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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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3つ前の記事(「先んじて狂う」)を読むと何か現状に対するネガティブな印象を僕が抱いているように受け取れるかもしれないが、それは今あるこの一つの状況に対してだけではなくどのような状況に対しても(基本的には)同様のスタンスでいたいことが含意されているので別にネガティブではない。

集団を避ける人間は集団を否定的に思っていると思うのは集団の視点であって(そういえば一年ちょっと前に「集団が嫌い」というテーマでシリーズ化したが続かなかった。内容として間違ってないのだが「嫌い」というニュアンスで書こうとして筆が乗らなかったのだろう)、集団と距離をおく人間にもその集団における役割がある(ある意味でその集団に貢献できる)という感覚を持っていれば、「集団の境界の曖昧さ」がいい風にはたらいて安定してくるものである。
その規模や精神を問わず集団と距離を置かずにはいられない人間は社会に一定数いるはずで、ある見方では彼らは「社会不適合者」になってしまうのだけどもちろんそれでは浮かばれなくて、もっとポジティブに考えましょうよというか実際にそういう性質を持っていても世渡りできている人がいて、そういう人が理論立ててくれたりすると喜ぶ人は意外に多い。

ある集団に属しながらもそのメインの価値観から距離をおく人間は要するに集団の端っこにいるわけで、僕は「境界人」と呼んでいる(もちろんレヴィンのマージナルマンとは別物)。
高村薫氏の書く小説の主人公はみな境界人で、氏自身もそうであるところの性質が主人公たちに投影されているといったことを昔ちょろりと書いたけど(あった、これです)、合田雄一郎に特別な魅力を感じている僕自身も紛れなく境界人だと思っている(そういえば最近朝日新聞に氏は雄一郎のことを「疲れた中年」と書いていた)。
境界人は無駄に悩んだり逡巡して行動が鈍ったりして要するに「無駄に疲れている」のだけど、きっと自分は本音でそれを無駄とは呼んでいなくて(何せ「生きる=疲れる」という等式にさほど違和感を持たない人種なのだ)、しかしその本音が滅多に出てこないのが日頃ウジウジしている原因でもあって、何が言いたいかって「疲れる境界人」が(疲れないために、ではなく)疲れる日常をなんとかこなしていく(そして上手くやれば充実が得られる)ためには「境界人の作法」を会得することがカギで、そのために学ぶべき先人は実はたくさんいるのである。

で、下の抜粋はその先人の話ではなく「境界人の立ち位置や役割」の話で、まあなんと飽きないことにこれも「前提」の話です。
この「まあなんと飽きないことに」という表現は、「ま、ふつうの人は同じ話ばっかしてたら飽きますよね」ってなことを意味していて、もっと言えば「飽きても読み手のあなたは悪くない」と暗に言っていて、「要するに”読んでくれたら嬉しいな”ってことだろ」って所まで読み取れたあなたを「メタメッセージのシャンポリオン」と呼ばせて頂きます!(テンションおかしい)
 マジョリティに対する自分の立ち位置がどこか、という問題ですよね、それは。ほとんど人は生存戦略上「マジョリティと行動をともにする」という選択をするわけですね。その方が生き延びる確率が高いから。(…)ただね、[トムソンガゼルの]群れが遭遇するリスクは「一頭のライオンに襲われる」という場合だけじゃないでしょ。群れ全体が、ライオンに追われながら崖っぷちに向かって走っているとか、ハイエナの大群めざしているということもあるわけで。そういうときは群れから外れて逃げる方がむしろ生き延びる可能性が高いということだってある。この見きわめが難しい。(…)マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。(…) 
 母親の「ふつう化」戦略は社会が安定しているときはたしかに正解なんですよ。(…)でも、時代のパラダイムが変わるときとか地殻変動するときには、この「ふつう化」戦略はそれほど安全を約束してはくれない。 
 そこで「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安全だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.97-99
「逃げる」のは面倒臭いからでも楽をしたいからでもなく、「生き延びるため」であって、「逃げないと命に関わる」という判断がそこにはある。
群れから離れる以上、群れから離れるという判断の根拠を「群れの価値観」に求めることはできない。
ちょっと考えれば分かるのだけど、「逃げられる体勢でいる」のは「群れの中で悠々と暮らす」よりはるかに面倒臭い。
面倒臭いがそうせざるを得ないのであれば(その理由は「簡単には書けない」)、せめて充実してそうありたいという先人の努力をまず学ぼうという意志を賦活してくれるのがこのウチダ氏の文章(メッセージ)なのである。
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僕が「不健康な方が仕事が捗る」と前に書いた時は、健康だと他のことを色々考えて仕事に集中できなくなるからといった濁し方をしていたが、正直な表現をすると「健康だと精神が病む余裕ができてしまう」ということなのだった。
[内田]そういえば、戦争中は、精神科医のところに来る患者はあまりいなかったそうですね。
[春日]そうですね。戦争中もそうだし、それから精神病院で長いこと入院している様な患者さんでも、死にかけるとよくなったりしますからね。あれを見てると、そうか、身体の方にゆとりがあるから狂ってるだけなんだなって。(…)つくづく「健全な肉体に狂気は宿る」なんだなあと思いますね(笑)。
[内田]それだけ日本が豊かで平和だということなんでしょうね。豊かで安全だから、いくら身体感覚が鈍感でも、コミュニケーション能力が低くても、とりあえずは生きていける、と。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.163-164
自分の生活(人生)において何を優先させるのか。
何を優先させると何が犠牲になるのか。
「身体の健康が第一」という分かりやすい前提が前提でなくなったのはそれだけ社会が複雑になった(豊かになった)からで、「健全な魂は健全な肉体に宿る」という諺があるじゃないか、身体が健康で精神が狂うなんておかしいと言えば、それはその通り社会がおかしいと思ってよいのである(そして同時にその「おかしい社会」に自分は適合したくない(できない)ということにもなる)。

集団に合わせるということはその内実を問わないということで、油断すれば「円滑なコミュニケーション」や「物語の共有」の裏にその集団の内実(仕組み)は全て隠れてしまう。
その内実を意識し続けるのは負担になるのだが、それは集団の仕組みの把握が集団内で上手く立ち回ることにいつも資するとは限らないからだ。
とはいえ誰しも自分が属する集団を意識するものだし、上の油断は深刻な状況に至るほど放置されるものではない。
しかしそこに別の油断が生じるというのは、仕組みを見ていたはずの「集団への意識」が慣習化すると専ら実際的な効果を求めることになって集団内に取り込まれてしまうことがある。
それはつまり「郷に入っては郷に従え」で当たり前のことなのだが、「郷の文化」に自分が丸ごと染まってよいのかどうかについては一度考えておいてよいと思う。
そして「"丸ごと"はイヤだ」と思った時には、「染まり切らずに残したい自分の一部」を守るための手段が必要になるが、その手段の前提には「("実際"には役に立たない領域の)集団の仕組みの(継続的な)把握」がある。
手段の具体的な内容は色々あるだろうけれど、このような状況の成り立ちが分かっていれば、自分のやり方や立ち位置に対して「腰を据えた自信」を持つことができる。
[内田]春日先生のように「自分はこういう人間なんだ」というシールドを張って、まず遮断しておくということは、コミュニケーションにとってはすごく有効なことですよね。コミュニケーションというとみんな発信することばかり考えてますけど、人間て外からくることばに想像以上に影響を受けやすいものなんです。ですから、まずはディフェンスを固めておかないと。 
 人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。(…)春日先生は、患者さんと関わること自体が仕事なんだから、まずはシールドを張るというところから入らざるを得ないでしょう。一般の人でも、このシールドを張るということは必要です。

同上 p.94-95
自分が所属する集団には選べるものと選べないものがあり、選べないものを嘆いてもしょうがないし、選べるものは選べばいいということである。

そして死ぬからこそ言葉も生きている。

「(…)さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」
(…)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。

「死ぬ言葉」(内田樹の研究室 2010年04月06日)

言葉が「生きた言葉」として自分に届くということ。

聴くと、自分の身体に響き、自分を動かし、自分を変えずにはいられなくなる言葉。
聴くと、自分も発したい、相手に届けたいと思うような言葉。
そのような言葉を発したいという思いはきっと、自分に笑いかけてくれる人に笑顔で応えたい、という思いと一緒。

そして言葉はその単線的な並び(表現)からは思いもよらぬ複雑な次元を展開し、方向と目盛りが定まっているはずの時間を軽々と飛び越える。
左から右に、あるいは上から下に流れる言葉は、過去と未来を今につなげる「特別な時空」を構成する。
その時空では過去が形を変えて生き返り、未来が先取りされた命をもとに生まれるが、それらは「歴史的事実」でも「未来予知」でもない。(なぜならそれらは変わることに意味があり、そして確実という表現から最も遠いものであるから)

変化すること、流れることの究極は死であり、死に生かされている人間を動かす言葉もまた、死と隣り合わせにある。
けれど、死をまっすぐ見つめて生活することはできない一方で、死の意識が全く抜け落ちた生活もまた「死んでいる」。
死ぬ言葉」とは実際的な死の抽象であり、その抽象的な死が身近にあること(つまり「生きた言葉」と触れ合っていること)が「生活としての生」を支えているのではないか、と思った。

ま、まとまらない…
あるく

木・金と二日連続で三重に日帰り出張のうえに土も出勤したおかげで日曜日の昨日はぐったり。
寝続けるのも辛くて(寝るのにも体力要るんです)朝起きて、ふらふらの頭にコーヒーで喝を入れて『認識と関心』の続きを読もうとして何度か昼寝をはさんで1時間で4ページ読んだところで放り出し(やっと本チャンのフロイトに入って面白くなってきたので元気な時のお楽しみ)、軽い本をうつらうつらしながら読んで(『子供の科学』を去年の2月分から毎月とっていて、いつも寝る前にしか読まないので最近5ヶ月分くらい溜まっている)、散歩に行く気力はないが食欲だけはあって部屋から一歩も出てないが三食ともしっかり食べた。

今日は少し回復したのか9時間寝て、朝食を昼前に食べて、体が若干重いが動けないことはないと思って駅前まで歩いて、いつものようにBookOff→Veloce→KYD2 (ケーヨーD2は花粉症が始まる時期から巡回コースに加わった)と歩く。頭の中を流れるのは行きはトトロの「風のとおり道」のアコースティックアレンジだったが、帰りはプレーヤーでボカロを聴く。デジタルブルーハーテッドジェラシーが平地を歩く時の歩調にピッタリで、16分で身体にノって歩くうちにみるみる元気になってゆく。その後の曲はどれも耳に心地よく聴こえて、笑いが顔に出そうになる(そういえばこの癖は高校で誰かに指摘されて卒業までに直したのだったが、あれでほんとうに良かったのかどうか)。

歩くと元気になる。

それはそうなるように自分で生活をこしらえたからで(意識してそうしたかったか、と言われると判然としないのだが)、そして今あらためて、そのような自分を好ましいと思う。
この状態はベースで、何を始めるにも、この状態を維持していたい。
自分が望んだ生活の変化がこの状態をも変化させてしまった時(歩くのが面倒臭くなる、というような)、その「自分の望み」(恐らく脳先行の願望なのだろう)を疑えるようになっておきたい。
変化のうちには、望ましい変化と望ましくない変化がある。
その判断を身体に託せるように、身体には悠々として頂きたいと思う。
そして脳の仕事は、身体が悠々とできるように生活を整えること。
センサーの感度を鋭敏に保つ方法は経験的には一つしかない。
それは「不快な情報にはできるだけ触れない」ことである。
不快な情報は不快であるから、私たちはその入力を遮断するか、(うるさい音楽に対してするように)「ヴォリュームを絞る」ようにする。
つまりセンサーの感度を意図的に下げるのである。
それによって、外界からの不快な入力は「カット」される。
けれども、それは同時に危機シグナルに対するセンサーも「オフ」になるということである。
「不快な」シグナルといっしょに「危険な」シグナルもカットされてしまう。

越くんとリーダーシップについて話す(内田樹の研究室 2010年05月09日)

「外れた部分」を持つこと。

個性とは、原理的には一人ひとりに備わっている。
それを殊更「個性を伸ばす」などと強調するのはなぜか。
「もともと個性はないから努力して獲得すべし」は嘘だ。
「役に立たない個性は役立つように改善すべし」は本当かもしれない。
「個性を意識し続けることで喜ぶ人がいる」ことも確からしい。
ここでは社会の要請はおいて、個人の内側における意識を考えよう。
すなわち「個性があるという意識がその人を安心させる」のはなぜか。

個性の存在は人を安心させるものだが、その一方で「人と同じであること」も安心をもたらす。
個性は「人とは違う性質」のことだから、ふつうに考えたら矛盾で、しかし両者が同時に成り立つということは、安心させる仕組みが両者では違うということだ。
一見どちらも脳的な安心(意識の産物)のように思えるが、個性が概念である(でしかない)のに対し「人と同じであること」は、そうであると意識して安心する「前段」がある。
すぐ思い付くのは「人の一部であること」、母の体内に住まう胎児だ。
胎内回帰願望という言葉もある。
その記憶の有無はおいて、全ての人間にはその体験がある。
「全ての人間にはその体験がある」という大きな事実が「そうであると意識することによる安心」を担保しているのだろうが、やはりその前段には体験がある。

純粋に意識の産物である「個性があると意識することによる安心」を掘り下げたい。
上で書いた社会の要請とは、「世間では個性があることが良いことだと思われている」ということだ。
言い換えて繋げると「みんなと同じように個性があることで人は安心する」となる。
「みんなと同じように個性がある」?
変な言い回しだが、ちゃんと考えるならばここの個性を「その人の置かれた場面に応じた(周囲の人間にとって)役立つ性質」と言い換える必要がある。
しかしここではそういう意味で「ちゃんと考える」のではなく、わざと意味を曖昧にさせて都合良く使われている「個性」という言葉を、社会がそうしているのと同じ目的で、しかし別の仕方で解釈してみたい。
「みんなと同じように個性がある」ことで僕らは安心することになっている。
実は「個性」の内容を細かく問わずとも、それをお題目として意識すれば安心する。
例えばそれが「社会的には全く役に立たない個性」であってもよい。
そして「個性」の"個"性というのは、内容よりも性質に宿るものである。
役に立つか立たないかではなく、独特であるか類型的であるか。
その判断主体は誰だろう?
世間が「君の個性は独特だ」と言った時、僕の個性は独特だろうか?
世間のみんなの間で意見の一致している「独特な個性」こそ類型的ではないのか?
かと言って、世間の言う類型的な性質が独特な個性に化けるわけではない。
マイナスのマイナスはプラスという話ではない。
これは数直線上の出来事ではなく、集合論の話である。
「世間の中で意見の一致している事柄」はその内容に関係なく、須く世間的である。
あるいは世間の中でのみ通用する独特さ、「世間的な独特」というものがある。
内田樹がブログで自著を解説する段においてこんなことを言っている。
辺境民が自分が辺境民であることを否定する際のわずかな身振りに、自らの辺境性が露呈している。辺境民は己の辺境性から逃れることはできない。
そうかもしれない。
この話を解釈に使うとどうなるだろうか?
「世間的な独特」を独特な個性だと疑わないことが自己の世間性を受け入れることになるのだろうか?
きっと半分は当たっている。
では当たっていない半分はといえば、それと意識しないことが全て「自己の世間性を受け入れる」ことにはならないということだ。

人が泣いたり苦しんだりしているのを見ても、私はほとんど情緒的な反応をしない。
泣いている人には「ティッシュ」を差し出し、苦しんでいる人に対してはできる範囲で苦しみの原因を除去すべく努力するが、それはどちらかといえば計量的な知性の活動であって、私の魂がその痛みや苦しみに共振しているわけではない。
私が苦しむ人に相対したときに集中する主題は、とりあえず苦しみを軽減する「対症療法」的な処置は何かという短期的な問いと、このように苦しむに至った歴史的・構造的な原因は何かというもう少し長期的な、いずれにせよ非情緒的な問いである

内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年1月26日

全くその通りだな、とこれを読んで思った。
最初の一文から薄情だと感じられるかもしれないが、
「苦しみの原因の除去」と情の有無に直接の関係はない。
苦しみに共感するかどうかは、ウチダ氏の言う「非情緒的な問い」の後の話だ。

同じ苦しみをこちらも分かち合ってこそ当人は癒される。
確かに「一緒に泣く」ことに実際の効果はあるかもしれない。
ただそれは途方に暮れるというかよほど不運な状況に限ってのことか、
あるいは「苦しみの原因」が解明し尽くされた後の「締め」として起こりうる。

いや、原因なんて分かっていて、ただ一緒に泣いて欲しいのだ。
そう言われれば恐らく自分も、泣くまでせずとも困った顔くらいはするだろう。
ただやはりそれも非情緒的な振る舞いにならざるをえない。
原因を特定できる知性は働いていながら、情緒に訴えられても本気とは思えない。

まあそこは難しくもなくて、おおかた本気ではないのだろう。
自分自身も大学を出てから「情緒まっしぐら」の人間は見たことがないし、
よほど深い付き合いでもしなければそのような(どのような?)面倒事に遭遇しない。
さて、自分は何が書きたかったのか?


ウチダ氏のこの日の記事で興味深いのは2つの構造の対置である。
「慰藉[いしゃ]の構造」と「説教の構造」。
説教と言われると酔っ払いの繰り言のようなマイナスイメージをすぐ抱くが、
これは「事情を見渡せている者からのまっとうな進言」のことだ。

苦しむ人に向けるもっとも効果的な慰藉の言葉は「この苦しみはあなたの責任ではない」というものである。(…)ある邪悪にして強力な存在が、あなたの幸福の実現を阻み、あなたを苦しめているのだ、というかたちで本人をその不幸から免責するのが「慰藉の構造」である。(…)
その対極に「説教の構造」がある。

説教は、「あなたの不幸の原因のかなりの部分はあなた自身が育み、肥大化させたものである」という前提から出発する
したがって、「説教者」は、あなたの苦境のどこからどこまでが「あなた自身の選択の結果」であり、どこからどこまでが「外的要因によるもの」であるかを腑分けし、「自己責任」部分について、「なんとかしろ」と指示し、「外的要因」部分については「そこから逃げろ」と指示するのである。(…)

不幸を構成するファクターには「何とかなるもの」と「どうにもならないもの」がある。
何とかなるものは何とかし、どうにもならないものはほおっておく。
すごく単純である。

同上

説教が耳に痛いのは、まず自分の責任を明言されるからだ。
言われる方は既に分かっていても、改めて外から言われると苦痛である。
そして説教の内容に目新しいものがなければ聴き手に得は何もない。
だから説く側が予め判断すべきは「この人は事情が分かっているのか?」だ。



自分が何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化はむずかしい。(「できないこと」の言語化はもっとむずかしい。)
「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの。そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってしまう。
自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。(…)
ひとは「好きなもの」について語るときよりも、「嫌いなもの」について語るときのほうが雄弁になる。
そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである

内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年2月23日

自分は「嫌いなもの」について語る習慣を敢えて持たなかった。
特に人に関わる内容には嫌悪感をなるべく含まない努力をしていた。
そうしてきた理由は「自分がされると嫌だから」に他ならない。
だがその当初の理由はもはや実質が抜け落ちていると気付いた。


人に嫌われて良い気分がしないのは当たり前で、
自分の言動に問題があることが理由である場合はふつう改善に努める。
しかし、理不尽な理由で、あるいは自分の人間性と関係のないところで嫌われたら?
あるいは、振る舞いを改善した後の自分が全く好きになれないと分かっていたら?

嫌われても仕方のない場合がある。
「嫌われる」だと強いので、印象が良くない、あまり関わりたくない等も含めよう。
周囲に合わせる気遣いが無ければ、そう思われる機会も増える。
それで良いと自信を持つためには、「仕方のない」を詳述する必要がある。

 嫌われても仕方がないこともあるが、自分から積極的になるのは抵抗がある。
 もちろん日常で周囲の人間に嫌悪感を振りまくような無意味な行為は論外である。
 場の空気を読みつつ、自分にとって違和感のない振る舞いをした結果、
 相手の気を悪くさせるという展開は許容するのが「消極的にはOK」の意味だ。

 だが、そのような自分の「積極性の位置づけ」に実際何の意味があるだろう?
 それこそ自己満足にはなるが、相手にそのような違いが分かる筈がない。
 自分の消極的な協調性の無さがコミュニケーションの開始時点で相手に
 「この人とは合わない」と感じられてしまえば、「始まりにして終わり」である。

現状、嫌われて仕方のない場合はあるが実際嫌われると傷つく自分がいる。
それは「改善の余地の検討を真摯に行うための痛み」として重要ではある。
しかし明らかに、その痛みが必要な場合と全く不要な場合がある。
不要な痛みを感じる所以は自分(の考え方)に対する自信の無さにある。

正確に言えば、「自分の考え方を他人に示して納得させられるか」に自信がない。
もとより「他人は他人だからわざわざ納得してもらう必要はない」と思っている。
共感できる人間がもしいるならば、彼への説明も楽にできるだろう。
認識すべきは、このような態度は「社会性が全く欠けている」ということ。


自分の嫌悪感の内実を語るとは、自分の興味を語ることの裏返しである
前者を為さず、後者には消極的であるとは、「コミュニケーションの否定」だろう。
自分の興味を語るその口(腰?)が重いのは、興味と嫌悪感が表裏一体だからだ
そろそろ、レトリックで誤魔化さない「個性」を書いてもよいのではないか。

というまずは意思表明。

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