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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
久しぶりに何日か連続して書いています。
ちゃんと考えた方がいいなあ、という思いが沸々とわいてきたからですが、
その「考えさせる原因」がとりあえず解消しそうなので一段落です。

考えるだけ考えたから、ではなく、
上手い具合に人に頼ることができたからです。


嘘はつけない、のは昔からそうですが、
「前もって準備したことをそのまま言う」のも苦手です。
これは昔は違ったはずですが、きっと趣味が変わったのでしょう。

前に書いた「先回りの想定」を僕はぐるぐるやってしまうのですが、
例えば会話で、相手がその想定通りの言葉を返してきた時に、
既に頭の中で完成したフレーズを返すか、その場でアレンジするか、
あるいは全く異なる展開にもっていくのか。

趣向としては、ストックフレーズの低抵抗出力は面白くない。
相手との関係や仕事の要求などはもちろん除いての話で、
自身に対する自分の発言の影響を考えるとそうなります。
日常的な会話でこれを重視しても仕方がないですが…
(まず相手を見ろよ、と言われそうです)
会話における「いきいきした感じ」を重視するなら
自分の趣向を満たすこともプラスに活きるはずですが、
その前に気を遣うべき項目はたくさんあるのでしょう。


話を戻しましょう。
一人で事前にいろいろ考え、いくつもの展開を想定し、
それぞれ想定した過程における問答などを想像しました。
けれど、その場の雰囲気で対応を決めよう、と強く思っていました。

(そうか、「考える前に考えるんだ」とはこのことかもしれない)

で、その場の雰囲気に任せて喋り、
いくつかの助け舟に同時に乗ることができ、
状況の改善度としては上々の首尾となりました。


仕事環境がまたがらりと変わります。
業務内容は変わらないはずですが、まずは環境への適応が第一です。
「異質な個空間」から「まともな(はずの)公空間」への移行です。

期待はしません。
流れを感じ、ふわりと身体を浮かせて、ゆらりと前進する。
心機一転、柔軟に。

まあ、忙しいので、期限つきの仕事はしっかり間に合わせましょう。
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あらま。

あらま天狗。

いやなんという恐ろしいタイミングか今日健康診断の結果が出まして、
GTPだかGPTだかの数値が去年(一昨年?)と比べて跳ね上がっていて、
ぶっちゃけどうやら肝臓がよろしくないようです。
で肝臓不調系の疾患と症状を調べてみるに、全く自覚がなかったんですが
不覚なことに(重複)、食べ過ぎ&飲み過ぎ生活を送っていたようです。
詳細は書きませんが(というか過去記事に全部書いてある)、
もしかすると食習慣をがらりと改善すれば、
思った以上に色々な事態が快方に向かうかもしれないと予想されるわけで、
(ヤボいですが「あらま」はこの下線部を指しています
まあ感想を一言で表せば「一人で生活するのもたいへんだね」と。

まあ詳しくは書きませんが(二回目)、
特に後悔してるわけでもないので、
(なんつか、内容でなく形式として、後悔しないような生活を送る努力をしている)
生活の設計の仕方は変えずに生活を改善していこうと思います。
おそらく身体をガタつかせたのはおおかた自分のせいで、
長期間にわたる蓄積が今の(というより数ヶ月前からの)不健康を出来している。
一気に底落ちしたきっかけは外因にある可能性もあるけれど、
むしろそのお陰で不健康が(もっと後に気付くより)緩やかに顕れた可能性もある。
気分的にはその外因を事故以外のなにものでもないと思っていたけど、
長期的に見れば「塞翁が馬」なのかもしれない。
まあ感想を一言で表せば「一人で生活するのもたいへんだね」と。(二回目)

しかし空腹だと思っていたものが空腹ではなかったというのは、
自分の身体のことどんだけ分かってへんねんとかなりショックではあった。
(あるいは飾磨氏(@『太陽の塔』)の名言を地で行くという証明だろうか)
この肝臓不調の感じを覚えておこう。
とか頭で言ってるからダメなのかしら。
いやいや。
必要であれば身体が覚えてくれる。
現代的には本当は頭は身体のために情報を仕入れてあげるのが正解なのだろう。
分かっちゃいるけど、ね。

かんぞうくんを、いたわろう。
そいや前の検査から7kgくらい太ったとはいえまだ適性体重に届かないんだけど、
これでまた痩せ戻りそうだな…平均なんてぜんぜんあてにならん。

ああ…ホントに転機だな。
記念にテンキー買おうかな。
会計士の姉は「おテンキーお姉さん」。
くだらねえ。
うるいなら泣いて笑ってくれるだろうに。
(「うっわー何言ってんのー! 超おもんねーぎゃははは」みたいな)
うう。
なんだか気がつけば、
ストパー意欲が失われていた。
意欲というより習慣、というより惰性なのだが、
その惰性すらはたらかなくなったらしい。

てなことはなくて、どうやら自分の髪が気に入ってきたようだ。
もう鬱陶しいを超えて長いのだけど、
うまくリンスを使うといい具合にしっとりとおさまってくれる。
シャンプーはほんの時々でよいのだ(とか言わない方がいいのかな…)。

部署の先輩に美容院の紹介割引券をその場の流れでお願いしてしまったけど、
いらないかもしれない、使わないかもしれない、色んな意味で(?)。

当面はシャンプーとリンスの使い方に習熟して、
髪方(髪の方々)が爆発せんように手なずけるとしみよう。
切るという選択肢がないのが不思議だね。
ま、必要だから。

パーマカルチャーって単語だけ聞いたことあったけど、
調べるとパーマでもカルチャーでもなかったという。
ここでは「縮毛文化」の意味でつかってます。
個人の趣味に文化もなんもないけど。

+*+*+*

『ひとりで渡ればあぶなくない』(森毅)が身に染み過ぎてちと困った。
僕は本を読む時「ふむふむ」と思えば線を引き、
「これは!」と思えば線を引いた上に○とか☆とか「…。」をつけるのだけど、
今日Veloce用に読み始めた本書はほぼ平均1ページごとに○をつけた。
つけたかった、というよりはつけざるをえなかった、というようなつけ方だった。

「みんなで渡ればこわくない」が、「ひとりで渡ればあぶなくない」。
こわいのがいやか、あぶないのがいやか。
僕は、あぶない方がいやだな。

「こわい」のはそのこわさが身に染みているからこわいのだけれど、
「あぶない」のはそのあぶなさに気付いていないからこそあぶない。
こわくても、あぶなさに気付いていたい。
きっとそれが「身体性の賦活」というやつだろう。

(そういや別のエッセイで読んだけど森先生は八幡に住んではったんですね。
 同時期ではなかったみたいやけど、ご近所さんやったとは。
 これからどんどん読んでくエッセイにも特別な親しみがもてそう)
ミドルデガー。(意味不明)

自分は何も供出せずに、相手に何かを求めること。
それは、よくない。
いけないことはないけれど、よくないことが起こる。
だから、相手に何かを求めようとしていて、しかしそれに後ろめたさを感じている時、自分は相手に何かを贈ろうとは考えていないことに気付く。
そういう風に、迂回的にしか気付けない時があるのだ。
個人が内で閉じていて、しかし頭は回っている、という場合。
おそらく、個人が外に開いていれば、相手に求める前に、
自分が相手に贈ろうとするはずだ。
そして後になって、「僕はあの人を求めていたんだ」と気付くのだ。

きっとこれは「迂遠な健全」で、しかし根がしっかりしていれば少しふらついてもどこかで戻って来ることができる。
何かといえば、後ろめたさをバネにすることもできるということ。
しかしこれは自分から「我を忘れに行く」ようなものなので、
後悔をもたらすことが多い。
もちろん、我を忘れない跳躍、というものもないはずなのだけど。

「論点の先回り」という話がある。(というこの提起がまさに「論点の先回り」の実例で、しかし今回は「論点ずらし」も加わっているのでちと複雑)
会話の進行を見越して先回りの発言ばかりしていると、
相手との会話が心地よくは成り立たない。
会話は論理だけで成り立っているのではない。
ベタな筋をたどるだけの会話が楽しいことからそれは分かる。
「論点の先回り」はその楽しみ方を自分から潰しにかかっている。
あるいはお互いがそれを知りながら「(論理的に)充実した内容で、しかし内容よりキャッチボールそのものを楽しむ」という会話も想定できようが、それはほとんど小説世界での出来事である。
なにしろ複雑に過ぎる。

しかし「論点の先回り」は、頭の回転数の上げ所を間違っているという話もあれ、頭の回転がしっかり保たれているという意味においては健全である。
だから、不用意にしてしまった時にその都度反省すればよい。
疲れるけど。
ああ、また疲労の話に…まあしちゃうけど。
恐らく自分はこの疲労を悪いものとは思っていなくて、同じことをした時の疲労が軽減されるのは身体にとって(短期的には)よいのかもしれないけど(長期的には)よくないのかもしれず、後者を重く見てあまりこの疲労に慣れたくはないなと思って、つまり変わらない疲労が続くという意味でこの疲労は重層的な疲労なのである。
疲労が蓄積していった時に、体調を崩す場合と局所的に麻痺が起こる場合があって、
この両者では疲労の質が異なっていて、僕は前者が健全だと思う(不健康だけど)。
かかったことないし想像だけど、一般的に精神科医というのは疲労をなくすのではなく麻痺させることで疲労を感じなくさせる術を処方としているのではないか。
(だから(?)名越先生や春日先生はふつうの精神科医ではないと思っている)
この麻痺というのが、弱さ(vulnerability)の封殺でもあるように感じていて、鷲田氏のファンとしてもここは譲れない一線なのである。

話を戻して。
久しぶりに気付いたきっかけは複合的なものである。
(毎度のことだけどぼかしまくってるので訳わからん話なのはご容赦。
 後に自分で読んで内容がサッパリやったらそん時はそん時ですね)
そして結論としては、「自分が相手に贈ろうとしたくなるのを待つ」なんて日和るつもりはなくて、まあ上記の「バネ」を(使う流れになっちゃったら)使うという「位相を上げた日和見」でいきましょうと。
自分が何をしたいのか、身体の底では分かってるんです、きっと。
それを信じて、待つ。
弱さを守り、麻痺しないように。

待ち人、わたし。
(ておみくじに書いてあったら「深いなあ」思うんやけど、まあないやろな)
半眼の極意。

『半眼訥々』という高村薫の時評集があって、『レディ・ジョーカー』とか合田雄一郎シリーズとか「地に足の着いた硬派もの」作家そのままの内容でありながらタイトルが何しろよいなあと思っていて、ところで半眼というのは決して眠いわけではなく物事を冷静に見つめる時の自然形である。

髪が長い人の中には見るからに(人柄でなく髪が)鬱陶しそうな人がいて、「前髪が目に入るんだよね」とか言いながらなかなか切ろうとしなかったり(僕です)、上司に注意されたり総務に「社則の規律を逸している」と言われたりしながら「そうですよね、同感です」とかナメた態度をとったり(僕です)、果ては週末にサッパリ切ってきますと宣言しながらノーカット縮毛矯正で逆に伸ばして「あ〜さっぱりさっぱり☆」(@魔法陣グルグル)な人間がたまにいるが(全部僕ですね)、そういった輩の皆が無意味に体を張っているわけではないと前から思っていた。

話を結合すると「半眼状態」は冷静な思考を賦活するのだが、考える時だけでなく常日頃から半眼でいることで身の回りの物事の本質をズバッと見抜くことができるのだけど、「ちょっと鬱陶しいくらいの前髪」がその半眼状態を維持するブリンカー的役目を果たすのだと今日気付いた。
ちょっとした身体的不快というのは時間が経つと慣れるもので(靴下の中の足がかゆいとか、靴底のゴムが一部砕けて踵の踏み心地が怪しいとか)、それは身体的不快の原因要素が消失する場合もあれば原因要素はそのままに身体が不快を取り込んで新たな調和を見出す場合もあって、目に入りそうな前髪が体感として鬱陶しくなくなるのは後者の場合で、その具体的なところが半眼状態ということになる。
これは意外と効果的と思っていて、なぜなら脳の動きと身振りというのはいつも組み合わせて行っていると片方だけやろうとしても自然ともう片方がついてくるものだからだ。

きっと海月の前髪もだらんと垂れていると想像する。
もしかして海産物つながりでワカメみたいにくねくねしてたりして。
由良木先輩みたいな…それはちょっとやだなぁ。
そうそう、昔の話だけど大学のジャズ研と部室を共有していたDJサークルの本棚のマンガが自分のお気に入りのルーツで(その節はお世話になりました…そして勝手に読んですみませんでした)、幸村誠(『プラネテス』)と日本橋ヨヲコ(『プラスチック解体高校』)はそこで初めて知ってハマった漫画家なのだけど、その縁で院時代に読んだ『少女ファイト』を最近読み返すと無性にバレーボールがしたくなった。
会社のサークルでは2年くらい行ってない幽霊部員だけど、もうそろそろ練習行こうかしら。
戻ってきた。

部署の後輩がひよこのように歩くので横目で見ていて面白いのだけど、
会話もテキトーでいて間がしっかりとれているので心地よい。
テキトーなのは自分がテキトーなのでどうでもよいのだけど、
いいと思うのは会話の内容ではなく始まり方。
以心伝心というか、言わないでも(見ないでも)伝わるのがいい。
怠惰の裏に隠れた気遣いに反応する、というような。
もちろん思い込みの域を出ないけど。

それはよくて、その後輩と服装の話をしたのだけど、
「出掛けた時に上下の相性バッチリな服だとそれだけでその日一日ハッピーです」
と聞いて、ジェンダー的典型的反応として「単純なやっちゃなあ」と返事しかけて
「へー、そりゃいいね」と言ったのだけど、その反射が通り過ぎた後にあらためて、
「そりゃいいなあ」と思った。
自分は服ではなく髪がそれにあたるはずで、
はずというのはまだ実現していないからで、
何かというともうすぐ「髪を伸ばす」時期だなあというので、
それがむりくりなのはもちろん毎年好例の縮毛矯正だのです。
今月は半ばに社長講話があるので(これまで何度も「髪切れ」と言われた)、
それまではモジャった天パを丸めてごまかしておいて、
いざ縮毛矯正の時は「カットなし」の暴挙に出ようとこれは毎回考えている。
が後頭部の髪が多いからあててもちょっと伸びたらすぐもっさりしそうだな。
やっぱ「スいた方がいいですよ」って言われるのかなあ。

で話がずれたのだけど、
僕の場合はきっといい感じに伸びてきて後ろで束ねたりなんかして、
風がちょっとある日で歩いてるとさらさらふわふわ髪が漂ったりなんかしたら、
「ああ今日は一日ステキだなあ」なんて思えるのではなかろうかと。

「男らしさ」「女らしさ」という性役割は性別と一対なのではなく、
「らしさ要素」は各々沢山あり男も女も「らしさ的」には男女関係なく持っていて、
その「らしさ要素」の集積が男か女かのどちらに大きく傾いた時に、
総合判断として一個人が「男らしい」「女らしい」と言われるのが筋で(たぶん)、
「らしさ要素」の集積バランスは人それぞれに違っているはずで、
たぶん僕には心地よいバランスに至るために女らしさが足りてないのだと思う。
と、頭では(言葉にする以前の段階だけど)ずっと前から思っていて、
「けれどやってみると全然そんなことないんだろな」と前までは思っていたけれど、
実験的生活とは「やってなんぼ」であるのでとりあえずやってみて、
(関係ない話だけど「とりあえず」をよく使うようになってから思ったのは、
 「とりあえず」を使うと反射的に嫌がる人は好きになれないのだなと…
 それが「溜め」でなく「回避」に使われてイヤな気になるのは同感だけれど、
 その反射をしてしまうと彼らと同類になってしまうことに気付いて欲しい)
しかしこの「とりあえずやってみる」ことのリスクとベネフィットというのが、
常識的には全く釣り合わないことは僕も分かっているのだけれど、
要はそのリスクをリスクで無くせれば万事解決と相成り申す。 
「フリスク食べて、リスクもスッキリ解消!」


で話が胡蝶になりつつあるので戻して、
「それだけで一日が幸せ」という境地に、
考えることの放棄によってでなく、
考えることを突き抜けることで行ければいいなあと思う。
そうなるとモデルは橋本治になるのだけど…
あ、そいえば最近『ロバート本』読了したのでまたなにか書こうかな。
ホント凄いよなこの人。
そして『デビット100コラム』がすごく読みたい。
きっと何冊か後のハシモト本になるだろうと思う(まだ未入手)。

+*+*+*

今日ついったで見つけたNoisliというサイトがとてもよいです。
お初の今日は「風」と「木の葉」と「月」にして小一時間聴いてます。
「月」ってなんだろう? と思ったけど聴いてみてなるほど。
心地よいです。
冬眠したひ。

ある状況から別の状況へ移る時に、移動後の状況が垣間見えて(想像ができて)「まあなんとかなる」と思うこともあれば、「ほんとうに大丈夫だろうか」と思うこともある。
同じちょっとした想像からこのどちらにも転がることがあるというのは、この想像が実際その通りになることはまず少ないとしても、想像の中身よりも状況(周囲の環境)と(自分の心身の)状態の関係性がここに効いてくるからである。
状況の変化を前後含めて想像できるとしても(前は現状ですね)、この想像は「変化前の」状態においてなされている。
状態の変化後、というものが高い信頼性で想像できればよいのだが、それが確保されない時に、状態の変化後というものは(未知であることは当然として、)「親密さ」が損なわれるのであって、そうすると状態よりは客観的に想像できるはずの(変化後の)状況というものも中身が印象と切り離されて宙に浮いてしまう。

ある時にしっかり考えたことを、あらためてふと考えてみた時に「なんであんなこと自信もって思えたんだろう」と思うことはざらにあって、その疑念が膨らむと「ふと考えている今の自分の状態を疑う」か「ある時にしっかり考えた思考内容を疑う」かのどちらに転がることになるけれど、これはまず感覚に従うなら後者が親和性が高い(今の自分の状態が行動の大前提におかれるから)。
しかし全てを感覚に任せると思考の内容や志向が全て心身状態に左右されることになって、「論理って何? おいしいの?」ということになってしまい、意識を統べる人間が大きく動物に近づくことになる(別にそれ自体に良し悪しはないが)。
リアルタイムの感覚に反するという非自然を冒してこそ前者を志向できるのだけど、それはそのまま不安である。
身体全体の不安と、脳の(身体性に左右される)部分の不安を抱えながら、どうするか。

どうするか、とは、何か?

ああ、一つシンプルにして効果絶大なのは、「目標」を持つことか。
目標への果断な歩みは上記の不安を吹き飛ばすような安心感、充実感を脳・身体両者に引き起こす。

うーん、シンプル・イズ・べ…
ベンダブル。
曲がるんです。
つまり単純なものほど応用がきくという…
という…
「はっぱ?」「ポチッとな」

個の境界を広げる(曖昧にする)傍証を集める。
人当たりが良い時と悪い時があって、自分が平常であるのは同じとする。
内の人格が常に外に発揮されるものだとすれば、原因は外にある。
(「自分が平常であるのは同じ」という認識をまず疑うのが常識らしいが)
上記の違いが相手に因らない場合、考えられるのは「場」だ。
所属を負わない相手と、やりとりする場が変われば自分の応対が変わる。
理想的には恐らくそうで、しかしそこですぐに場の変化を求めるのは早計だ。
問題は人当たりの良し悪しではないからだ。
自分の他人への応対は、そのまま自分の状況を表している。
その静的な(=固定して見た)状況を議論するに要する筋道がある。
その道を通るとはすなわち、通る間に道が崩れて真っ逆さま、である。
どこに?

ブラジルに。(どーん)

閑話休題。
身体と脳は繋がっているが、身体が許す限り、脳は自分と身体を別個に扱ってよい。
よいというか、これは当然の事実を述べたに過ぎない。
しかしこの自覚が、許容できる身体の限界を(少し)広げる。
それは身体そのものの力(忍耐力?寛容力?)の向上によるのではなく、
身体の力の変化(衰微)をぎりぎりまで「連続的に」モニタできることによる。
材料力学でいう「降伏応力」に達するまでの時間(←単位圧力)が延びるイメージで、
この場合グラフの傾きはそのままである。

ということで、モニタはしばし継続。
歩くことについて。

目を瞑りながら歩くというのを続けている。
続けるといって最初から最後まで目を開けないわけではなく、一度に瞑る時間は長くて10秒くらいだけど、勤務時間外で歩く時はちょこちょここれをやっている。
動機は最初は「目を瞑っても真っすぐ歩きたい」というのがあって、身体のバランス感覚向上みたいな感じだったのだが、あとで加わったのが「視覚を閉じることで別の感覚・神経を研ぎ澄ます」というもの。
触覚が敏感になれば足裏感覚が増すとか風により親密になれる(半袖ならなおよし)し、聴覚が敏感になれば自分の周りで動くものの場所と動きを察知できるし、嗅覚が敏感になれば…通りの家の晩ご飯の献立をばっちり把握できるようになる。
このうち触覚と聴覚にこだわっている所である。

先に聴覚を言うと、例えば信号のない車道を横断する時に目を瞑って渡る。
と書くとあからさまな危険行為に思われそうだが、もちろん無謀なことはしない。
気配を感じた時点で立ち止まって目を開ける。
車は分かりやすいが、ある種の自転車は危ないかもしれない。
これは聴覚だけの話ではないのだろう。
音がしなくても、自分に近づくものがあれば気配を感じる。
この精度を上げるのに、ちょっとした危険はよい刺激になる。
もちろんやる場所を選んでやっている(もともと車通りが少ない所とかね)。

触覚についてが最初に書きたかったことで、特に足裏感覚のことである。
最近は踏ん張って地面を蹴る際に指を意識するようにしている。
ただ全ての指を使うかといえば、使っているだろうけど意識はそれと異なる。
意識する場所はいくつかあって、親指・人差し指とか、中指・薬指・小指とか。
前者だと足は(進行方向に対して)まっすぐになり、後者だと少し外股になる。
どちらが速いか、というと差はありそうだけどそこはあまり意識してなくて、
歩きのスタイル(足以外の身体各部の動かし方)が各々で変わってくる。

それはよくて、最初の話と実は繋がる話で、どうも、
「足裏感覚を研ぎ澄ませて歩くと目を瞑って正確に歩ける」ようなのだ。
正確に、の意味は、真っすぐだけでなく道に沿って歩けるということ。
この足裏感覚というのが、指で踏ん張る以外にも着地時の体重のかけ方とか、
接地してる間の地面に吸い付かせる感じとか、色々ある。
もちろん足裏感覚「だけ」ではないのだけど、これを意識してから変わった。
目を瞑って歩く間の体のふらつきが減り、安定感がぐんと増した。
たぶん、歩く動作を「割れる」ようになったのではないかと思う。
歩き動作における頭(いや、身体?)が把握できる単位時間コマ数が増えたのだ。
これは「マイクロスリップ」の話と一緒だろう。
たしか、何か明確な意図をもった動作の間にも動かす身体部位は微小にブレていて、そのおかげで唐突な状況変化に対応できる(打者がピッチャーの球種を読み間違えてもバットを振りながら球に合わせていける、といった)という話だったと思う。
歩きの姿勢がブレないことともう一つ、路面状況によるブレも減った。
砂利道とか悪路で敢えて目を瞑って歩く、というのもやっているが、
凹凸のせいでうまく踏み込めずにバランスを崩すことが減ったのだ。
これは意識以前の対応で、やはり踏み込み動作が「割れた」からに思える。
目を開けていれば、自分が踏み込む先の地面を見て足の下ろし方を調節できる。
地面が見えていなければ、足裏で地面の状態を探るしかない。
きっと、足裏が地面に触れるか触れないかの一瞬のところで判断をしている。
何げなく歩いていると気付かないが、案外凄いことをやっているのだ。

「彼女は二人の間では"過燐酸石灰嬢"と呼ばれている」

消費者でいることに居心地の悪さを感じ続けること。
それは疲れるし、社会活動に振り向けるべきエネルギーの浪費になる。
もちろんこれは裏返して見なければならない(表=多数派)。
居心地の悪さを抱え、分析対象にしてこそ、消費社会において「消費者的でない行き方」を模索することができる。

「消費活動で経済を回して社会に貢献する」という。
その貢献する対象というのは、消費社会という社会の一面である。
今の社会を維持するにはそのような貢献もある程度必要であろう。
しかし全ての人間がその種の貢献だけで満足すれば、どうなるか。

この「ある程度」は、アバウトに見積もっても大変大きいものだ。
言い換えると、こんなことを考えるのはごく一部の人間でよいということ。
そして彼らはアウトローにもなり得るし、縁の下の力持ちにもなり得る。
彼らと「ある程度」の人間の必要性の見積もりをどう行うか。

それをしようと思うのは、当然だが彼らの方だ。
彼らが自分の立ち位置に使命感を見出すためには、消費社会の論理に埋没していてはいけない。
しかしその使命には、社会の一面である消費社会の維持も含まれている。
呉越同舟、といったところか。

そう、アウトローが山で暮らしていても、彼らと同じ舟に乗っている。
ここは数で効果を見積もるような似非現実主義的思考をすべきところではない。
「自分一人がなにをやろうがたかが知れている」?
思考の出発点は、その個人主義的発想の集積が現在を作り上げた事実を認めること。

もっと哲学的(現象学的?)なアプローチもあるかもしれない。
個人主義といって、状況によって個人は縮小することも肥大することもある。
その(個人という境界のとりうる範囲の)広がりをイメージなりでとらえる。
あるいは個人主義の境界が厳密に一個人で閉じられた社会が成立するかどうかを考える。

もしかすると、個人主義と言われる消費社会の隆盛はこの境界の曖昧さのお陰かもしれない。
そして経済成長に限界が見える今と、境界の曖昧さの消失がリンクしているかもしれない。
こんな話は例示でイメージを補強できても、実証できるものではない。
人が「実証」を口にする時、その効果の確実性を期待している。

しかし別の話もあって、未来予測とか科学で実証とかいった「確実主義」という"常識"もある。
確実主義とは、「ああすればこうなる」(@養老孟司)のことである。
確実主義が上記の消費社会の隆盛→衰微の流れに勢いをつけているとすればどうなるか。
この実証が流れを止める(変える)ために効果的でないことは間違いないということだ。

話は込み入っていて、話が込み入る理由はいくつかある。
この場合は、長い間いくつも放置してきた野方図な単純さを回収しようとしているからだ。
単純さの「伏線」を、だ。
多角形の面積を求めるために補助線を引く。

しかし補助線を引くべき多角形が「閉じていなかった」場合に、受験生はどうするべきか。

1.テストの問題が間違っており、後で訂正され全員正解になるので今は放置する。
2.放置したまま他の問題を解く気になれないので挙手して試験監督に知らせる。
3.多角形もどきの「穴」を閉じて自分でちゃんとした多角形にしたうえで解く。
4.それ以外

そして僕らは、もはや受験生ではない。
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