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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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養老 結局死んだ人から見てると、生きた人間てのが見えてくる面があるわけですね。
吉田 ええ、でも、それも養老さんのお書きになったものを読むとそう思える、というだけなんですけどね。解剖学ぜんたいがそう言えるわけじゃなくて。
養老 やっぱり死体ってのは面白いもので、「これ何だ」ってのを誰でも思いますね。「一体全体おれの目の前にあるこれは何だ」って。
吉田 それはすごいことですね。
養老 私、精神科に行き損ねて解剖学に行くというまさに一八〇度の転換だったんですけれども、文科系に行ったらどうかって言われたこともあるんですね。でも文科系に自分は行けないなと思った理由は、あれやってると気が狂うんじゃないか(笑)。つまり自分がどこに立っているかというその立脚点が見つからないって感じなんですね、小説とか所詮文字に書かれたものでは……。そうすると絶対的に近い足場みたいなものがほしくなる。そういうものを考えた時に、生きた人間というのはフラフラしてかなりあてにならないわけですね
吉田 死体という立脚点は一番強いですよね、座標軸としては。
養老 やっぱりかなり強いものだなという、本能的にそういう感じがして、これならば気も狂わないんじゃないかと……(笑)。
養老孟司/吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』p.123

立脚点、ね。
機械系には、がっちりあった気がする。
が、自分はそこから遠のくような道を歩んできた。
きっかけは「もっと考えねば」と思ったことにある。
別に機械系の頭が空っぽと言いたいわけではない(それじゃ仕事にならない)。
要するに「文科系の思考に憧れた」ということだ。
それが本気だったのかどうか、思えば今までズルズル引きずっている。
文理の境目をうろうろしながら、体は少しずつ文の方へ傾いている。

それは構わないのだが、何も身一つで境を越える必然はない。
使えるものは身に付け、あるいは脇に抱えて持って行く。
リセットという短絡に逃げず、プラスとマイナスをきちんと選り分ける。
さて、何があったかな。

そうそう、「今も使える」だけでなく「かつて使っていた」という視点も大事。
それがもはや使えないものであっても。
何も考えずにいられたのは、それだけの理由がある。
昔と今の、どちらが自分という話でなく、昔も今も、どちらも自分。

アグレッシブな受け身といきましょう。

あ、あと忘れてたもう一つ。
まだ狂ったことないのだから、一度狂っておいてもいいと思う。
真反対なこと言ってるけどね。
分裂してるなー、鋤蔵だわ。

この「どっちでもいい」は、ありえないはずなんだけど。
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暑さに溶け込む。

暑い。
外は暑いのだが、室内はところどころで寒い。
冷房をかけたまま寝た翌朝の自室とか、測定室とか。
外が暑いのに中で寒がっている状態に不安を覚える。
エコでないとかそういうことではない。
自然でない違和感はあるがそれは今に限ったことではない。
夏風邪は治すのが厄介だという恐れはある。
単純にそれが不安の第一要素かもしれない。

外を歩くと問答無用で暑い。
だから言葉通り問答は無用。
しかし何も考えないわけではない。
暑さの原因を問う意味がないだけで。
高気圧がどうとかは天気屋に任せてこちらは聞き流せば良い。
理解して涼しくなるわけでもない。
だから考えるべきは「暑さをやり過ごす実際的な方法」について。

とりあえず空気の層を注視してみた。
前に「空気が水分で満たされている」と感じた時と同じ見方。
視線の先には風景があるが、見ているのは「その途中」。
目は「風景が(ある時と違って)どう見えているか」しか示さないが、
その情報を頭が解釈する仕方によって「途中」をとらえる。
空気の構成分子がいつもより激しく振動している(暑いから)。
その振動を想像し、自分がその振動に囲まれていることを意識し、
そして自分の身体を構成する分子がその振動に共振する。
暑いことに変わりはないのだが、暑さが外的なものでなくなる。

質が変わったと思い、それに実感が伴っているかどうかは…?
ま、あるならあるんでしょう。
(…)生化学と解剖学とでは、本来異なる点が一つある。解剖学では対象は可視であるが、化学では通常不可視だということである。(…)不可視の世界では誰かが拾い出す物質なり事実なりは常に何らかの意味ないし脈絡がある。だからこそ拾われたのである。つまり、本質的には予測されたものである。もともと見えないものだから、それでなければ拾いようがないではないか。一方、可視の世界では必ずしも事実の間に脈絡はない。存在がまずあって、眼に見えてしまう。事実の「意味」のほうが後追いをすることも多いのである。
「脈絡のある事実」(養老孟司『ヒトの見方』p.78-79)
解剖学は「(永遠の)夜明けの学問」なのだと思った。
こんなに退屈なことはない、と同時に生きることそのものでもある。
養老先生の書く本が「社会時評に限らず学問書でも」身近な感覚で読める(というか身近な感覚から切り離すことができない)のは、解剖学の性質がそうであるから。
なるほど、そりゃ「やるべきことは尽きない」わけだ。
われわれの脳には、なにかに実在感を与える機能が存在する。一般にそれは、かなり強力であって、本人はそれにほとんど疑いを感じる余地がない。そのような実在感は、脳の置かれた状況によって、さまざまな対象に付着する。数学者なら数学的世界に、哲学者なら言語による抽象世界に、ふつうの人なら身のまわりのモノに、株屋なら株、金貸しならお金、魚屋なら魚、というわけである。だから私は、死体に実在感を感じるのである。
養老孟司『続・涼しい脳味噌』p.21

ここで養老氏のいう「実在」は、形のあるモノを指すのではない。
それも含まれるが、総じて人が自分にとってリアリティを感じるもののことだ。
「実際に存在」しているのは、各人の脳の中でのことである。
しかし脳内のある一部分を占めるそれは「かなり強力」な存在感を放つ。

旅の総括で書いた「実体」とこの「実在」は異なる。
今読み直すと所々で異なる使い方がなされてはいるが、
主には「形のある、日常生活を構成するモノ」の意味で用いた。
旅の総括のその文脈を一言で再現すると、「実体に実在が伴っていなかった」と。

 養老氏の考えに即せば、小説世界や思考内容は自分にとって「実在」である。
 ただその実在感をそのまま他者と共有することはできない。
 その実在感を前提とした話をしても通じないということだ。
 共有を目指すなら下準備がいる

前に「実体を大切にする」と書いたのは他者を意識してのことでもある。
実体は、その同じモノを目の前にする他者と存在感を共有することができる。
実体に対するイメージが異なろうとも、その違いを議論する前提は共有できる。
この前提の共有をすっ飛ばしてコミュニケーションを図ると碌な事が起きない。

…と言いつつ、同時に集団が嫌いで独りを充実させたいとも言う。
どっちなんだ、と思われそうだが、集団は嫌いだが他者が嫌いなのではない。
一対一で根を詰めて話す機会は基本的に歓迎する準備はあるのだが、
気をつけろと自分に言っているのは「その会話は"独り"の延長ではない」こと。

人それぞれの実在感と、人と人の間の実体の存在感、この意味を心に留めておこう。

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