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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「どっちでもいい」の、なげやりでない、肯定的な表現を考えたい。
達観したい、諦観を得たいわけではない。
分かれ道のどちらを進んでも、それぞれの過程がある。

後ろ向きに進むよりは、前向きに進みたい…
とも思うが、それは瞬間的な感覚でしかない。

蓄積を考えるのだけど、単純に加算するものでもない。
もちろん後ろ向きに進み続けて突然前向きになれるわけでもない。

 「否定」に敏感になっていると思う、現代は。
 何かを評価することが、別の何かを貶めることにつながる。
 人にそう思われてしまう、と思う暗黙の機制がある。
 他者と簡単に繫がれることに原因がありそうだが、
 実際に繋がれることよりはそれを可能にするツールの充実が大きい。
 展開の先読み傾向も同じことに起因する。

 検索可能性と想像力とを混同しやすい。
  想像力がありすぎるのかなさすぎるのか。
  意図的に減殺している人は機敏に動ける。
 特定の他者と匿名の他者の区別も曖昧になっている
 私的な人間関係が希薄だとその傾向に拍車がかかる。
 想像力を現実的な範疇に収めるのは具体的な他者との関係だろうか
 
 笑い続けてひきつる笑いがあれば、
 泣き続けて涙が枯れることもある。
 笑いも泣きもせず表情を失うこともある。

「必然に従う」のがひとつの答えになるが、
この必然は能動的に見出していくものだ

あらかじめ決まっていることなど何もないのに、
なぜ必然などという言葉が存在するのか?

つまりそれは願望で、遂行的で、事後的だからだ。
そして遂行的である限り、必然は活性化する

不活性な必然が諦観なのだろう。


同じ状態を維持したい欲望は脳のもの。
(寝て起きた今日の自分は昨日の自分と同じ)
そう思い続けること自体が、その欲望を肯定する。
これも言葉の機能で、この逆を考えるならば、

身体へ向かう言葉は不安定にならざるを得ない。
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やりたいことがある。


やりたくないことをやらない。

自分がやることの中に「やりたくないこと」が含まれないようにする。

「やりたくないことをやった」とやってから思わないようにことをやりたい。


やりたくないことが、ないはずはない。

けれど、「やりたくないこと」をやって、
「だからやりたくなかったのだ」と思いたくはない。

それは簡単で、簡単に自分を肯定できて、
そして否定的な自分を否定できない方向にどんどん追いやってしまうから。


やりたいか、やりたくないか、に関係なく「やらねばならないこと」がある。

やりたいか、やりたくないか、を問うのはそれが問えるから、選択肢があるから、
あるいは少なくとも選択肢があると思い込んでいるから。

でも実は、選択肢があるかないか「も」、自分で決めることができる。

それを「選択肢がある」と言うのだ、と、思うだろうか?


選択肢は、無数にあり、一つもない。

それは言葉だから。
年の終わりに一年を振り返り、年始めに一年の抱負を書く。
ブログ上でそれを建前にしかし実際は思い付いた所から書き散らすという日課ならぬ年課を、今年も支障なくできている。
「毎年同じことをやる」ことの効果はいろいろあるだろうけれど、今思ったのは日課と年課とはやはり違って、体内の細胞サイクルなんてのは日課であって、何が言いたいかというと「一定の時間間隔で同じことをする」点では同じでも日課はどちらかといえば身体が慣れれば続くものだけど、年課は身体が慣れるほど頻繁にやるものでもないのでやろうと思う意識がないと続かない(外的要因(他人と一緒にやる、とか)を設定する手もあるけれど)ということで、しかしそのような年課が日課のように思えてくるというのはどこかしら意識と身体の距離が縮まったような感じがしないだろうか、とか。

それはさておき、「往く年来る年」というタイトルで書いている毎年恒例のこの記事は本ブログができる前からやっていて、その習慣で(内容的にはこちらに書いてもよいのだけど)古い方のブログに書いてます。
論旨もなければ結論もない(「出れば出る」けどね)、人に読んでもらう文章かといえば首を振らざるを得ない文章ですが、お暇な方はどうぞ。
日に何度か更新されながら気が済むまで(というか帰省から戻るまで)だらだらと続きます。

深爪エリマキトカゲ(今のところ2の途中まで書いてます)

そういえば昨日だったか、朝日朝刊の「ののちゃん」の一こま目でテレビ画面に
 「逝く年狂う年
とあって笑った。
こういう自覚は持っておきたいですね。
と、毎日売店で1つ買って食べるようになって思う。

最近また文章を書く気が起きなくて、
でもその理由はこれまでとは違う。
文章を書くことが会社での仕事になったからで、
それにけっこう満足しているようだ。

「考えたいことを考える」もウソではないけれど、
「考えたいこと」は、まずは外から与えられる。
「書きたいことを書く」もこれと同じ話で、
「書きたいこと」の書きたさは内容で決まるのではない。

テーマが外から与えられて、
そのテーマに対する考察やその結果の出力は、
それが自分本位にできるからこそ楽しい。
形式に縛られずという意味でなく、形式にはまり込む自由もある。

「ものを考えられる状態にしておく」ことを維持したいと思っていた。
だから仕事が思考停止を伴うものであった間は、家でことさら考えていた。
今は会社でも余裕があり、わりと正常に頭が回った状態を保てている。
この生活に慣れてくれば今みたいに書くことがなくなるかもしれない。

それはそれでいいことかもしれない。
家で本を読むスタイルは変わっていない。
会社で書いているから入力過多になることもない。
「入ったものは出す」ではなく「入った分だけ出す」という感じ。


人との接し方が気がつけば変わっていたようで、
それは前とどう変わったかも分からないような変化で、
もしかして今まで意識していなかっただけかもしれないし、
つまり自分の同じ振る舞いに対する意識の度合いが変わっただけか。

その詳細は書かないけれど、そしてこの現状がよくないとも思ってないけれど、
時々は今の「自然」に逆らって無理をした方がいい時もあると思っておきたい。
ようやく落ち着きつつある今に至るまでに4ヶ月ほどかかったけれど、
そのきっかけは2人の同期が与えてくれた。

社内ではとてもそんな雰囲気にはならないけど、どこかで礼を言わねばと思う。
与えられた状況にどう適応するかだけを考えたいた当時の自分には、
適応し切れなければ辞める選択肢はあっても部署異動という発想がなかった。
矛盾めいた言い方をすれば今回僕は「主体的に行動させてもらった」。

結局はそういうことなのだろうと思う。
「流れに乗ると思えば自分から動ける」と前に書いた。
受け身によって主体性を発揮するのだが、その発想は主体的なものだ。
どのような行動や思想も、解釈する次元によって主体的にも受け身にもなる。

そして、このようなすっきりした言い方で区切ることに躊躇いを感じる。
いや、内容はすっきりしていないが、言い切ること自体がすっきりになる。
修行の要はその日の稽古の終わらせ方にあると甲野善紀氏も言っている。
調子がピークになる手前で終われば、寝ている間も頭の中で稽古が進むそうだ。

文章を書くことに当てはめれば、「まだ言い残しがある」地点で止めることだ。
書き始めは滞っていた思考が滑らかになり、結論がうまくまとまる予感がする。
そんな時に、ちょっと話題を逸らせたり、枝葉を掘り下げたりしてみる。
「喉まで出かかった言い残し」が消えないようにそれをするのが難しい。

+*+*+*

年の瀬ですね。
気がつけば来週で仕事納め。
今年はどのような年末になるだろうか。
今年はいつもと少し違う年末になる気がする。

その予感を楽しむ。
昨日「空っぽな自分」と書いたけれど、
少し後になって田中小実昌を連想した。

『ポロポロ』の主人公は、空っぽだった。
自分に何か役割が与えられると、演劇が始まる。
比喩でなく、現実が全て演劇になる。
役割が何もない時にどういう状態にあるかというと、
空っぽという以外は何もない。
主体性がない、というのとは違う。
そんなものはなからないのかもしれないが、それは些細なことだ。
ものすごく客観的といえばそうで、しかし冷酷にはならない。
冷静ではあるかもしれないが、何より滑稽なのだ。
この、滑稽であるという認識において初めて、笑いが起こる。

これは「空っぽ名人」というか、まあ小説の中の人ではあるけど、
実際いるわけがないと言う気はない。
たぶんそういう性質の人はいて、しかし彼は自覚していない。
この性質の備わることが一つの超越で、
そしてそれを自覚できていることがさらにもう一つの超越なのだ。
正直に言えば、憧れる。
この自覚はなんと自意識ではないのだ。
矛盾めいたことを言っているけれど。
そうか、自意識過剰がメータを振り切って機能していないのだ。
自意識として。


この「空っぽ」という性質に自分はどこかしら親和性があるように思う。
コミさんの小説をもっと読みたいと思った。

そしてその前にたぶん、仕事を頑張ればいいのだと思う。
急に現実的な話になるけど、今しっかと認めるけど、自分はやる気がなかった。
昼食を抜いて、夕方腹が減ったといって残業せずに帰る。
これをやる気がないという以外にどう表現すればよいのか。

というわけで明日からは昼食ふつうに食べます。
そのかわり朝と夜は小食。
さあて体重が年末までにどこまで減るかしら。
(実家に体重計があるのでその時に結果がわかる)
この前の健康診断でたしか63kgだったかと思う。
別に数値にこだわらないけど。
実験です。
このとき、なにがあったのだろう?

+*+*+*

祝いと呪いと予感

2013/04/05 22:52
「祝い」と「呪い」は同じものだ。
対象を縛る効果として。
その効果の呼び名を対象自らが選びとるのは難しいが、
結果としてそれを決めるのは受け手である。
「祝い」を束縛と呼ぶことに違和感があるかもしれない。
では、「祝い」は対象を生と祝福の(あるいは命の)赤い糸で結わえるものとしてみよう。
するともう一方は、対象に死を負わせる「呪い」となる。
ここでいう死は「不変」に近い。

ある効果の呼び名を決める因は「予感」にあるのではないかと思う。
時の止まった祝福は「呪い」であり、
苦境を乗り越えんとする呪詛は「祝い」となる。


当人がそれと知らずにかける「呪い」を、受け手が「祝い」に変える、
「祝い」として受け取るためにはどうすればよいか。
それは「呪い」を隠蔽したり抑圧したりすることではない。
「呪い」から逃れる意思も大事かもしれないが、
それは受け手の余力が少ない時の非常手段で、
さらなる「呪い」の増大のリスクを伴う。
「呪い」をそれと分かって耐える、という表現もあまりよく響かない。
「予感」の力を失わないために、常に変化を厭わない境地でいるために、
流れを淀ませてはいけない。
実際的な表現を使うと身も蓋もないが、
”「呪い」の変化にその都度対応する”しかない。
「予感」が完全に失われ、その足を鎖で繋がれ、その固着の状態を良しとし、周囲を飲み込まんとするものの発する「呪い」は、その対象と己との一体化が果たされないと分かれば変化せざるを得ない。
その変化が表層であれ、稀なる根本であれ、
受け手はその変化に応じて変化するべきである。
その変化と変化の応酬がどのような結果をもたらすにせよ、
両者にとって良いに違いない。
両者が己の生を信じる限りにおいて。

人は、自分が何を望んでいるかすら、完全には把握できていない。
この信念は譲るわけにはいかない。

いまのところ。

2013/04/05 23:15

+*+*+*

読み返してみてもよく思い出せないけれど、
どうもこの話と繋がっているみたいだ。
うーん。
最初の…

伝えたいもの。
言葉になる前のもの。
それをあの人に伝えたい。
他でもない、言葉で。

最初に「あの人」がいる?
言葉が「あの人」を導く?
そのどちらでもあり、
そのどちらでもない。

「あの人」はどこにいるのだろうか?
それは共時的な。
「あの人」は"いつ"いるのだろうか?
それは通時的な。


時を超える言葉に触れたい。
本を読めば過去から現在へ言葉が伝わる。
本を書けば現在から未来へ言葉が伝わる。
文字は物質に転写できるから簡単に時を超える。

声は時を超えるだろうか?
録音すれば可能だろう。
それ以外には?
なにか別の形はないだろうか。

つまり、記号化を介さない声の可能性。
情報化される前の、声の全体は時を超えるだろうか?
記憶?
それも変換されたものだろう、ごく恣意的に。


ところで、文字という形態の言葉に全体性はあるだろうか?
文字は声の記号化の一形態ではないのか?
すると、言葉が時を超えるには記号化は避けられないのだろうか?
そもそも「言葉の全体性」が空想の産物なのだろうか?

「もともとあったものが形を変えずに残る」
もともとあったもの、とは何か?
それと確かめることができないものを、あると言ってよいのか?
「言ってよい」としたことで、言葉が生まれた。

しかし「そのこと」を忘れてはならない。
「もともとあったもの」なんて、なかったことを。
ないものをあると信じ込み、そして忘れてしまうこと。
それは意識が、「自分が意識であること」を忘れてしまうこと。
(学生時代のブログを読み返してテンションが少し変わった…?)

身体と精神と、各自の健康について。
身体が不健康でない時、その理由が精神の不健康である場合を考える。
一つは、実は身体は不健康なのだが精神が(それに増して)不健康であるために身体の不健康を認識できない状態であるという可能性。
この場合、精神の不健康は身体維持のために敢えて不調を来しているのであって、精神の不健康が進行すると「ともだおれ」になる。
(「トモダチ作戦」とは実は「トモダオレ作戦」のことではないかとふと思ったがこれは全く関係ない。そしてトモダチ作戦が米主体であるならば米国は「三方一両損」のジャパネスク・シンドローム疾患中であり病状が深刻に至った暁には治療を必要とする主体が存在しなくなるという時点で作戦成就となる。なんだこれ)
「ともだおれ」を防ぐための方向性は二つある。
一つは身体の健康を取り戻すこと…ではない、というのは、「部分の苦痛の効果は全体からの逸脱度と相関が高い」ことから容易に類推できるように、精神の不健康が喫水線を超えて「みてみぬふり」ができなくなり発狂に至るからである。
この場合の発狂は塑性変化であることが多く、推奨されない。
そうではなく、一つは、精神の健康を取り戻すことである。
身体の不健康というのは、精神の健康とセットになっていれば「谷のあとには山がくる」という自然の摂理に従い、風邪や発熱といった生理的な症状として一定期間表れ、症状の回復がそのまま身体的健康の獲得過程となる。
体力がないから病むこともあれど、病む体力も(恐らく)別枠で必要で、後者の体力は「火事場の馬鹿力」のようなもので、生命力があれば尻に火が付いて狂っている場合ではない。
しかし、その生命力に自信がない時に精神の健康を取り戻そうとすればどうなるかといえば、尻の火が全身にまわって焼け死ぬというだけのことである。
想像するだに恐ろしいはずだが、この恐ろしさを想像できる間はまだ大丈夫である(しかしここで「はず」を付けてしまう所が少し心配である)。
そのような時にとるべき二つ目の針路は、身体の健康と精神の健康を同時進行で取り戻すことである。
言うは易しの案ずるは易しで確かにあんず酒は安いのだが、その「同時進行」とは実際どうすればよいのか。

ま、感覚に従い、思うところに従いながら生活を維持しつつ変えるということですね。
劇的な変化は望まない。
劇的というのは劇の中でこそ劇的なのであって、劇の外での劇的は「リアルフィクション」になってしまう(?)
心と体のバランスを崩さないよう心掛ける。
きっとそれは衰弱死という「善き最期」を迎えるコツでもあるのだろう。
オチがこれでいいのだろうか…
まあ良く(欲)はないわな。
よし、オチた(笑)
二つ前の記事の本題を、時間がないのでさわりだけ。

「これは誰に向けられた言葉か?」を考える。
自分が心地よく読めるとすれば、その言葉の宛て先に自分が含まれている。
「ヤなこと言ってるな」と思えば、その言葉の宛て先に自分は含まれていない。
これが基本的な考え方。

宛て先に自分が含まれていない時に、ではどんな人が想定されているかを考える。
その想定される他者を具体的に想像したときに、状況が変わる場合がある。
その人が意外にも自分と共感できる部分を持っていた時、宛て先に自分が加わる。
つまり「ヤなこと」が他者を媒介して僕自身と繋がりを持ったことになる。

その一方で、想定される他者が自分と感覚的に遠い人だったとすればどうなるか。
それは「なんかヤだ」という感覚に、具体的な根拠が追加されることになる。
「なんとなく」を細かく割ることができる。
もちろん論理的にではなく、具体的な、とい表現もちと怪しい。

おそらく、その感覚を具体的にするには、照合する作業が必要なのだと思う。
自分の想定した他者が、実際にいるのかどうか。
「たぶんあの人みたいな人だ」と思った人と話してみて、想像とのズレを確認する。
そしてこれは手順であり、手順でしかない。


矛盾を「誇ったって!」

人はそう変わらないものだと思う。
言葉を手に入れて、凄いと思って読んだ言葉を自分が書くようになって、
それが受け売りではなく自分を一度通して出た言葉だと思って、
そしてその言葉は「昔の自分」を言い表したもののようである。

実際は、フィルターを通して集まったものに意味付けをしているだけで、
色々考えている中の一部分であるだけなのかもしれない。
しかし、例えばその逆のことも考えていたとして、それは印象には残らない。
すると、変わっていないだけでなく、「変わることを望んでいない」とも言える。

それはきっと当たっている。
「子供心を失いたくない」と、そもそもまともな大人かどうか心許ない僕は思う。
これは公的な場面では内々に、駄々をこねる言い訳としてよく使われる。
しかし駄々をこねることになるのは、それが責任を負わない言い訳だからだ。

僕は自分によく言い訳をするが、そこに自分のとるべき責任を含めているつもりだ。
つまりそこに「それでいいわけ?」はなく「それでいいわけ。」しかない。
僕は「何を実際とするかは人それぞれ」という留保付きのプラグマティストである。
言い方を変えると「"理"が不可解に膨張している合理主義者」になるかもしれない。

いちおう話はぜんぶ繋がっていて、小さい頃僕はろくに論理的思考をしなかった。
だから自分の行動を筋道立てて説明するような経験がなく、
今の自分の想像の範疇を超えた自由奔放さを(主に頭の中で)発揮していたようだ。
そして言葉を知る過程で「自由奔放さ」に論理を発見していくことになるという話。

論理を屁理屈と決めつけるのは論理に勝てない側の人間で、「屁」は単に装飾語だ。
しかし理屈に情緒がくっつくのは本当で、それは「ものは言い様」ということ。
主張したいことが何であれ、それに説得力を持たせる論理を構築することができる。
だからといって「論理なんて机上のレトリックでしかない」ことにはならない。

なぜかというと、言葉はそれ単独で存在しないからだ。
言葉はそれだけでポッと生まれでてくるものではない(文字の方が分かりやすい)。
言葉(文字)に最初に意味を込める時、その"人"はどんな気持ちであったか。
言葉の力の原型は、きっとそこにある。

言いたかったのは、言葉の強度は内容によって決まるものとは限らないということ。
(「とは限らない」を「ではない」と言いたいところではある)
同じ内容の言葉が、語る人によって訴求力が変わるのはなぜか。
言葉に想いを込めることは可能だが、本と、会話とに込められる量も、質も異なる。

それを「形式が違う」とすっきり言ってしまうのには抵抗がある。
言葉の力がはたらくのは個人の内ではなく「場」なのだ。
何かを伝えたい自分と、それを伝えたい相手と、僕らを囲む「場」がある。
思えばその「場」は、今の今だけでなく、とても長い過去(歴史)を含んでいる。

お互いがそれを意識しながら交わされる会話とは、どんなものだろうか。
お互いがしっかり相手の目を見ながら、しかし遠くを見つめているようでもある。
近所に住む(ある時を一緒に過ごした)仲でありながら、
初めて会うわけではないものの、お互い遠くからやってきたような。

それも「村上春樹の小説に出てくる女性」のようなものだろうか。
つまり…
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