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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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現在メインで使用しているブログからこのブログの記事に飛んでくる時に、
広告だけのよくわからないページが最初に表示されて、
(表示を更新すれば元の記事にいけると後でわかりましたが)
どうやら1年以上更新がないとそうなるらしく、
それはいろいろ不便だと思ったので久しぶりにこちらに書いています。

過去に自分が書いたものでよく参照するのはこの記事で、
イェーツの詩をふと思い出した時に「原文どうだっけな」と見に行く。
最初に読んだ時(に恐らくこの記事を書いた)は「いい言葉だ」と思って、
感動して何か書きたくなってあのような文章を書いて、
今はこの言葉が僕の中に根を下ろし、生きる方針、思想の核となっている。

さっきその記事を探そうとして「カフカ少年」でブログ内検索をしたら、
もう一つ面白い記事を見つけました。
『海辺のカフカ』を当時読んでいた時の自分の頭の中はもはや想像できませんが、
(とはいえというか、偶然なのか、今はこの本を再読している最中ですが)
どうしてこんなことを思いついたのだろう、と今の自分が思うことが書いてあって、
いろんな意味で非常に興味深い。
なにかものすごく本質的なことを書いている気もするし、
微妙な事象を明確に言葉にし過ぎているような気もする。
過去の自分が書いた文章を今でも面白いと読めるのは、
当時の関心を今も持ち続けているということですが、
その文章の内容とは違うところに興味というか違和感を今持つのは、
今の自分が書く文章の、何かしら抽象的な性質が変わったことを意味する、
のではないかと思います。

ことをどれだけ、明確に、あるいは鋭く、あるいは意外な着想で表現するか。
「書きながら考える」という内田樹氏のスタイルを(勝手に)受け継ぎながら、
ということは「わかっていることを書いてもしょうがない」ということで、
それは当時も今も変わりませんが、
そのような、書く方針、動機といったものが…


書いてしまったものには意味はないのです

という、甲村図書館の館長室でナカタさんと会話する佐伯女史の言葉が、
今突然浮かんできました。
そう、当時と今とで違う点は、ひとつはここにある気がします。
自分が書いたものをあとで読む時の面白さや姿勢といったものは、
あまり変わらないかもしれない。
でも、自分が書いているその時に「あとで読む自分」が頭の中にどれだけいるか
今は、その「あとで読む自分」が、小さくなったような気がします。

その理由は、今は分析しないでおきましょう。


ボルダリングを4ヶ月ほど前に始めて、
以前よりも身体が賦活され、
「今を生きる」感覚が活性化されてきたように思います。
それは身体を動かしている(つまり「登っている」)間だけではなく、
部屋で読書している時も含まれます。

いま、外の天気は大荒れで、台風が来ているようです。
天気がどうあれ、明日も登りに行きます。
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近況。

食生活の改変はまだ移行途中だけど身体が軽くなった感じはある。
吐き気はなくなった。

そして風邪をひいた。
昨日の夜から体がだるいのと、今日は鼻水がよく出る。
週末に体調を崩すというのも調子が戻ってきた証拠だろうか(?)
なんだか風邪の症状も「まっとうな風邪」のそれに思える。

そうそう、味噌とカボチャとネギが沢山残ってたから、
それの処分があって移行期間が長引いているのだけど、
味噌汁の具が減って汁が透明なのに感動してしまった。
つるっと喉を通る味噌汁というのは素晴らしいものだ。

今まで何を食べていたのだろうか…

+*+*+*

なんだか考えを文章化する気が最近起きなくて、
その理由についてさっき考えてみた。

いつも何かしら念頭にあって、
そのうちひとつをチョイスして思考を深めたいと思えば書くことになる。
けれど最近の「念頭の事々」はそうは思えなかったのだろう。
あまり書かない方がいいと思うことはもちろん直接書くことはできない。

「なぜ”あまり書かない方がいい”と思うのか」についても、
その内容を間接的に示してしまうようだとやはり書きにくい。
だから、何か書きたいと思って書けるなと思ったことが、
「あまり書かない方がいいこと」であった場合に、
遠回しにオブラートに包んで迂回的表現を駆使して抽象的に書いている。
普段の自分は。
その「訳の分からない抽象」から後の自分が復元できないことも織り込み済みで。

しかしその手の書き方が少しイヤだなと今の自分は思ってしまっている。
何故にというに、その書き方では人に伝わらないからだ。
いや、もともと人に伝えようと書いたものではない。
リアルタイムで書く自分の思考を発展させることが主目的である。
がしかし、これも文章を書く行為に他ならず、
ここで今ブログを書いている以外の文章を書く行為と少なからず繋がっている。
(そして文章を書く行為と言葉を発する行為も繋がっている)
意識では別だと思っていても、相互影響をそう簡単に排除できるものではない。
生活の各コマが有機的に繋がっていればこそ、自分の思う以上に関係している。

書くうちに自分が言いたいことが分かってきた。
趣味(というか思想)が仕事を侵蝕している。
端的に、今の自分が展開している考え方でそのまま仕事をすることはできない。
部屋で一人で考える時というのは大体において、
非協調的(非社会的)でニヒリスティックなのだ。
無常観を内に抱えてこそ得られる視点は確かにあって、
あるジャンルの読書の醍醐味はその「空っぽな自分」を開放できるからだ。
ただ、それを(読書以外の)他の生活領域と切り離すことを全く考えていない。
それは「読書経験が生活に生かされる」ことの一つの実践だと思っていた(が、
これは考えが単純過ぎるのかもしれない)。

ともあれ、
何でも頭で考え過ぎだということはまず間違いない。
生活が緊張していればいるほど、頭だけで考えることの不安が大きくなる。
それを問題だと思って、解決したいのであれば答えは1つ。
時間ですね。
つまり、仕事が過渡期だということ。
今回の件は冷静に考えると、転職に比する変化なんではなかろうか。
だからといって、なるようにしかならないのだけど、ほんとに。
来週1週間で落ち着けばいいな。
ひきつづき。

というわけで早速食生活を変えつつある。
まだ作り置きが残ってるので移行途中だけど、
とりあえずこんな感じに変えようと思っている。

朝食:
 納豆チーズトースト+サラダ+目玉焼きベーコン
 +りんご半切れ+kiriチーズ+ヨーグルト+ミルクコーヒー
  ↓
 グラノーラ+リンゴ半切れ(+ベーコンエッグ)+ヨーグルト

昼食:
 パン+オールブラン2切れ(1袋)
  ↓
 社食…A定食ご飯少なめ(味噌汁なし?)

夕食:
 ご飯+スペシャル味噌汁+豆腐
 +おとも(マグロ煮付orいわし?+野沢菜?+ニンニク漬物)
  ↓
 ご飯+キムチ+インスタント味噌汁(+豆腐?)
 or スパゲッティ

「一日の必要栄養摂取量」という言い方をするけれど、
一日というより数日(あるいは一週間)単位で考えるものではないか。
それが日替わり定食のコンセプトなのではないかな。

朝食は入社以来の変更で改革といっても過言でないのだけど、
未練も何もない。楽になるし。
しかし改めて見ると食べ過ぎてたな…
夕食は入社時に戻すような感じになるが、
あの時は無闇に主食の炭水化物を盛っていたので、
今回はそうならないよう気をつける。
空腹を思い出したい。
「わりとお腹いっぱいになったけど足りてないかもだからもう少し食べよう」
みたいな身体を無視した食事をとらなければまず快方に向かう。確実に。

というようなことを考えながら今日はスーパーに行って、
グラノーラを大量購入した以外の食材の少なさにびっくりした。
まあ、自炊の楽しみはとりあえず度外視しておこう。
今は食べる量を減らすことが健康につながる。

この土日でちょこちょこ食べる量を減らしていて、
食後に満腹にならないようになって身体が楽になった気がする。
吐き気も薄れてきたような。
(しかし日常的に吐き気がしてたのになぜ異常と思わなかったのか…
 あ、ストレスのせいにしてたんだ、そいえば)
「何かが足りない(満たされていない)」と思ったら水を飲むことにしよう。
水は万能。身体は水でできているからね。
会社でも水分補給を意識しよう。

あまり一気に変えない方がいいかもしれないけれど、
それを意識しつつ体調をしっかりモニタリングしよう。
いままでもしてたつもりというのがほんとうにあてにならんのだが、
これも学習、きちんとフィードバックできれば精度は上がる。

そして身体の変化というのは緩やかに起こるものだと思っておく。
気長に、忍耐強く。
 医者に行って薬もらえば正確な診断のもともっと早く治るかもしれないが、
 病気には時間がかかって回復はすぐというのはなんかいやだ。
 病気の治療に効率の概念が入ってくるのは、体をモノ扱いしているということ。
 病む時はしっかり病まねば、身体に愛着が持てなくなる。
けどまあ、時々は情報を頼りにもしよう。
今回も健康診断がなかったらどうなってたか分かんないし。
最低限の社会性は維持する、と。

+*+*+*

全然話変わるけど、MIDIキーボードを買おうかと発作的に思いついた。
耳コピで譜面を書くのに、もう時代は鉛筆と五線譜ではないらしい。
仕事が落ち着いて、その気になれば。
ふふ。
伏線の回収。

ようやく異動が決まりました。

その意思をもって行動を始めてからずいぶん長くかかって、
まあ行動といって「何かする」よりは「何もしない」の方が近いけど、
単に現状に耐えるのではなしに、そつなき日常と同様に「何かを得続ける」
という努力(身を入れて読書をする、とか)は体力が少ないと難しくて、
やっぱり健康が第一だよねと挫折しかけたこともあり、
あれけど元をたどればその挫折が意思のはじまりだったような気がしないでもなく、
まあぷかぷか浮かぶ意味の泡を割らず掬わずで漂わせる作法というものが
渡世のついでに身についたということで成長したね。

てなことはなくわがままになっただけかもしれないが、
周りより自分の感覚に従えるようになったことも喜ばしい一方で
肝心のところでわがままになれない自分もやっぱり嫌いではなくて、
あれこれどう考えても自分が好きという結論に至るこれはオサマーの証。

それはよくて、おそらく来月初旬から仕事内容ががらりと変わるはずで、
しかし所属はそのままの「隠れ社内出向」みたいな非正式異動なので、
よいこともわるいことも含めて何が起こるか予断を許さないので余談をしよう。
(あ、今思い付いたけど「考えるヨダン」の像があるとしたら(ないけど)
 あの姿勢のままで顔は潑溂ピーチクパーチクの口で、
 座っていると思いきやコサックダンスの一瞬間を切り取ったとても動的な像。
 体言止めにしてみました)

よいことというのはこれまで自分の性質としてきた「境界人」の役得で、
複数のグループに所属するとそれぞれの部署内での束縛が弱まり、
責任の緩和や仕事の自由度の増加などの効果が期待できる。
(もちろん程度によってはその裏返しの悪影響にもなるけど)
ただ今まで以上にまたぐ領域間の距離が広いので、
股が裂けないように注意しなければならない。(これは何のメタファーなのか…)
もうひとつよいというか、通常の異動に比べてわるくないことというのが、
非正式という形によるものでこれが何かというと「政治に利用されない」点だ。
逆じゃないのかと言われそうだが、自分で書いていて同感だと言いそうになったが、
そうではなく…あれ、どうなんだろ。
まあこれはわからん。そして僕は政治は嫌いなので振り回されたくはない。
いや雇われの身である以上体は振り回されざるをえないけど心は我関せずでいたい。
ので「とりあえず勝手にしてください」というしかない。

一方のわるいことというのは、がらりと変わる仕事内容の方で、
ありていに言えば「現場を離れる」ということで、
具体的には一日中PCに座ってカシャカシャやることになる。
社会人になる前は「それだけはイヤ!」と思っていた仕事スタイルで、
しかし日々の平穏を求める今は「まあアリなんやないかな…」と思ってはいるけど、
昔の感覚のままだと長く続くとはとても思えない。
けれど昔の感覚のままではないし(断言)境界人なりの工夫の余地もありそうなので、
これも出たとこ勝負で話は「郷に入って」から。
もともと適応能力は高いはずなので最初に頑張っておけばなんとかなる。
適応したくないと思ったらそれまでだけれど、
今回の異動騒動で少なからぬ人に手間と迷惑をかけているので、
まあしばらくはそれを忘れないようにすれば社会人として行動できるんやないかな。
ここのところ「そこから外れても大丈夫だよ(むしろ外れる方が正常だよ)」
みたいな本ばかり読んでいて(というか読書に没入してこのかたそういう本ばかり
好んで読んできたような気がするが、この読書傾向は明らかに「パンピー適応意欲」
の減退に繋がっているなと思う。もちろんそれはそれでいいと思ってる)、
そういう本を身を入れて読むと自由な精神やら身体性が賦活されるのだけど、
会社生活とはなかなか相性が合わなくて(読みの深さが足りないのだろうか…)、
時に社会人的体力の低下を招いていたのでやり方を変えた方がよいかもしれない。
読む本を変えるのでなくて別の習慣を変えるか人を頼るか…そこはまた考えよう。

で、最初に書こうと思ったのが、仕事ががらりと変わるのに合わせて、
入社後今まで間断なく続けてきた食習慣を変えてみようかなと。
簡単に言えば1年目から今まではほぼ毎日同じ朝食を食べてきたし、
去年の夏頃から今まではほぼ毎日同じ昼食(少量)を食べてきたし、
今年のはじめから今までほぼ毎日同じ夕食(大量)を食べてきた。
変える積極的な理由はあまりないけれど、まあ気分ですかね。
昼食を社食の定食に戻して、その量が増える分朝と夜を減らそうかなと。
ご飯をつくる充実もあるけれど、一度その手間を減らしてみてどうなるか。
異動を考え始めた頃からガタついてきた身体を改善したいとも思う。
このあたりは人体実験の心意気で。
(うん、なんかそう考えると元気になってきた。科学者ですな)
それでやっとタイトルの話になるのだけど、
もしか毎日味噌汁生活が一時休止になるかもと思ったので、
おとといの買い物で「京都の白味噌」を「締め」の意味で購入したのだった。
「これは日常的に食べるものなのだろうか…」と当初は敬遠していた白味噌で、
けれどちょっと閃くと(「八木に電流、走る」)それを思い出す前に体が動いた。
まあこれも、休止するかどうかもその時次第だけど。

さて、異動先で最初からしんどい顔見せるのもよろしくないので、
じわじわ元気を出していくとしましょう。
「本物の嘘つきはウソを身体化して本当にしてしまう」と言うけれど、
いや自分の意思が世渡りのためのウソと言いたいわけではないけど、
自分で言ったり思い込むうちに身体化していく傾向が自分は強いようで、
それは能力でもあり病質でもあって、
つまりは病質として表われていたそれをそろそろ能力として発揮しようかと思う。
「思う」と書いて実際に発揮できてこその能力で、
これは迂回のない(個の)自己言及システムで、
しかしこれはシステムの自己言及とは違うのであって、
個の自己言及はシュレディンガの猫なのである。

にゃお。
あれー?

という感じで栃木行ってきました。
おとといにお泊まり出張で。
なんつーか逃げ切れませんでしたハハハ。
野生の勘も他人をも巻き込む事故には勝てません。

てのは冗談で、栃木は分社みたいな所だけど、思えば4年目にして初。
新人の時に見学ツアーがあったのだけど会社都合で行きそびれていた。
その時やその後に聞いた噂の数々があって、まあ「へー」という感じ。
毎度の如く当日決定で出発が遅く、日帰り不可で寮に宿泊。

時間かかったけれど、まあピンチヒッタにしては良くやった方。
(ふと思うになんで「ピンチバッタ」やないんでしょうね)
日が変わる頃に仕事を終え、分社の方々と飲みに行ってあがりは4時半。
ジムビーム・ハニーが旨かった(シングルで4杯頂きました)。

その翌日も分社出勤で8:40に迎えがくる(分社は寮から遠い)ので早起き。
睡眠3時間は久しぶりの強行で、その日は一日中つらかったです。
でも土曜日なのできっちり本厚木のブックオフで立ち読みはして、
さらに荷物あるのに歩いて帰って身体の悲鳴をずっと聴いてました。

まああれで風邪ひかなかったのなら正解で、
しかし風邪ひくつもりで無理やったので風邪ひいてても正解だった。
なんて戯言は風邪ひかなくて今日安静にして回復した今だから言える。
身体は使い過ぎてもいけないが、使わな過ぎてもいけない。

さて、今週中にはテンキの話ができるでしょうかね。
(しかし天気予報は当たらないなどと言うが、「80%の確率で雨」という予報は
 「20%の確率で雨以外」を含んでいるから、雨が降っても予報は当たっている。
 外れる予報というのは0%か100%しかないのではないだろうか)
Trust happiness!

浮かびて沈む 光路網
内に漂う 真白の音
一つひとつは 儚くも
集い奏でり カオスの唄

黒を目指さば 灰に落つ
長閑けし白は 灰を待つ
灰は廻りて 色を成す
黒白の空 デジタルの海
3日前の話。

3日前に大山(おおやま)に登った。

その前日(木曜)の午後に唐突に「あ、だめだ」と思い、翌日を有休にする。
一週間分のエネルギーが切れたらしい。
が、どうも切れたのは「体力」ではないらしい。
と思い、夕食後しばし黙考の後、「そうだ、大山に行こう」と思い付く。
毎日部屋の窓から拝んでおきながら、まだ登ったことがなかった。

金曜の朝食後に行き方や所要時間を調べ、昼前に出発。
伊勢原駅から大山ケーブル駅行きバスに乗ったのが12:10(これだけ覚えてる)。
終点まで乗っていたのは地元のおじいさんと観光客ぽい夫婦のみ。
そうなのか、とよくわからんが納得して登り始める。

服装は速乾Tシャツに厚手のジーンズ(伸縮も最悪だけどこれしかなかった)、
肩掛けバッグには文庫本とサングラスと行動食のういろう一個、
右手に箱根の水(500mlPET)と左手にもしものGORE-TEX雨合羽(たぶん似非)、
あと靴は危うく全壊を免れているNewBalanceの運動シューズ。
見た目は山登りというより街歩きスタイルで、
阿夫利神社の売店のおばさんに「え?」という顔をされた。


しかし今思うにこのスタイルで登ることに一つ意味がある。
最近読んだ石川直樹の本に「全ての装備を知恵に変える」という言葉があって、
登山の装備を極限まで減らす「ウルトラライト」なるスタイルを最近知ったが、
今の自分に何か訴えるものがあった。
これは「なぜ山に登るか」に関わってくる。
僕の場合は、今回は「自分の生命力を確認するため」であった。
日常においては会社員生活を恙なくこなすために身体機能をコントロールしている。
それはある面を開放したり別のある面を抑制したりすることなのだけど、
身体全体のバランスを考えると時にそれが大きく偏ってしまう。
だから時々それをリセットする必要がある。
これは普通の考え方で、しかし僕は少し違うことを考えている気がする。
上で書いたのは、生命力を「取り戻す」ではなく「確認する」だ。
もちろん戻ってくるに越したことはない。
しかしそれは(今回に限っては?)主目的ではなかった。
「今の自分はどれだけ生命力を発揮できるか?」を知りたかった。
その前段には「今の自分はあまり元気ではない」という認識がある。
その「元気ではない」の"元気の種類"を特定したかったのだ。
もちろん事前の予想はあって、その蓋然性が高いからこその無茶であって、
幸か不幸か予想通りの結果ではあって、書きたかったのは、
3日も経つのにまだふくらはぎが痛くてまともに歩けないというただそれだけ。

ちょっと話を戻すと、
登山において「安全対策を万全にする」ことは第一に重要である。
命の危険を考えれば対策にやり過ぎはないのかもしれない。
が、
命が惜しいなら登らないのが賢明であろうと思う。
別に命を山に捨てに行くために登るわけではないが、
「絶対安全な登山」に僕は全く魅力を感じない。
(それはテレビでハイキング番組を見るようなものだ)
雪山の魅力などは、まさにそこにしかないとすら思う。
「わざわざ危険を冒すためなんて馬鹿なことを」と思われるかもしれない。
しかし、それをせずにはいられない人がいて、
その本人も自分は馬鹿なのだろうと思っていて、
それで納得?
「そこに山があるからだ」というわけの分からないフレーズは、
論理なんかないからわけが分からないのも当たり前で、
「山」とくれば「川」という、つまりは合言葉である。
(「おーにぎーり」とくれば…「○○○○○!」懐かしいね。)
通じる人にしか通じない。
これをコミュニケーションと言わずして何と言おう。


もう少し話を戻して。
とりあえず今回の行程の記録という意味でメモ。

良性の曇りで登山コンディションは良かったがガスってて景色は見えず。
途中に「富士見うんたら」という富士山が見えるらしい地点でもまっしろけ。
山頂では売店は閉まっており四方はまっしろけ。
それでも山頂には5、6組の登山者がいた。
ご年配方が多いのも然り。
そういえば山頂に着くまでに何人かとすれ違ったが、
一人だけジーパンTシャツ手ぶらの若人がいた(あとはみんな標準装備だった)。
ついライバル意識を燃やしてしまう。
で、下りは日向薬師に抜けるコースで途中の「見晴台」でもまっしろけ…
ではなかったが、山の裾野以外に何も見えず。
でも心地よい開放感で、ここで初めて腰を下ろしてういろうを食す。
水を飲み干していたのでういろうの後味がしばらく離れない。
5分ほどで再出発、年配の団体グループ(重複?)を追い越し、ずんずん下る。
ふくらはぎは恐らくこの下りで痛めたらしい。
いつも階段を上り下りしてるみたいな負荷の掛け方は、たぶんまずいのだろう。
まあこれは切実に必要とされた時に改善するとして。
山道を抜けてアスファルトに出て、歩くとキャンプ場やら釣り場がある。
地図の看板もあり、このまま歩けばバス停に着くらしい。
と、前方で下りの山道がこの車道と合流しているのが見え、
その山道から見覚えのある人が下りてくる。
山頂で休憩していた二人組で、自分が先に下りて以降抜かれた覚えはない。
どうやら遠回りの道を選んだらしい。
これは次回以降の参考に。
で、バス停にたどり着く直前に七沢へ通じる道を発見する。
看板には「七沢まで50分」とある。
最初に考えていたのはバス停→伊勢原駅→愛甲石田→バスだったが、
七沢まで歩けばバス一本で帰れる。
時計を見ると17時前で、ほとんど座らず6時間以上歩いてきたらしいが、
50分なんてその1/4以下である(という計算をなぜかその時にした)。
足が限界だったような気もしたけど以上の計算により徒歩続行となり、
バス停そばの自販機でようやく水分補給のためにスポーツドリンクを買う。
と、「ピピピピ」とよくある数字が4つ表示されてるだけのスロットが鳴っており、
「4」が3つ並んで、「ん?」と思うと4つめも「4」になって、
「おめでとうございます。もう1本飲めます。30秒以内に選んで下さい」
とのアナウンスがある。
本当にこういうのは必要ない時に当たるんだなと思い、
しかし自販機で当てたのは人生初めてかもしれないと思い、
(でも前に当てたのを忘れるくらいどうでもいいことなんじゃないかと今は思う)
あまりの必要の無さに判断力が鈍り、30秒ぎりぎりで「桃の天然水」を押す。
すぐ近くに小さな公園(滑り台と鉄棒しかないような)くらいの広さの神社があり、
人気もなかったので縁台に座って2本目を飲み干しにかかる(荷物になるので)。
なんだかこの一時が「今年初めて夏を"風情として"感じた時」のようで、
「今日ここに来て良かったな」と初めて思った。
たぶんそういう風に頭が回ったのがその日は神社に来て初めてだったということで、
そこから山を登っていた時の頭の状態も「マル」だったのだと連想した。
つまり「空っぽだった」ということなのだけど。
そして桃天を飲み干し、道を少し戻って七沢方面へ向かう。
山を通る道だけどアスファルトがきちんと整備されていて面白くはない。
面白くはないが山道の上り下りに比べれば足は楽だったのでするする歩く。
するする歩き、温泉宿がぽつぽつ見えてきて、やがて温泉街にたどり着く。
その街並をさらに下り、「七沢荘」の看板が見えてやっと馴染みの道に出る。
(七沢荘は3回は温泉入りに行った。湯もシャワーもアルカリでヌルッとしてる)
ここで時計を見て、神社からちょうど50分経ったことを確認する。
なるほど、あの「50分」の看板は健脚者基準であったか。
久しぶりにオフェンシブな看板に出会えたことに少し充実感を覚える。
が、足は限界で、「七沢入口」のバス停で時刻表を見ているとちょうどバスが来て、
考える前に足が動いて(「もうやってられるかいな!」)、行程終了。
寮の近くに着いたのは18時過ぎ。
「七沢入口」から寮までは30分弱で歩けるので、今回の半行程と合わせれば、
たぶん全部徒歩だと5〜6時間で寮から大山の山頂まで行けることになる。
(たぶん、と書くのは山頂に着いた時間が定かでないから)
へー、というこれは純粋な驚き。
寮の部屋から見えるおっきい山のてっぺんに、そんだけ歩きゃ行けるとは。
うん、歩くってのは偉大であることよ。


メモというには長くなった。
次に行く時の参考にしよう。
しかしこんな強行軍だと人と一緒には行けんよなぁ…
昔は命知らずの友人がゴロゴロいたものだけど。
まぁ、歳ですね。
筋肉痛が3日も続いているようでは。
ゆめをみる。
ゆめのなか。
ゆめがいる。
ゆめでいる。

ねむるゆめ。
ゆめをみる。
ゆめのそば。
おきるゆめ。

ゆめにささぐ。
ゆめとともに。
ゆめのように。
ゆめをふさぐ。

あふれるゆめ。
ゆめにきく。
ゆめのき。
いくつ。
その。
な。
雑記 - 雑記等 - 雑記魔。

といった散漫。

+*+*+*

「細ネギ刻んでてゲーセンのコインゲームを思い出した」
「二カ国語」でお送りします。


帰阪中に元高の友人と飲んだ。
帰るたびに同じ人と飲んでいる気がする。
もちろん帰る回数が少ないのだけど(たぶん次は年末)。
楽しかった。

何を話したかを覚えていない。
酒はいつもより飲んだかもしれない。
(1軒目に生中1杯、日本酒1合、2軒目に焼酎ロック2杯。「山ねこ」が美味)
というかその「いつも」が存在しないような。
(前にいつ飲んだかが記憶にない)
とはいえ惚けるほど飲んだわけではない。

思い付くまま喋っていた。
それがお互い言いっ放しではなくて、キャッチボールはしている。
しているが、キャッチボール「だけ」をしていた感じ。
あれくらいがちょうど良い。

「カフェでの女性同士のお喋り」のイメージがある意味近い。
あれは個人の「喋りたい」が前面に出ていて、会話ではない(場合が多い)。
自分の内に溜まったものを発散できればストレス解消になるのだろう。
(きっと「相手に構わず喋り続けるストレス」なんてのは存在しないに違いない)
…。
「男性同士の飲み」と比較しようとしたのだが、イメージが湧かない。
(これを「男性同士のお喋り」と言わないところに違いがあるのだが)
忘れたのだろうか。
忘れたかもしれない。
付き合いの悪い人間だこと。

気持ちよく喋れれば、それで良いのだ。
多少の気遣いがあって、話に多少の一貫性があれば。
この「多少」の加減が難しいのだが、旧知の仲だとほとんどエネルギィを要しない。
これを単に「楽だ」と言っておしまいにもできるのだけど。

あれ、おしまいにしかならない。
二日酔いで頭が動かないせいかしら。
まあいいか。
なるようになります(何が?)

そういえば年末の楽しみが2つ増えました(どっちも元高関連)。
忘れた頃にやってくるのでしょう。
…。
「長期記憶」をぜんぜん使わなくてなまってきてる気がする。
ま、いいか(いいのか?)


+*+*+*(以下、関西弁バージョン)+*+*+*


地元おる間に元高の子と飲んだ。
あいつテンション高いから毎回ついつい誘てまう。
ゆうてそんな帰っとらんけど。
えかったー。

なん喋ったっけか、よう覚えとらん。
いつもよかぎょーさん飲んだせいやろか。
ま、いつもゆうほど飲んでへんけど。
ほんでじっさい飲んでる間は全然平気やったし。

おもたそばからどんどん喋っとった。
けどお互い言いっぱやなくて、キャッチボールはできてる。
けど、ほんまそんだけ。
それでええ。

「カフェで女同士がだべっとる」ゆーのにどっか似とる。
あれはたいがいみんな自分が喋りたいだけで会話になってへん。
溜まったもん吐き出してストレス解消ゆー寸法や思う。
…。
「男同士の飲み」のノリて、どんなやっけか。
忘れてもーたんやろか。
忘れてもーたんやろな。
ほんまノリ悪いやっちゃな。

要はオモロかったらそれでええ。
ちょいと相手のこと見とくんと、話がぶっ飛んどらんかったら。
この辺の加減は基本メンドくさいけど、よう知っとる人なら手間はかからへん。
ま、「楽やねん」ゆーたらしまいやけど。

あ、ホンマにしまいなってもた。
二日酔いで頭動けへん。
ま、それでええんちゃうかな。
ほんまに。


+*+*+*

「なぜ訳したし」(訳:どうして訳したのか?)
思い付いた理由を探せば、2つある。

1つは、今回は飲んでる間完全に関西弁で喋っていたから。
大阪に生まれ育ちながら標準語に親和性が高かった自分が、
関東で暮らしながらたまに帰ってきてのこの結果は「偉業」なのである。
関西にいる頃は大阪弁と標準語が混ざっていたが、こちらに来てから後者への純化が進行している。
(今年なんか会社内で「〜じゃん」を使って自分でびっくりしたくらい)
原因ははっきりしないが。

もう1つは、帰省の行き帰りの車中で読んでいた本に翻訳の話があったから。
その本は『現象学の視線』(鷲田清一)で、たしか「原文とは翻訳という行為が行われてはじめて存在する」といった決め言葉が書いてあった。それは翻訳という行為は他言語の文章(つまり異文化)を自国語で完全に再現するのではなく「完全に再現することはもともと不可能で、自国文化の下地では理解不能な部分と相対した時にそれを理解するためにいかにその下地を組み直すかに注目すること」にその要諦がある、というかすごく単純化すれば「翻訳に正解なんてない」ということ。
で、標準語を関西弁になおすのを「翻訳」とは言わないけれど、言い換えることでニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分があって、そうだ翻訳作業ってこのズレが楽しいんだよなとこの記事の訳部分を書いてる最初に思って、でもすぐ飽きた(笑)

関西弁ってほんとに文字にしにくくて、読書で標準語に完全に慣れているので関西弁を文章にするとものすごくわざとらしく見える。
もちろん喋る時はそんなことはないのだけど、関東にいて関西で友人と喋るように関西弁を喋るとやはり同じようなわざとらしさを感じてしまう。
それはおそらく「ニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分」が余計だと僕が思っているからだと思う。
だから関東で喋っていても、そのニュアンスのズレ部分を必要とする場合にはするりと関西弁が出てくるのではないかとも思うけど、そういう考え方ができるというだけで実際そうはならない。
「相手の喋りに合わせてしまう」というのが身体に染み付いているから。
ただそれを「面倒臭い」と思って解除できる術を身に付けつつもあるけれど。
便利だなー
しかしこれが怠慢に堕ちないようには注意せねば。

そう、「まっとうな面倒臭さ」というものがあるんです。
あとは「まっとうなどっちでもよさ」とか。
ほんとに。
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