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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
現在メインで使用しているブログからこのブログの記事に飛んでくる時に、
広告だけのよくわからないページが最初に表示されて、
(表示を更新すれば元の記事にいけると後でわかりましたが)
どうやら1年以上更新がないとそうなるらしく、
それはいろいろ不便だと思ったので久しぶりにこちらに書いています。

過去に自分が書いたものでよく参照するのはこの記事で、
イェーツの詩をふと思い出した時に「原文どうだっけな」と見に行く。
最初に読んだ時(に恐らくこの記事を書いた)は「いい言葉だ」と思って、
感動して何か書きたくなってあのような文章を書いて、
今はこの言葉が僕の中に根を下ろし、生きる方針、思想の核となっている。

さっきその記事を探そうとして「カフカ少年」でブログ内検索をしたら、
もう一つ面白い記事を見つけました。
『海辺のカフカ』を当時読んでいた時の自分の頭の中はもはや想像できませんが、
(とはいえというか、偶然なのか、今はこの本を再読している最中ですが)
どうしてこんなことを思いついたのだろう、と今の自分が思うことが書いてあって、
いろんな意味で非常に興味深い。
なにかものすごく本質的なことを書いている気もするし、
微妙な事象を明確に言葉にし過ぎているような気もする。
過去の自分が書いた文章を今でも面白いと読めるのは、
当時の関心を今も持ち続けているということですが、
その文章の内容とは違うところに興味というか違和感を今持つのは、
今の自分が書く文章の、何かしら抽象的な性質が変わったことを意味する、
のではないかと思います。

ことをどれだけ、明確に、あるいは鋭く、あるいは意外な着想で表現するか。
「書きながら考える」という内田樹氏のスタイルを(勝手に)受け継ぎながら、
ということは「わかっていることを書いてもしょうがない」ということで、
それは当時も今も変わりませんが、
そのような、書く方針、動機といったものが…


書いてしまったものには意味はないのです

という、甲村図書館の館長室でナカタさんと会話する佐伯女史の言葉が、
今突然浮かんできました。
そう、当時と今とで違う点は、ひとつはここにある気がします。
自分が書いたものをあとで読む時の面白さや姿勢といったものは、
あまり変わらないかもしれない。
でも、自分が書いているその時に「あとで読む自分」が頭の中にどれだけいるか
今は、その「あとで読む自分」が、小さくなったような気がします。

その理由は、今は分析しないでおきましょう。


ボルダリングを4ヶ月ほど前に始めて、
以前よりも身体が賦活され、
「今を生きる」感覚が活性化されてきたように思います。
それは身体を動かしている(つまり「登っている」)間だけではなく、
部屋で読書している時も含まれます。

いま、外の天気は大荒れで、台風が来ているようです。
天気がどうあれ、明日も登りに行きます。
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