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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
昨日の続きかもしれない。

変化に対応すると言った。
油断すると不変に固着するから意識して変化に気を配る。
(気を配る、というほど丁寧にやるイメージは僕に今のところない)
これはぜんぶ頭の方の話。

対して身体はというと、常なる変化が標準である。
きっと全身の細胞の変化は目まぐるしく、全的掌握を目指せば脳は狂う。
それは「バランスのとれた狂い方」(あるんです)ではなく「ぷっつん」の方。
何事も経験なので一度試してみてもよいかもしれない。

さておき、不変にこだわる脳は、ある程度以上の変化に見舞われると不安になる。
脳が「掌握(制御)しておきたい」部分がいうことを聞かなければ、不安になる。
それは逆に言えば、脳の可視範囲だけ整えておけば自己満足により不安は消える。
低能な王に無難な範囲で好き勝手をやらせる執事になったと思えばいい。

で、この喩えを使うと「王」は脳でよいのだけど一方の「執事」も実は脳である。
身体はどこかといえば、この一文には出ていない、言わば「治世」である。
農民とか領主とか奴隷とか、具体的にし過ぎるとアレなので「治世」である。
一国の成り立ちは(専ら脳で制御しようとするものだけど)身体なのである。

つまり、脳にほどよく運動させて満足してもらう場を整えるのは脳の仕事なのだ。
だからこそ自己満足と呼ぶのだが、これをそのまま意識することを脳は好まない。
その理由は外を見れば「社会」なのだろうけど、それに対応する内の理由は何か?
あんまり二分法にこだわるのも単純だけど、脳か身体かでいえば…どっちだろう。

別の個体との共振を身体が求める、と言えば説得力を感じないこともない。
しかし、その「別の個体」が人間である必要はない。
まず「社会」を理由に挙げたのはこれがあるからか。
一方で脳に原因を求めれば、「不徹底」の一言で済むのではないか。

世界は素直に生きるには単純で、頭で理解しようとするには複雑に過ぎる。
複雑なことを単純に理解したがるのは脳の怠慢かといえば、そうでもない。
もし脳に身体性が無ければ考えたいことを無限に考え続けるのではないか。
つまり脳が疲れを知らなければ、オーバヒートしない計算機であったらば。

さて、脳は脳でありながら身体でもある。
では逆に、身体に脳的な性質はあるのか?
論理的な思考を得意とする身体、とか。
…ないか。

「脳と身体の対比」の対比の仕方は色々考えられる。
上の例がまず一つ(不発だけど)で、あとは「把握の相互性」とか。
「身体の脳的な把握」というのは上で何度かやった(たぶん)。
では「脳の身体的な把握」とは何か?

…書いたそばから気付くほど言葉の使い方が怪しい。
前者の「脳的」は「論理的」と言い直せる。
後者の「身体的」は「身体として(の)」と言い直せるはずだ。
これのどこが対比なのか。

というか、対比とは何か?
…きっと、あやふやに使っても論理的思考の深化の糧になる論理装置だ。
あと、ちょっと臭ったりするんだよ。
うん、「堆肥」だけにね。

よし、オチた。
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