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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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雨の日のツバメ。

先週に鴨川沿いを歩く機会があった。
京都に住んでいた頃よく歩いていた、今出川から三条まで。
大学院を出て以来だから、3年ぶりのこと。
当時は精神の一部が腐敗していたから、鴨川の良さを味わえていなかった。
歩くだけで気分上々の今の自分には、とても素敵な場所に思えた。

出町柳の地下の駅から出ると、雨が降り始めていた。
京阪に乗っている間は晴れているように見えた。
雨は小雨で、雲間から太陽の光が街に降り注いでいる。
雲の不均質な配置と粒子を多く含んだ大気がおりなす光の柱。
何と呼ぶか知らないが、この光景はいつも僕の視線を引き付ける。
そしてそれを眺める僕の足は止まることなく、着実に下流に向かっている。
日常がもう、足を止めずに落ち着いてものを眺める姿勢を安定させている。

空は明るいままだが、雨粒が大きくなってきた。
すぐに止むと思い、橋の下で雨宿りをする。
鞄を地面に置き、スーツなので立ったまま、川面を眺める。
ツバメが低く飛んでいる。
雨が降る前には、とよく言う。
きっと雨脚が強くなるまで飛び続けるのだろう。

ツバメは橋脚のまわりを繰り返し旋回している。
不思議とその飛ぶ姿に見入る。
間近で羽が風を切る様を見る機会はこれまでほとんどなかったかもしれない。
何匹かが競うように低く飛んでいる。
川の石のすぐ上、ぎりぎりの所を跳ね回るように飛んでいる。
飛行の癖から個体識別を試みたが初心者には難しかったらしい。
そのスピードは速く、視線をツバメに追って合わせるだけで苦労する。
今の日常生活からは逸脱した眼の動きだ。
目が回って気持ち悪くなることはなく、だんだん面白くなってくる。

ツバメの飛行に関する意思について考える。
こういう風に飛ぼうと思って飛んでいるわけではないはずだと思った。
風がツバメをして、このように飛ばせている。
見ているうちに羽の動きにツバメ自身の意図などないように思えてくる。
最初はツバメの飛び方に出所不明の違和感をおぼえた。
とても速いのだが、ぎこちないとまで言わずとも、いびつに飛んでいるかに見えた。
なぜ、いびつに見えるのだろう。
考えて、「スケール効果」に思い至る。
S.J.グールドのエッセイによく出てくる話だ。
生物の大きさの違いは、ふつうに想像する以上に体の仕組みに変化をもたらす。
心臓と体の大きさの比は、ネズミとゾウで全く異なる。
例えばその理由のひとつは、体積増加は表面積増加に対して指数関数的であること。
話を戻せば、人の身体感覚でもって鳥の動きを実感することはできないということ。
ツバメは僕より遥かに体が軽く、重力を無視することができ、風の力を利用できる。
僕の違和感は、頭の中でツバメのように飛ぼうとしたことにあるようだ。
そうかもしれないと思い、そのままツバメの飛行を見つめ続ける。
見続けるうち、ツバメが風に見えてくる。
「風がツバメをして、このように飛ばせている」
羽ばたいていない時の動きがまさにそうだ。
あるいは飛ぶ向きが川の上流へ向かうのと下流へ向かうのとで明らかに速度が違う。
すると、いびつに見えた動きも、風の流れの複雑な現れだろうか。
突然跳ね上がるような、または不規則に左右にふらつくような動き。
その複雑さに僕の想像は到底及ばないが、思い浮かぶことが一つあった。
地表からの高さによって風速が大きく異なってくるという話。
そのために風速計は決められた高さに設置しなければならない。
去年(一昨年かもしれない)から少しずつ読み進めている『風の博物誌』にあった。
具体的な数値も具体的な状況とともに書いてあったが、細かくは思い出せない。
(膝の高さで草木がそよぐ時、頭の上では帽子を手で押えないと飛んでしまう、というような)
とても曖昧な記憶ではあるが、想像の助けにはなる。
ツバメが跳ね上がり急降下する、ジェットコースタのような軌跡において、その上昇と下降の速度差を決めるのは位置エネルギと運動エネルギの変換だけでなく空間位置における風速の違いでもあること、もしかすると(という表現は人間の体感が言わせるのだけど)その影響は前者よりも後者の方が大きいかもしれないこと。

そして森博嗣の小説を好んで読む者として当然の連想。
そういえば最初にシリーズを読んだのはここ京都でのことだ。
今、ツバメを目で追っていた一連の経験は確実に、再読時に違った体感をもたらすと思われた。
「スカイ・クロラ」シリーズ。
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影(日陰)について。

森博嗣がウェブ日記(モリログアカデミーとして文庫化しているもの)で毎日載せている写真の中に、木や建物の影を撮ったものが多くある。
おそらく「何かを見つけた」からこそアップロードしたのだと思う。
全てに解題が付してあるわけではないので確信はもてないが、恐らく森氏が明確な意味を与えた写真がほとんどだと思う。

「秩序と無秩序」という二項をもってくると、まず無秩序の自然に大して秩序の人工物と言うことができる。
この場合の「秩序」とは「(頭が)考えた通り」という意味になる。
あるいは自然を秩序ある系と考えることもできて、動物の食物連鎖を想像すれば「生態系の秩序」になるけどそれが想像しやすいというだけで別に植物についても同じことだ(この辺の森一帯の生態系、とか)。
意味を与えるとは「秩序を見出す」と言い換えることが可能だ。
そして森氏はそれらの写真において(それが人工物であれ自然であれ)被写体の持つ元々の秩序があったとしても、その秩序とは異なる秩序としての意味を与えている。
その与えた意味そのものが面白い場合もあるだろうけど、「元々の秩序」からいかに離れた意味を見出せるかという飛躍(意外性といってもいい)が主要な面白さだと思っているはずで、その飛躍を評価するという方向性がともすれば野暮に陥りがちなのは、まず飛躍を見出すセンスが鋭角的であること、すなわち(発見者=森氏も含めて)見出す瞬間のキレを味わえるかどうかにかかっているからだ。
じっくり鑑賞して特徴を並べて分析するといった時間をかけたプロセスはその作品本来の意図とは別のものを見出すことになる。
もちろん見る方の勝手なのだが。

話を戻せば、森氏のウェブ日記の写真を解答の与えられぬまま数多く眺めているうち(「解答なき問い」というのは一度慣れればヤミツキになるものである。それが高じて唯一解を持っている問いも散漫に拡げてしまうところが善かれ悪しかれといったところではあって、その長期的な収支は予断を許さない)、「これは何か意味がありそうだ」という感覚が確証を離れて(?)日常化していき、自分が何を考えているかはおいといてまず対象に見入るという姿勢が自然になってきたように思う。
それを忘我状態と呼ぶのかもしれないが、目的を持って動いている時(つまり仕事中)はもちろんそんなことにはならない。
主に歩いている(散歩している)時の話で、(たぶん話変わるけど)足を止めないことがその忘我状態を推進することになっていると今思った。
歩きながら何かを見ていて、それをもっと良く見てみようと立ち止まるということは「ある対象を見るという目的を獲得した」ことになる。
その状態と、歩きながら何かを見つめていて、後ろ髪引かれつつも足が前に進むものだから自然と視点が前に戻るという「目的化されなかった流動的な注目」とに、大きな違いがあるのではないか。
それは思考過程である問いを見出した場合において、「短期的な解を求める姿勢」と「漠然とした方向性を探る程度でその先はペンディングする姿勢」との違いと対応しているのではないか。
飛ぶ鳥を眺めて、空を飛ぶ様を想像する。
道端の草むらに目を留め、大自然のただ中を想像する。
実際に自分が経験するよりも、想像のそれは充実している。
あるべきものは全てそこにあり、邪魔なものは何一つない。

経験に価値がないわけではない。
無から何も作り出せないように、想像の素材は経験によって集めるしかない。
ただ、「経験の価値は何か?」と問われれば、それは想像の為ではないか。
少なくとも、頭の認識においては。

養老氏が「ああすればこうなる」で頭の独断を戒めるのは、
身体を蔑ろにしている現代を憂いていることがその主旨だと思うが、
「考えると言うのなら徹底的に考えろ」と言いたいのだ。
細微にわたる、精緻な想像ができるようになりたいと思う。



メカニズムを感じるのはいいとして、それを洗練させるにはどうするか。
やはり想像した内容を実体と照らし合わせる作業がどうしても必要だ。
「ものづくり」をしたくなった。
そういう趣味もいいだろうし、仕事の根っこで意識しておくのもよいだろう。

というこれは半分『カクレカラクリ』(森博嗣)を読んでの感想。
森ミステリィはやっぱり素敵だなぁ。
最初は「自然への頓着の無さ」が極端だなと思い、その点距離をおいてきたけど、
最近は(本当につい最近のことなのだが)かなり共感できるようになった。

この気分でSMシリーズとか読み直すと新しい発見がありそうだ。

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