハシモト氏にとってこれが当たり前だという前提は最後にある「自分に必要な(こと)」が自身にとって明確であることだ。
この文章だけを見るとこの「自分の必要」に他人に属する事柄が一切含まれていないように見える。
いろいろな氏の本の内容を思い返すと「身近な他人」がハシモト氏に決定的な影響を与える、とか他者の存在をして氏を衝き動かすとかいったことがないかなという印象が最初に浮かんで、でもそんなはずはなくて商家の息子でいた時の近所のおじさんおばさんやら学生の頃の担当教授やら作家になってからの助手をはじめ(身近ではないのだが)歴史上の人物である小林秀雄や三島由紀夫など色んな人がいるはずで、しかし彼らの話を社会批評のフリに使うところから著作を手当たり次第読み込んで本のタイトルにその著者名を冠してしまうような一心不乱まで幅広いグラデーションがあるにせよ氏が他者(本人なりその思想なり)と関わって綴られる文章は徹底的に私的でありながら普遍性に溢れている((人類)史的?)。
ひょっとして氏にとっての自分とは「世界」のことなのではないか?
「地球規模のお節介」とでも言えそうな。
それがぶっ飛んでいるように見えるのは現代では個人主義的価値観がデフォルトだからで、「意識の始まり」には氏の考え方が明らかに近く(という発想はさっき読んだウチダ氏ブログ↓からの連想)、考えを深めていけば(あるいはどこまでも身体に正直でいて思考をその正直な身体に沿わせていけば)違う経路を辿って同じ地点に至るのかもしれない(ここで「同じ」と感じたのがハルキ氏の文章↓)。

経済活動の起源にあるのは、沈黙交易であるが、これは「私は見知らぬ人から贈与を受けた」という自覚から始まる。(…)
たまたまそのへんに転がっていたものを「自分あての贈り物」と「勘違い」した人間の出現が経済活動の「最初の一撃」だったからである。
自分あての贈り物に対して反対給付の義務を感じたことによって親族も、言語も、経済活動も、すべては始まった
だから、世界の起源にあるのは、厳密に言えば「贈与」ではなく、「贈与されたので反対給付しなければならない」という「負債」の感覚なのである。

内田樹の研究室 2010.04.12 「政治と経済と武道について語る終末」


(…)でも僕にはうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうか。
村上春樹『辺境 近境』p.190 「ノモンハンの鉄の墓場」

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