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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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久しぶりにこちらに投稿します。
(最近は頻度が減りつつも、一年半前からはてなブログの方に書いています)

「おもえばいたる」タグの記事を読み返してみて、昔の自分の考えになるほどと思いました。
今の自分が思いもしないようなことを過去の自分が考えていたことは、ポジティブにも、ネガティブにも捉えられると思います。
言い換えると、過去の自分が考えていたことを今の自分が知れることは、「道標」にもなり「進路規制」にもなる、ということです。
どちらに捉えるかは、思考の自由があるようで、実はその時の自分の状態と相性のよい方を選ぶことになる、つまり選択の自由が与えられているのは思考主体(僕)ではなく「時間」なのです。

これは必然に馴染むための思考になり得るでしょうか。


逸れた話を戻しまして、
今これを書いている僕にとっては、
さっき読み返した過去の自分の思考は「道標」になるだろうと思いました。

そして、その道標が指しているのは、
たとえば、獣道の入口、
あるいは、船頭のいない船着き場です。


過去の自分が他者である限り、
過去の自分も必然を導き得ます。

過去の自分を仲介に、未来の自分と出会う。
このような経験によって、自己の時間的な奥行きを感じることができます。

思えば、至る。
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いつか、旅に出ようと思った。

有言実行、ではない。
今日「いつか」と思っただけのことだけど、
今の日常生活の中に根ざす感覚と関わってはいる。
言葉にすると引きずられるけど、ちょっと言葉にしておこうと思った。

きっかけは、たぶん、今朝の朝日新聞の天声人語だ。
いつからか天声人語を読んで気分が良くなった日を思い出せないけど、
今日のは冒頭で、本気でイラッときた。
 「泣きっ面に蜂は軽過ぎる」?
 それは語感の問題なのか?
 筆者は自分が何のつもりで書いているのだろう?
 世界(地球)が意識を持つとして、代弁しているのだろうか?
 あるいは世界に起きる度重なる不幸を我がことのように感じている?
 そう感じるのは自由だが、それをここに書く神経が分からない。
 読者がこれを読んで心から同意する絵を想像しているのだろうか?
 それはとても恐ろしい情景だ。
文章の宛て先について考えるようになってから、
新聞の中でまともに読める記事がとても少なくなった。
公正中立なんて絵空事だと分かってはいても、
わずかな陰翳もなくそれを表されると、心が乱れる。
つい最近まで1ヶ月ほど新聞を止めていたのだけど、
新聞の読み方を忘れてしまったのだろうか。
(その間毎朝プリントアウトした内田樹のブログを読んでいたせいかも)

なぜこれがきっかけなのか、書いていて全然分からないけれど本題に戻る。
いや、戻る前にきっかけをもう一つ思い出した。
同じく朝刊にあった「サイボーグ009」の全面広告だ。
何十年も前に言われたことが、そのまま現代に通じる。
それは、がらりと変わった世の中の、しかし変わらない部分への言及なのだ。
けれど世の中はそれを変えようと努力してきたはずだった。
そして、しかし何も変わっていない。
「しかし何も変わっていない」と、その広告は言っているように読めた。
そう言えるだろうけど、本当だろうか?と僕は思った。
変わっていないのは広告の方で、そしてこの事実認知が誤認なら、
これは行為遂行的な広告ということになる。
つまり「そう言っているうちにみんなそう思うようになる」という。
これはいかん、と思った。

草の根的な活動が大事、とは内田樹とその友人達の著書で散々指摘がある。
(ナマモノを扱う人はみんなそのことを言っているのだと思う。
 名越康文、甲野善紀、鷲田清一、釈徹宗、養老孟司、…)
その通りだと思って、そうしたいと思った。
そうしたいとは、ナマモノに接する、ということ。

なんというか、微妙な話だけれど、今の自分の所属は閉じている。
閉鎖的、とも言えるし、安定しているとも言えるし、
何よりここで関係する言い方をすれば「外界と接する必要性がない」。
平和といえばそうだが、僕はこれに染まりたくはない。
この意識は、仕事の効率を下げようとも、常に念頭にある。
僕にはそれは麻痺、鈍感になることに思える。
人がそうなるのを非難する気は全くないし、だいいちそれは適応で、
その集団内で推奨される正しい振る舞いだと思う。

まとまりがないけれど途中を飛ばすと…

今の生活は自分で選んでいるし、できる限り適応するつもりで、している。
今の生活が終わって、がらりと変わった別の生活のことを想像することも、
今の生活に適応することの中に含まれている。
この想像を止めれば、もっと公私ともに自信を持てるし、仕事効率も上がる。
きっとその通りで、しかしそれは僕は望んでいない。
きっと僕は、そういう人なのだ(になりたい?)と思う。

そして、がらりと変わった別の生活を始めることになったら、
たぶん、旅に出る。
戻ってくる家のない、片道切符の旅。
戻ってくる家がある時、旅は否応なく旅行になるのだと思う。
けれど、僕がしたいのは、旅行ではなく旅なのだ。

一冊読むごとに、自分の何かが変わる。
僕にとっての読書は、これも、旅行ではなく旅だ。
だから、読書の旅を続けているうちに、本当の旅に出ることもあり得る。

このような想像を阻害されない今の生活は、上出来だと思う。
 というわけで、この2日ほどは、架空の建築の平面図を描いて遊んでいます(…)1階はガレージと工作室のみ。その他は、レイアウトルームとかコレクション・ギャラリィとかがあって、2階から4階まで吹抜けの中庭。その上にブリッジが架かっていて、ここも将来は線路が通りますね。5階のペントハウスは防音のプレィルームです。はは、夢っていうのは、こうして具体的に見るのがコツなんです(笑)。ビジョンが具体化できない曖昧な夢は、絶対に叶いません
森博嗣『ウェブ日記レプリカの使途』p.20
「おもえばいたる」タグはそういえばこのような思想に基づいた記事を書くつもりで、発端は内田樹氏の「夢(想像)はそれが具体的で細微であるほど既視感をもたらす」という話だったのだけど、自分の夢をいろいろ思い描くうちに「自分の今の生活が否定されるのはやだな」という意識が生まれたのか、具体的にするはずだった想像がだんだん曖昧になっていった記憶がある。
自分の理想像があって、自分の現状がその理想に見劣りすることは当然あって、しかしこのことを「下積み」ととるか「現状の否定」ととるかは自分が現状をどう思っているかによる。
自分の現在の生活が、ちゃんと理想に向かう進路上にあると思っていれば、つまり理想像を実現するために必要不可欠な過程に今いるという認識があれば、現状の不満は理想へ向かう力となる。
しかしそうではなく、自分の現状は理想像と全くかけ離れていて、何か「棚ぼた」的な出来事を期待しているような、つまり現状維持にかまけて理想を実現するための主体的な行動を取っていない(取る気がない)のであれば、現状を理想と比較した時にそれは現状を否定することにしかつながらない。
そして後者の場合に、現状と比較する理想像はそれが曖昧であるほどダメージが少ない(現状をあまり否定しない)ということになる。

夢が曖昧になる理由はだいたいこのようなものだ。
ここで自分はどうしたいのかという話になるが、
僕は具体的な夢を持ちたいけど、それに向けて真っすぐ進もうとは思っていない。
「何をしたいか」ではなく「どうありたいか」を理想像の軸としたい、とずっと考えていて、しかしこの方針は理想像が曖昧になりがちである。
曖昧になること自体は原理的なもので、なぜかといえば状態を微分したものが行動だからである。
言い換えると、行動の志向はその行動一つを実行することに限定されるが、状態の志向はその状態を満たすための数多の行動を経るのである。
だから、僕がしなければならないのは、「曖昧」の意味を変えることである。
夢や理想像が具体的でなく漠然としている、ぼやけていることを曖昧と通常は言う。
しかし僕が理想の「状態」を志向する時の曖昧さとは、その理想像の一つひとつは具体的に想像するのだけれど、その想像の数をどんどん増やして、しかも「一つこれが最善だ」と定めたりはしないということだ。
だから、一つの夢を具体的に思い描く時、もちろんそれは自分が望むものだから「いいなあ」と自分に羨望の思いを抱かせるが、ある時点でそれを念頭から引き離す。
引き離すとは、想像の余韻だけ残して具体的な内容を忘れてしまうか、あるいは意識上はきれいさっぱり何も残さないのが良いのかもしれない。
ただその時は、後で復元できるように文章に残しておくのがよい。
いずれにせよ、僕が「夢を形にする」ことは理想像を文章化することに他ならない。

+*+*+*

というここまでは前置きで、さらに別の前置きが続く。
上に書いたように、曖昧さを取っ払いたいと思った。
ここで言うのは、個々の夢の曖昧さのことだ。
そしてそのために、正直に書こうと思った。
今の自分の状況とかけ離れたことでも、ポジティブなことを書けば、今の状況に対してその夢はポジティブにはたらくはずだ。
そして、このポジティブを大事にするために、「現状と夢がかけ離れていること」についても考えねばと思った。
つまり、と言いつつ飛躍するけれど、なぜ「かけ離れている」と思うのかというと、それはあんまり深く考えていないからなのだ。
簡単に言えば、「状態」は表面状態だけではないということ。(?)

具体例を書いた方が早い。
実は会社での部署異動を記念してこのブログをちょこちょこ変更している。
(これはついでだけれど、コメント受付をこれまで不可にしていたのはそれだけ内向きになっていたからで、今後文章がポジティブになっていくことを望むがあんまり変わらないかもしれないけれど、コメント可にするということは読み手の印象や気付きを言語化してもらうことを期待しているということなので、読みにくいとは思うけれど何か思い付かれれば何でもよいのでどうぞ自由にご記入下さい。)
その一つ、タイトル下の一言コメントを変えてみた。
「夢はいつも、プー太郎。」というやつです。
プー太郎が夢というのは保坂和志の小説に影響を受けていることは間違いないのだが、これは厳密には「職がない状態」ではなくて自由人であるということ。

いい例が『季節の記憶』の松井さんで、地元で「なんでも屋さん」をしている彼はいちおう仕事をしているということになるのだろうけれど、自営業と言うほど固いというか確立されてはいない印象がある(いや言葉上は自営業と言って間違いでないけれど、その表現に収まり切らない自由さが松井さんにはある)。
それで、単にプー太郎になりたいのならすぐに仕事を辞めればいいのだが、もちろんそんなことはしない。
保坂氏は小説家になるまでに百貨店で働いていたらしいけれど、それはすぐに専業になる気はなかったということで、詳しいことは知らないけれどその都度の氏の選択の結果だと思う。
松井さんだって、サラリーマンだった時代があるのかもしれない。
何が言いたいのかというと、つまりは「どっちでもいい」のだ。

僕はついこの前に会社を辞めかけたけど結局は続けることにして今は新しい仕事を覚え始めた段階だけど、この新しい仕事をずっと続けるかどうかは分からない。
社内の状況を気にせず自分の希望を通した手前、これからすぐに仕事を辞めることは人として少し憚られるけれど、それは「すぐに辞めない理由の一つ」でしかない。
辞めたいと思えばすぐにでも辞めるのだろうし、そう思うということはその選択に未練なんか残らないのである。
では今の職場に腰掛けでいるつもりかといえばそんなこともなくて、すなわち常に辞められる準備を整えているというわけでもない。
(とはいえ今回の異動で個人プレーの部署に移ったので事実辞めやすくなったが)
社内で自分の立ち位置に応じて必要とされる分は働くし、頑張りたいと思えばオーバーワークも厭わないだろう。
ただ一つ言いたいのは身軽でいたいということで、ちゃんと言えば「仕事を続けても辞めてもどっちでもいい状態」を維持しておきたいということ。
それを腰掛けと言うのだ、と言われてもうまく反論できないけれど、あるいはこの状態だと自分の仕事に本気でかかれないのかもしれない。
それが会社にとって良くないか、自分がその中途半端さに納得できなければ、辞めることになるだろう。
しかし思うに、会社で仕事に没頭している間は「この仕事を途中で放り出すなんて考えられない!」と思うことは当然あってよいと思うけれど、その思いを家に帰ってからも引きずるのはイヤなのだ。
とするとその切り替えができない人のことを会社人間と呼ぶのかもしれない。
別に会社人間を否定するわけじゃないしそういう人が一定数いないと会社が成り立たないのかもしれなくて、単に自分はそうなりたくはないというだけだ。
…あんまり断定するとちょっと不安になるけれど、そして微妙なというかよく分からないので実感なき想像で書くけれど、家族ができればこの考え方は変わるのかもしれない。
そして家族をもつこと自体は良いことだと思っているので、自分が今否定した考え方とはうっすら繋がっているとも言える。

どんどん話がそれたけれど、言いたかったのは「状態の志向は行動を限定するものではない」ということだ。
ただ「状態の志向」そのものはとても曖昧なものだから、油断して日々の行動に引きずられるといつの間にか「自分は今なぜこれをしているのかが分からない」ということにもなる。
だから日々考えておきたいし、そう話を戻せば「具体的な理想像」を日頃から蓄えておきたいと思ったのだった。
そして「おもえばいたる」タグを仕切り直しで本腰入れて充実させようかと思って、第1弾として(自分が住みたいと思っている)「縁側のある家」について書こうと最初に思っていたところまでやっと戻ってきたのだけれど、どうも前置きが長過ぎた。
これじゃ前と変わらない…というのもイヤなので、宣言を一つ。

今は『もう一つの季節』を読んでいるけれど、このまま未読の保坂小説を読み終えたら既読のものを何度も読み返そう。
自分の理想像の一つは、明らかに一群の保坂小説によって形作られている。
一読目は雰囲気を楽しむ(+哲学的な思考を楽しむ)だけだったが、自分の夢を具体化するという意思のもとで再読してみよう。
なんか表現がかたいかな…読み方のイメージとしては「登場人物になりきる」といった感じだろうか。

まず何より、上で正直にと書いた通り、「僕は保坂小説のような生活を理想的と思っている」ことを自分の中で明確にすることだな。
そしてその思いは「その理想像と今の社会人生活がちゃんと繋がっている」ことを意識できれば確固としたものになる。
考えることは沢山あるけれど、ゆっくり着実にいこう。
次はジム・ビームにしよう。
名前からして弱そうだけれども。

+*+*+*

もし、しがらみがなく自分の住む場所を選べるならば、
「魅力的な建築」の近くに住みたいと思った。
自分の住む家はむしろ平凡で質素でよい。
そこに行けば、心が洗われるような、ある感性のスイッチが入るような建物。
自分の住処から歩けるところに、そういうものがあってほしい。

『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信、増田彰久)を読み始めて早速影響を受けた。
もともと自分は建築に興味がないわけではなかった。
近代建築や、あるいは茅葺き民家でも眺めていて飽きないし、実際に見たいと思う。
というのもそれは本で読んでいるからで、しかし実際に見に行ったことはない。
僕にとって建築は「想像をはたらかせると面白い」対象でしかなかった。
その意識が揺らぎ始めたのは内田樹のブログでヴォーリズ建築の話を読んでからだ。
一読してではなく、何度も読んでいるうちボディブロウ的に効いてきたのだと思う。
(ウチダ氏は本当に同じ話ばかり書くが、不思議と飽きない。これは凄いことで、
「同じような話」だけでなく「同じ話」を読んでも飽きないのである)
何の偶然か『建築探偵〜』に神戸女学院大の項があり、最初にそこを読んだ。
図書館の天井の高さとその装飾にうっとりし、そこの大学生を羨ましいと思った。
思えば阪大吹田の工学部図書館も京大吉田の中央図書館も、機能的でしかなかった。
阪大の医学部図書館が構えだけ何やら荘厳だったが、
(マニアックだけどシムシティ2000の「市長官邸のアイコン」みたいな。
 そういえばシムシティのMac版が出る(出た?)ようで。ちょっとそそられる)
内装に惹かれるものはなく古めかしいという以外に記憶がない。

でまあ安直だけど「魅力的な図書館」の近くに済めればよいなあと。
カフカ少年みたいに(私設の)図書館そのものに住めればさぞステキなことであろう。
家出しようかな。(そこか)

決して機能的ではないが、落ち着いた雰囲気で、歴史があって。
人は少ないが、それは雰囲気が来館者をスクリーニングしているからであるような。
今大人気のツタヤ図書館とかその対極にありそうだけれど(でも一度行ってみたい)

そして海月及介のように日がな一日画集や図集を読み耽り、
部屋ではさながら置き物のように微動だにせず岩波文庫を精読する。
いいなあ。
言葉と言葉を架橋する「ことば」?

「自分を信頼するには」という話だった。
このことについてなるべく論理的に語りたいのだが、論理を尽くせば必ず納得できるとは思っていない。
論理的に微細な瑕疵も見当たらず納得することは、その話が自分の「身に染みる」こととは別である。
両者の近さはその人が「論理性をどれだけ信用しているか」に因るだろうし、その「信用」の決定因は論理性そのものではなく、その人がこれまで生きてきた中で、論理に従い、学び、活用する経験のうちに受けた恩恵の大きさにある。
一般的に論理を扱う際にこの「論理性の具体的な効果」をいちいち想像しないですっ飛ばすのは、論理それ自体が「そんなこと考えなくても通用するように構成されたもの」だからである。
何が言いたいかというと、この「想像」は普段の論理の活用の犀に表立つものではないが、(個々の、ではなく「言葉」と言い換えられるような)「論理」の始まりにはこの「想像」が伴っていたことを忘れてはいけないということ。
加えて、言葉の論理性が軽んじられるということは、もともとは手段であった論理の整合性が目的化してしまったからで、その手段とはすなわち「論理性の具体的な効果を得るための」であり、長い間「想像」をしなくなったことの一つの結果であるということ。
だから、「言葉は大事だ」あるいは「論理的に書く(話す)ことは大切だ」と思いそのことを身をもって示したい時は、文字通り自分の身体が共鳴するような「論理性の具体的な効果」を語らねばならず、その語りは論理性に依拠しつつも論理的であるとは限らない。
この「論理性に依拠しつつ論理的でない」という表現は(言葉の)創造性と関わっていて、例えば今まで言葉にしようとしてできなかった思いを見事に表現する言葉に出会った時の「ビリビリする感じ」が上記の「効果」の一つであって、これは感動主体の既存の論理性の範疇になかったという意味で論理的でないのであって、一般的にとか世間(マスコミ)の論理とは別にその人個人の論理性がアップデートされた経験なのである。

何が言いたいかというと(take2)、もう最初に言いたかったことと違うのだが、僕は本を読んでいて、古本を買うことが多いのでわりと昔の本が多くて、漠然と言えば昔の本と今の本とで言葉の語られ方が明らかに違う。
言葉は時代によって変わるし、流行語や死語といった個別の単語もそうだけどもっと大枠の「言葉への信の置き方」も時代によって変わる。
昔の本を読んでいてなにかよく分からない魅力を感じるが、それをそのまま現代に持ってくるとなにか違和感がある。
それはその昔の本を読んでいる間は僕の頭が「当時の言葉の使われ方」にシフトしていて、もちろんそうさせてくれる本の凄さあってこそで、読みながら納得していたことが本を閉じると「あれ…?」としばし惚けてしまうのは、「当時の言葉の使われ方で綴られた文章」を「今の言葉の使われ方」で翻訳する力が足りないからで、読書を生活(の変化)と結び付けたい僕はそのことに少し不満を感じる。
というと誤解で、満足したいわけでもなくて、この「生活の変化」が実のところ自分の内に留めておくのも勿体ない(←正味の感覚がこれなのがちと哀しいが)と思っていて、それはつまり自分の言葉で人に分かるように語り直したいという欲求が確実にある。

何を書いているのかよく分からないがまとめると(take3)、最初に「自分を信頼する」と書いたのは恐らく「言葉を通じて」のはずで、しかしそれは単に「今の言葉の使われ方」に依拠してのことではなく、昔の本を読んでいるというその「当時の言葉の使われ方」に魅力を感じており、かつ「言葉を通じて」の方法である「論理性の具体的な効果」を表現したいという思いを兼ね合わせると、

自分の(身体)感覚を媒介させて「当時の言葉の使われ方」を「今の言葉の使われ方」に架橋する、

ことを僕はしたいのだと思う。
…これ続くの?
というかまさか、まだ本題に入っていないのでは…。
何をではなく、どう信頼するか。

まず導入として、「誰が」信じるかといえば、もちろん自分だ。
信じることで前向きになれたり活力が湧いたりするとして、それは誰か他人に信じてもらうことで前向きになれるわけではない。
もちろん他人の信頼なんかどうでもいいわけはなく、「自分を信頼してくれるその人」が自分にとって大切である、その人を信用しているからこそ、他人の信頼は自分の力となる。
「みんなから好かれるべきだ」と教条的に思っている人が、実際に信頼してくれる人の「数」に比例して自信が持てるというのならば、その人はよほど人を見る目があるか、よほど人を見る目がないかである。
というのは半分冗談で(今読んでるツチヤ教授のエッセイのせいだ)、半分以上本当のことを言うと、その人は理想的な慈善家か、全ての人を同じ色眼鏡(モノクロに見えるのかも)で見ているかだ。

ある人が自分を信頼してくれることで力をもらえるその人を信じるのは自分だ。
まどろっこしい言い方だが(上の話に対応させた)信じる主体は自分だということ。
その次だが、なにかを信じるにあたっては「拠り所」がいる。
それは理由と呼ばれるような、論理的に説明できるものである必要はない。
そもそもその拠り所は対象化して把握する必要もない(「信じるのに理由はいらない」とは要するにそういうことだが、それは対象化せずとも信頼の柱が確固として立つ意味もあれば、曖昧でよかったのに明示的に意識することで威厳が損なわれ効力が失われる意味もある)。
拠り所を対象化するにせよ心の奥底に仕舞っておくにせよ、それを支えとして信頼を確固とさせておくために両者に共通して必要なのは覚悟だ。
対象化の方針をとるなら(理由付けを手段とするなら)論理的整合性をとっておいたり(特定の感覚(身体性)をベースにするなら)感覚が鈍らないように普段から身体性を研ぎ澄ませておいたりしなければならない。
一方の対象化しない方針は先の対象化の後者と似ている(というか大部分が被っている)のだが、上辺の論理につられて自分の感覚が鈍らないようになる必要がある(簡単に考えればそのための方向性は2つあって、1つめは上に書いてあって、2つめは「論理性の軽視」だろう)。

「拠り所の対象化をするか否か」で分けたのは、その覚悟の持たせ方の実際として大きく異なると思われるからだ。
簡潔に言えば、社会(の多数派)と距離をおく場合は前者、社会の流れにそのまま従う場合は後者に対応する。
「多数派に与する」というのはそれだけでとても大きな信頼の拠り所となる。
文化の違いも多少はあろうが(付和雷同や日和見主義といった言葉はやはり日本人に馴染みがある)、それ以前にそれは人間が集団で社会を作り上げてからは欠かせない基本的な性質なのだと思う。
(もちろん「基本的」の意味は「その性質の欠けた者は人間に非ず」ということではない。集団の維持に必要な性質の一つというだけで、他にも「いつも集団とは違うことをする性質」(集団の生息環境が急変した時に活路が開けるように)も成員の一部には必要だろうし、それら諸々の比率は働きアリ(確か2:6:2だったか)を想像すればよくて、そこから「潜在的にはみんな同じ性質を持っていたとしても、それが発揮されるか否かは意志の問題ではなく周囲の状況に依存する」こともついでにわかる)

難しいのがもう一方である。
多数派と距離を置く人間は集団心理の効果のようなものを利用できないばかりでなく、その効果は反転して自分にのしかかってくるからだ。
赤信号をきちんと守るくらいなら構わないのだろうが、多数派と異なる行動をとった時に下手に目立ったり多数派に反省心を芽生えさせてしまったり(自分を全く疑わずに行動できるのも集団心理の効果だ)すると、その行動の是非に関わらず不審(時に不信)の目を向けられる。
実はこのフシンの目を真正面から受けて気にしないだけの鈍感さを身につけた人というのは上述の「信頼の拠り所を対象化しない方針」の方が対応しそうでもあるのだが、ここで書きたいのはそちらではなく、フシンの目を受け流したり跳ね返せるような(ロマサガ3で言えば「パリイ」と「切り落とし」の違いですね)別の拠り所を必要とする人についてである。

続く、はず…(だってまだ本題に入ってないし)
本記事にこのタグを選んだ意味も書きたい。
水の話の続き。

前回は少しインスピレーションが湧いたので勢いに任せて書いてみた。
全てが頭の中の話、というわけでもない。
「水」を媒介ワードとして、日常の場面のいくつかが繋がる。

田んぼが広がる視界の開けた道を歩いていて、あたりを見回して、「なにかに覆われている」と感じたことがある。
遠くの山(大山のことだが)がはっきり見える時とかすんで見える時があって、後者の場合は天気が悪かったり、晴れていても黄砂だったり光化学スモッグ(前に一度注意報が出た)だったりするのだが、そういう特別な場合の時ではない。
その時は山が少しだけかすんで見えていたのだと思う(十全に視界良好の時に空気中の粒子に思い至ることはないだろうから)が、きっと湿度が高かった日のことだ。
話はそれるけれど、会社が寮から近いので天気予報には関心が低くて、そのかわりでもないのだが「降るか降らないか」を匂いで判断しようとしている。
もちろん空模様も考慮に入れてはいて、というか朝の湿気の状態で夕方の降雨の予測ができるかどうかも不明だがそこは気分の話で、天気予報は雨って書いてるけどあんまり湿っぽくないから大丈夫だろうと傘を置いて行ってじっさい夜まで降らなかったことはある。
その逆がないのは「自前の天気予報」を楽しむよりも手ぶらで通勤する方が優先度が高いからで(実は必要ない限り鞄は持たないのである。傍から見て散歩と変わらない姿で、じっさい空を見上げつ山を眺めつと前を見て歩いていない所がもう散歩でしかなくて、始業時間ギリギリでなければ左に曲がるところを右に曲がって会社に背を向けて悠々と歩き続けるなんてこともあり得ない話ではない。そこのところを勘案して敢えて通勤時間に余裕をつくらないでいるのだろうと自己分析している)、「予報が晴れなら晴れるだろう」と信頼の仕方がテキトーで信頼になってなくて、まあ申し訳ないとは思わない。
話を戻して、視界が多少かすんでいる日に外を歩いていて、空気中の粒子を感じたのだった。
その粒子が水なのだと言いたかっただけなのだが…

この話自体はここでおしまいで、けれどさっきこの経験を思い出して閃いたことがあったのだった。

前に書いた詩にもあるのだが(これを書いた時は想像に留まっていた)、もちろんメタファーとしてだが、僕は溶けようとしているのかもしれない。
ある空間に、違和感なく、溶け込もうとしている。
この「ある空間」には人がいることもあるのだけど、「違和感なく」という意味は空間内の人々の主観と関係はない。
僕は小さい頃から自然との一体化を「実践」することに関心があって、けれどそれは公園の木のそばに立って目を瞑って「自分の足が地面に根を張り土の養分を吸い上げて…」とイメージする程度のことで、それは猫の目をじーっと見て「猫と会話する」と思い込むことと大差はない(が、小学生の頃下校時にこの「猫との会話」を5分だか10分だかやった後、猫が家の玄関までついてきて、ドアを開けたら中にひょいっと入った(そして母はブチ切れた)経験をした時は本当に会話ができるのだと思った)。
おそらくそのイメージの延長なのだけど、人間も「自然」であって、人々の間にあって人の意識とは別の次元での「違和感のなさ」が、森に溶け込む一本の木の自然さと同じような佇まいがあり得るのではないか。
もちろんこれを昔と同じように「実践」しているなどという意識はなく、このような発想が人との触れ合いにおける怠慢の正当化につながりかねないとも思いはするのだけれど、「そのような怠慢ではなくて…」と自覚がありつつも遂行的KYを止めることができない時に、その自分の感覚を言葉にしようとすると一つの候補になるのかもしれない。
しかしこのような思いがいつ(それはものすごく先のことになるのだろう)、何に(本当に、何に?)どのような形での結実を見せるのか、到底想像が及ばない。

…「溶け込む」の話が昔話に引きずられて変な方向に進んでしまった。
元々は「自我を薄めかつ充実させる」みたいな話をしようとしていた。
気が向けばそっちの話も…そして最初に「幾つか」と言った「水」の話も。

あ、一応書いておくと、前回の詩は今読んでいる『海に住む少女』(シュペルヴィエル)の影響を受けています、確実に。
先取り未来。

「えー、このたびはこのような私事(わたくしごと)のためにお集まり頂き、誠にありがとうございます。本来人前で長々ととりとめのない話をするような人間ではありませんが、このような会に自ら足をお運び頂いた身様は十分に覚悟ができているとこちらで一方的に判断させて頂きまして、まあ右から左にするっと、掴まえる気の全くない流し素麺の如くに聞き流して頂けますと幸いです。さて、やはり事の発端といいますか、どのような成り行きがあって今ここに二人が並んでいるかということに皆様もしかすると興味がおありかもしれません。ご多分にもれず当方も同じ気持ちでございまして、まあ隣の人はどう思っているか知りませんが(苦笑)、当方の口から出任せに当方の耳が興味津々ということで、無責任にも語り手とオーディエンスの一人二役をやらせて頂こうという算段であります。分かりやすく喩えれば田子作の身の上話に聞き入るいっこく堂、うしくんとかえるくんの応酬を無表情で見つめるパペットマペット(の中の人)、といったところでしょうか。一人二役と言っても彼らの面白さを見れば一足す一は二より大きいという事実は明らかでして、しかしそれが半分の事実でしかないのも本当のことでありまして、要するに算数でないところでは一足す一の答は二より小さくもなるすなわち不定ということで、この値を定めるのは皆様の暖かいお耳にかかっているわけであります。さて、そろそろ本題に入りますが…」

「太え(不定)野郎だぜ!」
僕は普段から人と仕事上などの必要以上に喋らないのだけど、人間は人と喋らないと寂しくて生きていけない生き物なのだとしたら、それでも僕が平気なのは頭の中で会話してるからかもしれない。
想像というのは具体的のようで抽象的でもあり、曖昧な夢のようでありながら圧倒的な現実感をもって迫ってくるものでもあり、確かに言えそうなのは実体を備えた実生活と比べてなにかしら偏っているということ。
がしかしバランス感覚の大元を想像力が担っているという話もあり、するとその偏りは内的な問題に過ぎなくて、つまり偏った想像を修正できるのは想像(の仕方)にある。

という話がしたかったのではなく、その想像の中での会話をしながら気付いたことがあった。
自分の興味対象は大体このブログで書いてるようなことで、そんなテーマで日常的に接する方々(つまり会社の人です)と飲み屋談義を繰り広げたりしていて、その想像が偏っているというのは中身の大体が自分の語りで相手の相槌やツッコミなどの反応が見えてこないことを指しているのだけど、それでも気付くことがあるのは自分の語りと思ってる言葉のなかに相手のそれがいくらか含まれているからかもしれない。
と具体的にしようとすると怪しいけれど、きっと想像内での対話相手の想定というのは「相手のその人となり」を念頭におくことで自分の語りが(例えば一人で考えている時と比べて)いくらか変化する効果があるのではないか、とある程度抽象的に表現すればそれっぽい。

で、仕事のやり方から話が合いそうな気がしているうちの上司と教育について話していて、「"自分探し"なんてのは国が始めに言い出したんですよ」と言って教育審議会の答申かなんかだったかな、と言ううち想像が内なる思考に切り替わって、
 そういう刷り込まれた固定観念って今では血肉化して違和感がないというか無意識の行動指針になっているけど、刷り込まれた当時と今とで違うのは当時の自分の状況(つまり刷り込まれ方)を環境込みで突き放して分析できることとその分析ツール(つまり物事の捉え方、考え方)をたくさん手にしていることで、その固定観念と自分との結合を解くのも(その結合力の主成分は固定観念に対する愛着、崇拝、無根拠(非合理)な肯定など。「習慣」はその性質と機能の関係では合理的だけど習慣の具体的な内容と機能の関係を見た時には非合理の最たるものとなる)面白いのではないか、
と思った。
忘れっぽいとか自分の過去に愛着のない人ほどやりやすいだろうなと思い、僕は充実した一時期の過去の経験を文章化できないことに嘆いたことのある人間であって(そのせいで読書にのめり込んだ、と言って大袈裟ではない)、昔と比べて表現手段としての言葉をたくさん手に入れはしたけれど個人史編纂みたいなことに対する興味はむしろなくなってしまった人間なのできっと楽しくやれるのだと思う。
人はほっといても変わるものであって、けれど「ずっと今のままでいたい」が主流の価値観でそれは「今を肯定することで変化を否定する」ことなのだけど「人工を肯定して自然を否定する」ことでもあって、しかし過去を否定することで変化を肯定できるというのは「人工の人工は自然」みたいなひとひねりがあってとても面白い。
このことを「否定の肯定」と言った時に前者はどう言えるだろうと考えてみると、まあ当然だけど「肯定の否定」になる。
後者は「肯定してるつもりが否定になっている」で、これは「身体に任せて生きているはずが脳に振り回されている」というようなもので、身体性が鈍っていると言うことはできるがその前件に「抽象思考を軽く見る態度」がある。
つまりタイトルのようなことが言いたかったのでした。


一言でいえば、
「過去の自分を分析対象にする」のも面白そうだ、と。
で、きっとそう思えることは今の頭がわりと健全な状態であることを示していて、
こう書くことは祝いにも呪いにもなるという。
と書いた最後の一行はきっと「呪鎮」です。
ふう。
「自分のありたい場所」を具体的に想像して書き溜めておくシリーズ。
久しぶりに読み返して「いーなー」と思ったので(これぞまさにマッチポンプ)、次の記事を書くべくテーマだけ投げておこうと思います。

 「文字のない街並」

さて、気が変わらなければ近いうちに掘り下げるとしましょう。
しばしお待ちを。
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