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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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仕事における「受動性」について。

しんどい時にはあまり頭は働かなくて(まさに今だが)、馴染みの文章を読むのはするするできるけど文章を書くのが億劫になるというのは、受け身の状態である。
仕事でひたすら受け身であるというのは、幾らかは仕事の性質から当然そうなってしまうものなのだけど(一単位の仕事が同僚や上司の依頼から始まる)、時々自分の判断で仕事内容の解釈や優先順位を変えることがあって、しかし今あらためて思うにその「自分の判断」は「自分の想像による依頼者の(解釈における)判断」なのではないか。
重要度の高い仕事についてはその解釈について依頼者に確認するが、実はその重要度の高いという判断も自分がしている。
グループ内での情報共有ができていればそのような自分の(実際のところ)勝手な解釈が支障をきたすことはない。
仕事というのは進める中で状況がころころ変わり、当初の予定を変えるような判断が必要となることはふつうにあるのだが、状況が変わるたびに依頼者や上司に確認をとったり指示を乞うというのは端的に「仕事ができない人間」である。
それで伝達ミスは防げるかもしれないが、確認のやりとりに割ける時間がなければ依頼者や上司の負担になるし、その分だけ別の仕事が進まなくなる。
とはいえ確認のやりとりが全く無ければそれはそれで不安になるし、「ホウレンソウをしっかり」(社内研修で誰もが一度は耳にする「報告・連絡・相談」ですね)という話もあって要は程度問題である。

で、そのバランスが崩れる時というのを考えると、上にも書いたが「過剰に確認を求める」側と「なんでも自分の判断でやってしまう」側の二極に分かれる。
前者は判断力が弱っている時や自己保身が念頭から離れない時に見受けられる(と想像する)。
後者はそれとは逆に自信過剰な人間や出世欲に燃える人間が陥りがち、なのだろうか(自信はない)。
自信はない、と書いたのは、他でもない自分が今後者の状態にあって、自分自身を考えると全然そんなことを思っていないからだ。
これは最初に提示した「受け身」の話と繋がるのであって(希望)、というのも僕はいったん一単位の仕事を始めると自分の判断で進路を決めたり重要度を考えて途中で終わらせたりすることがあって、そしてその判断が上記の「自分の想像による依頼者の判断」なので判断を間違えた時に申し訳ないとは思っても自分の身に染みることはない。
仕事の解釈を自分の判断で行うことには依頼者への確認を少なくする(結果的にそれが「足りなかった」こともある)という自分の判断も含まれるのだが、そのような判断に至るにはもちろん理由はある(依頼者が忙しそうとか、自分が乗り気でないとか。後者のような真面目でない理由もザラにあるが実際上しょうがない)。
で、そのような自分の判断が(仕事の遅滞や実験の不成立による損失の発生などの)失敗を招いた時に自分の身に染みないとはどういうことかと言えば、まず言葉からすれば「自分の判断」と言っているものが実は自分の判断ではなかったということで、その内実はもう書いた。
ではそのような「"偽りの"自分の判断」をあちこちで為しながら仕事を進めるなんて無責任ではないかと思えそうだが、しかしこれは「そういうもの」ではないか。
逆に「自分の判断」の責任の全てを自分が負うというのは、仕事の上ではしてはいけないのではないか。
以前に平川氏の著書から抜粋した中に「仕事はロールプレイング」といった話があったが、これはつまりそういうことではないかと思う。
もちろん考えるのは自分の頭なのだが、自分が考えて行動した結果の全てを自分が招いたわけではない。
自分の仕事の結果の責任が自分にだけあるのではないのと同じく、同僚の仕事の結果の責任の一部は自分にもある。
そもそも仕事をしている会社という場が、自分のものではない。
平川氏は「同じ会社の社員はみんな一つの物語を共有している」と書いていた。
誰も口に出しては言わないが、確かに共有している物語がある。
その物語を信じる自分は確かに一人の社員であり、しかし自分が信じる物語はその一つだけではない。
物語はいくつもあり、それらは同じ階層に並列しているのではなく、互いに含んだり含まれたりしていて、その関係も経時変化している。
自由は一つその認識にあり、そしてそれはちょっとしんどい。

そう、しんどい話なのだ。
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見る意志の話。

所属部署の後輩が面白い実験をやっていて、手伝いがてらモルモットになっている。
社内でやる実験なので被験者は全員身内ではあるのだけど(つまり全員がモルモット)、実験方法が確立するまではグループ内の融通の利く人が助言しながらの試行錯誤が必要なくらい「未開のテーマ」であって、その意味で自分は「身内の身内」で「モルモットのモルモット」ということで「モルモル」という可愛い渾名を付けてみた。
(が、間違っても「モルボル」ではない)

もちろんそれはどうでもよくて。
実験内容は書けないけれど実験に用いる装置が興味深い。
それは「被験者の目の焦点位置を測定する」装置で、眼科にあるような顎をのせる台の前方上部に赤外線を発する機構がついていて、目にあてた反射光を検知して(黒目の大きさ?とかで)「被験者が何cm先を見ているか」が測定できるらしい。
で、それは片目ずつ測るのだけど、実験の中で一度間違えて、左目を測ってるつもりが右目を測ってしまった。
60cm先の物体を見ながら測定していたので通常なら測定結果も60センチあたりを指すのだけど、なんと数十メートルという結果が出てきた。
焦点距離の振幅の経時変化がぐちゃぐちゃで測定ミスにも見えたが、どうもそうではなかったらしい。
話を整理すれば、左目が60センチ先を見ている時に右目は数十メートル先に焦点が合った状態であるということで、そうか両目のバランスはこんなにデタラメだったかと感心したのだった。
数値で見るととても気持ち悪いのだけど、これが自分の標準なのだから仕方がない。
だからどうなんだ、という話には進まない話なのだが…

あ、一つ思ったのは、右目をメイン視野にして散歩するという半分遊びの半分訓練を日常的にしているのだけど(だから上の実験結果からすると右目で数十センチ先にピントを合わせている時は左目はホントに「目の前」にピントが合っていることになって、そりゃ目玉も内側に動くわなと納得)、その訓練の成果が「両目のバランスが取れてくる」ことだとすれば、その成果を上記の測定装置を使って定量的に評価できるな、と。

その装置がウン百万するらしく、彼は試用期間中に面白いデータを出して社長を説得して正規購入できるように今頑張っているところなのだけど、ゼヒ成功してもらいたいですね。
「モルモル」権限で私用に使えるかな、と…ふふ。
生理学(?)的に面白いサンプルになると思うんだけどなあ。
まあ研究開発には全然関係ないけどね。

ああ、またタイトル放置…
「視線に慣れること」と「鈍感になること」はひょっとすると違うのではないか。

僕は中学校に入学した頃から「人に見られている」という意識が強くて、そのことをずっと自意識過剰だと思っていて(思わされてきて)、何度も改善を試みたが治らず、途中で「これはもうこういう自分なのだろう」と現状を納得する論理の構築に目先が変わったのだった。
その論理の一つが「周囲の状況に対して敏感であること」で、危機に遭遇した時に遅滞なく適切な対応ができる体勢を常に整えている…というと動物みたいだが、人間社会に危機なんてそうそうないのでこれは意識の問題で、要するに(予想外のものを見たり想定外の人に会うなどして)「びっくりしたくないだけ」なのである。
それじゃ単なる臆病者かと思われるが言い訳はあって、びっくりするというのは「びっくりした瞬間に隙を見せる」ということでもあって、隙を突かれる可能性(そもそも誰に?)の多寡に関係なく隙のある状態が自分の覚醒時に存在することそのものが危機であるという認識があるわけで、要するに考え過ぎである。(言い訳になっていない)
こうなったことの発端も考え過ぎに因るのだから特に違和感はなくて、意味のあるなしとか生産性以前にそういう機制が出来上がってしまっていることと、本気で悩んで「長い目で見て計画的に」治そうとこれまで思わなかったために、この性質は変わることなく今に至る。

以上のことは悩んでいた頃の復習であって、最近はいくつか別のアプローチで(改善ではなく)変化を目論んでいる。

見られているという意識は「相手が自分に関心をもっている」という勘違いを呼ぶもので、というか自分の中で両者は等値の関係にあるのかもしれないが、日々の行動が専ら受け身的でいられる理由はこの勘違いの強靭さによるのかもしれなくて(自分が周囲に全く関心を持たれていないという意識があれば自分から構ってもらいにいくものだろうし)、そうすると孤独が好きという僕自身の基本的に独りでいる生活はあまり上質ではないと思えてくる。

孤独については「真の孤独は砂漠の中ではなく群衆の中にある」という言い方があって、これは独りでいることに慣れると孤独であることを忘れるという意味なのだが、「群衆の中にいる孤独」というのは言い換えれば「周囲の人々から全く関心を持たれない」ということで、だから孤独を忘れるというのは上の話と繋げると「油断して人が自分に関心を持っていると思ってしまう」ことで、つまり周囲の状況に関係なく見られているという意識を持てる自分は常に「油断大敵火がボーボー」状態だという結論になる。
あれ、なんだか書いてるうちに「敏感なはずが鈍感」みたいな話になっている…
というのも「敏感」と「鈍感」がそれぞれ照準している次元が違うからなのだけど、これはこれで面白い話ではあって(次元の混同はよくするもので、つまり矛盾と思われる話が構成要素の次元を整理すれば矛盾ではなかったということはよくあるのだが、その「勘違いの矛盾」を乗り越えようとする努力の駆動源が(勘違いであれ)矛盾そのものにあるのだ)、今の自分もご多分に漏れずということになるのかもしれないがとりあえず話は戻る。

上で触れようとした「別のアプローチ」の一つに「あんまり見えてない目で街を歩く」がある。
見られている意識はたとえば周辺視野に映る通行人の顔の「目が自分を向いている」という認識につながるのだが、これはその実際を確かめたところで解除されるものではない。
なぜならそれは可能性の認識ではなく「周辺視野に映る顔」がそう見えるからで、そう見えるというのも通常の視力が周辺視野であることである程度ぼやけた結果なのであって、それでは街を歩く時にあんまり見えてなければいいということになる。
僕の場合は右目がこの方法に使えて、じっさい右目だと人の顔を中心視野に据えても視線や表情をちゃんと把握できないのでうってつけではある。
裸眼だと視力は右目の方がよいのに「意味の解像度」が左目より悪いのは経験の差だろうと思う(生まれて25年はずっと左目を頼りに生活してきたので)がそれはよくて、見られている意識が高じると本当に見られているかどうかの確認をせずにはいられなくなるものだけど、ひとつは「この確認をするまでのハードルは見る手間がかからないほど低くなる」こと、もうひとつは「この確認作業は何度かやっているうちに癖になってしまうことでもハードルが下がる」ことがあって、僕が右目で街を歩くというのはそもそも「確認作業ができない」ことになるので(メインに使用する目を右目から左目に変えるというのも手間というか負担がかかる)見られている意識があまり刺激されないようになるのである。

で、二つ目のアプローチが本題というか、思い付いたから本記事を書こうと思ったことで、「日常的にずっと見られていれば慣れるのでは?」と。
他人と一緒に生活していれば同居人から見られるというのは極端に言えば空気を吸うようなもので、そんなことをいちいち意識することはないはずである。
そりゃそうだと思って、しかしその前に「人から見られることを意識しなくなるということは鈍感になることだ」と思っていた僕ははたと考える。
これはなんだか矛盾していて、それは「他人と一緒に生活している人のすべてが鈍感ではない」からで、そうだそもそも「人から見られることを意識すること」は「人から見られていること」ではなくて(うん、当たり前過ぎて鼻血が出そうだ)、視線というのは意識より先にやってくるもので逆に余計な意識がその感知を阻害することの方が多いはずだ、と。
つまりこの件の思考において実際的でなかった自分は「視線の性質」を考えていなくて、まあある意味幸福な生活をしてきたのだなと今の僕は思う(ひとつは幼少期に「親の視線が(自分が求めるまでもなく)常に自分に注がれていたこと」の結果かもしれないこと、もう一つは「粘つくような」とか「身をすくませるような」と形容される視線に対峙せざるを得ない状況に遭遇しなかった、つまりそのような視線への対処という要請がなかったということで、これは「幸福」というよりは「気楽」かなと思うけれど、「視線に強い」(し、同時に「視線が強い」)女性なんてのはこの後者の意味で経験豊富なのだろう)。
だから要請のないところで慣れる必要はなくて、つまり単なる実験以上の話ではないのだけど、「視線の性質」について実際的な思考ができるような「経験」をしておいてもよいのかな、と。
まあ、まだ詳細は書けませんけどね。ははは。
(あ、話のきっかけは森博嗣の『MORI LOG ACADEMY』です。と書いてもまず分からないだろうけど。はははのは)
四季と塩飴。

単調な生活の役得は、自分の内側の変化に敏感になれることである。
この「単調」とは、毎日同じ事をする、ということだ。
内田樹に感化されて形成された幾つかの価値観のうち最たるものがこれで、面倒臭がりには使い勝手のよい生き方だと思うのだけどこれは効率主義の語法であって、自信をもって言えば「もともとこの生き方が合っていた」。
そう断言してしまえば傍証はいくらでも浮かんでくるものだが昔話をしたいわけではない(ついさっき西部邁『サンチョ・キホーテの旅』を読み終えた所で、また文章表現がいつもと変わりそうである。氏の思想にはとても共感するところがあり、偶然にも今日の昼休みに読んだミシマガジンの(平川克美との)対談記事で中島岳志が「若い頃に西部氏の思想に影響を受けた」と言っていて、恐らくこれも同じ部分を指していて久しぶりにシンクロニシティを感じた)。
「単調な生活」という言葉にはふつう「飽きる」と続くものでネガティブな印象が定着していて、「単調で充実した生活」が矛盾めいて聞こえるのがちょっと哀しい現代社会といったところではある。
それはよくて、ネガティブなニュアンスで「単調」と言った時、もちろんその単調さは愛されておらず、個性があるとも思われていない。
その把握が自分の生活に何らかの躍動や覇気をもたらすこともあるだろうし、それはそれでいいと思うけれど、「単調な生活」は身体の各細胞の日々の活動が単調であるのと同じように基礎的であるはずで、自分の生活の基礎を愛せないというのは生物として(と言うのは意識を持つ人間としてはむしろその方が自然であるかもしれないからだが)安定していないように思える。
ただ意識が生物性というか原始性?を超越する志向性を潜在的に持っているとしてもそれさえ叶えばよいわけではなくて、人は人間としてだけでなく生物としても生きてこそ人なのだ。
何が言いたいって「単調な生活」が指す具体的な生活要素は人間的であるよりは生物的であって、そのことを意識がきちんと捉えておくことで意識の基盤となる身体が安定する。
で、その単調さの個性(他の人と違うかどうかは関係なく、まず自分はこうだということ。「ナンバーワンでなくオンリーワン」も同じことなのだけど、この表現が関係筋で評判が良くないのはその個性の把握や記述が全くなおざりにされているからだろう)を書き出すことの意味を、最初は内容だけ書こうと思ったのに前段を準備するうち問い始めてしまったのだけどここでおしまいにして本題をば。

詳細はおいて、僕は塩飴が好きである。
原料は、砂糖と塩。
「伯方の塩」を使った塩飴で、分量の違いでパッケージが赤と青の二種類ある。
食べる時はいつも夕食後、読書中かブログ執筆中に一粒か二粒を食べている。
これを食べるか食べないかの気分を左右するものの話なのだけど、まず最初に気付いたのは3日ほど前に食べた塩飴の塩っけがやけに「身体に染み込む」ようだったこと。
そういえばその日に食べた味噌汁には塩を入れていないのだった。
味噌汁に塩を入れるかどうかは大体がその日の気分(ここ数日の味噌汁の出来が左右していると思われる)で決まるもので、砂糖は大体入れるけど塩は入れない日の方が多く、しかし気温が暖かくなってから塩を入れなかったのは3日前が初めてだったように思う。
つまり暖かくなってから汗をかくようになって、すると体が必要とする塩分が増えるわけで、塩飴が美味しく感じられたのはそれだけ体が塩を欲していたからだ、と。
そう考えると、今までなめてきた塩飴が「やけに甘ったるい」とか逆に「体が喜ぶ甘さを感じる」こともあったのかもしれない。
そして塩飴を特に食べたいと思わない夜は塩分も糖分も既に足りているのかもしれない。
毎日同じだけ食べることは惰性にもなりうるはずで、それはきっと食べていることを脳が主に意識している状態で(もちろんそれで「毎日美味しい」と感じることもあるだろう)、そうではなく「体の必要に応じて食べる」ことができていればまた違う感じ方ができるのだと思う。
「単調な生活」のその単調さを愛することのひとつは、後者のような「違う感じ方」を日々実践する(できている)ことなのかなと思う。
これを「実践する」などという表現が既に気負っていて、まあ過渡期だろうという解釈もできるけれど、惰性に堕ちない意識の維持を考えているのかもしれない。
この「考える」主体はもしかして僕ではなく、言葉なんじゃないかと思う。

ええと四季の話が…とりあえず通常の意味です。
博士のことではありません。
あ、「β」読みたいな。
思考の宛て先の自覚について。

過去を振り返っていて、いつの間にか離れられなくなり、今が色褪せて見えてしまうことがある。
その時、頭の中の自分は過去にいるが、その自分の中身は今のものである。
そこにすれ違いがあり、価値基準が過去に置かれてしまうために、現在の自分(の中身)がつまらないものに思えてくるのだ。
「思考の宛て先」と勢いで書いてみたが、これは「誰に向けて思考がなされているか」と言い直すと分かりにくい。
そこで、手紙はふつう出せば返ってくるように、何らかのフィードバックがあると期待される思考には宛て先がある、という考え方をしてみたい。
つまり言いたいことは、過去に埋没してしまうような想起や思考は「宛て先がない」のだ。
とはいえ「思い出に耽る」ことに実利的なアウトプットなど期待しないのであってこれは当たり前の話ではある。
どうも一般性の低い、自分への戒めで終わる話になりそうだが、思考に過剰な価値を与えてしまうと「実りのない思考」(上記の「思い出に耽る」など)に足を取られてしまうよ、という教訓でした。

「脳と身体のバランスを整える」といったって、一人の人間は脳偏重にも身体偏重にもなるだろうし、それを自覚といっても自覚する行為そのものは意識の産物(つまり脳偏重の行為)だから、自覚だけではバランスを整えるだけでは不可能で、やはり『フェーズの切り替え」の技術を学ばないといけないなと思う。
やっぱり合気道やってみたいなということで、その辺の所を「おもいえばいたる」にまた詳しく書き出してみよう。
相変わらず腰は重くて、しかしその「腰の重さ」の効能を納得しておかないといけないのかもしれない。
あるいはその効能が勘違いだったと気付く可能性もあるのだからして。
変化の重層性について。

(「じゅうそう」と打って琴絵里氏が最初に「縦走」を提示してきたことを記念して、「生徒だけど網走縦走in師走」をツイッターのアカウント名にしようと思い付く。12月限定で、あとその時に覚えてたらね)

風邪らしきものが2週間以上前から治らない。
初期症状のいくつか(鼻水、喉の痛み)はもう鳴りを潜めたが、発熱と「振動が頭に伝わると頭痛」が完治しない。
発熱は起床時に強く自覚され、「(罪悪感の磨耗度から)会社休んでもいいかも…」と思えるレベルなのだが、起きて顔を洗って朝刊を取りに行く時にはふつうに動けるくらいにはなっている。
けれど夕方頃に押し寄せる疲労が風邪を引く前より重く、残業する意志がいつも以上に挫けて仕事が溜まっているにも関わらず(まあ期限切られてないので)就労カードに残業申請しない程度にしか残っていない(遠回しだな)。
そして夕食後に疲労主因の睡魔に襲われて15分ほどうたた寝することになっている。
単に残業したくない意志が身体を制御するほど発揮されているだけかもしれないし、昼寝と夕寝が欠かせない時期も前にあったのでそんな異常でもないような気もする。

ただ発熱について一つ書いておきたかったのは、体が熱を発するのは身体的な変化の途中であるという徴候ではないかということ。
前に花粉症の時期に風邪を引いて発熱した時に「身体が花粉の抗体を作っている…!」とお気楽な妄想をしていたが、あれよりは可能性が高いのではないか。
この変化は「何らかの環境の変化に対する適応」であるはずで、一番順当なのは昼夜の温度差が激しく気候が安定しないこの季節に対する適応(というかむしろ「適応し切れていなくてガタがきてる」が実情)なのだがそれ以外の可能性も捨て切れない。
その「それ以外」とは、前に「実験中なので詳しくは語れない」と書いた件なのだが、あの時から流れが変わっていなくてそろそろ対処した方がよいとも思われるのだが、その「流れ」(それはもろに身体的な徴候である)を思想(=自分の「いきざま」)に絡めるという複雑なこともしているので、いましばし保留。
その実験…というか経過観察が始まったのは去年の10月からだ、ということだけ記しておく。
(と書いて、これを別の出来事と混同している可能性もあって、どんどん実験内容が曖昧になっていくのだけどたぶん「人が人を見ているのだから仕方な」くて、それをそう思えることは良いことだと僕も思っているので特に問題はない)

つまり一行目は「変化の辿り方が変化する」ということで、収拾がつかん、と。
生まれたから生きる。

ウィスキーの肴に胡桃を食べている。
ミックスナッツではなく胡桃単体で買うと重量単価が一寸高く、普段のスーパーでの買い物で手に取ることはまずなくて、元は宅飲み用に買って余ったものだ。
だから食べる時も一日に数粒でひとかけ口に含むごとに味わって噛み砕くし、そもそも毎日食べるわけでもない。
(少なくとも焼いた小魚と胡桃を甘く絡めた「くるみ小女子」が夕食のおかずに並ぶ時は食べない)
そんな食べ方をしているといつまでも袋の中の胡桃は減らなくて、賞味期限は知らないが何にせよ開封後の食品を長期間置いていると気にはなるものである(このことが無意識を刺激する頻度を「主夫度」の一指標としてもよいだろう)。

という前段があって、さっき擬ショットグラスにウィスキーを注いでこたつに向かってさあ飲もうという時に胡桃の袋が目の隅に映って「あ、食べよう」と思って、「はて、これは…」と瞬間何かを考え、「ああ、生まれたから生きるようなものか」と思った。
本当は「期限が切れる前に食べよう」のはずなのだが、まずこの言い方は(当たり前に思われてはいるが)変で、しかしこれが変である理由を詰めるのではなく「変であるにも関わらず言わせてしまうもの(こと)」について思いを馳せたのち、いくつもの段を一度にすっ飛ばして出てきた言葉であるように思われる。
「生まれたから生きる」なんて言って、場合によっては何か達観やら諦観みたいなものを帯びて相手をたじろがせる響きがあるが、理由になってない理由というか単なる同語反復で意味をなさない言葉でもある。
これを同語反復と呼ぶのは論理の形式に純粋に従っている場合で、即ち「一つの言葉は一つの意味と対応する」という言葉のルール。
多義語があるじゃないかともちろん思われるだろうが、今はそれを別に考えようとしていて、つまりこのルールが意味しているのは「多数の人々の間で合意形成された(各々の言葉に対応する)意味を守りましょう、そうでないと意思疎通ができないから」ということ。
逆に「達観や諦観を思わせる」という時、そう思わされた人は「生まれたから生きる」の”生まれた”と”生きる”に(恐らく後者により多めに)過剰に意味を織り込んでいる。
その発言者の人となりも「複雑怪奇な織り物」の縦糸となるだろうが、その縦糸に厚みを持たせ、最終的に編み上げる横糸となるのは「そう思わされた人」の想像の中身である。
縦糸と横糸のどちらが重要といえばやはり横糸で、縦糸だけだといくら量があって束に厚みがあろうともまとまりがなく、かさばるだけで意味をなさない。
しかしスカスカの縦糸をしっかりした、言ってみれば極太の横糸でぎゅーっと結べばどうなるかといえば、もはやそれは編み物ではなく、火を点ければ良く燃えるね、というくらいのものに成り下がってしまう。

しかし子供はそれが何であっても、燃えれば喜ぶのだ。
畦道を歩く。

社員寮の前に広い田んぼがある。
田んぼに沿って通りに出て、左に曲がって少し歩けば会社がある。
通勤の半分は田んぼのそばを歩いていることになる。

見るのは、道沿いの雑草か、田んぼか、近くの木々か、遠くの大山、そして空。
それらをぼんやり眺めながら、あるいは一心に見つめながら歩く。
いつも時間がぎりぎりなので足を止めたことはない。
散歩の時も足を止めない癖はこの通勤のせいにあるかもしれない。

道沿いの雑草を眺める時、「鳥の目」になっている。
雑草は種類豊かで秩序がなく、森のようでもある。
つまり飛行機に乗って一帯の森を眺め下ろしているイメージだ。
あるいは森を猛スピードで駆け抜ける未開の人となる。

田んぼは今は水を張る前の時期だが、耕地と休耕地が混在している。
休耕地は丈のある雑草が好き放題に伸び、見ていて気持ちが良い。
風が強い日は長い葉がなびき、その連鎖から風の軌跡が浮き上がってくる。
並んだ電球が順番に光るのと一緒で、それを軌跡と思う元の要素はデジタルだ。


通勤で歩いていて、毎日同じことをしている、という意識がない。
そう思ったこともあるはずだが、記憶にはない。
ある日歩いていてそう思って、過去に同じ経験をした記憶が甦るのかもしれない。
その再生の積み重ねの密度が、その意識を決めるのではないかと思う。

経験の量自体は変わらない。
何げない、取るに足りない経験こそ、その一つひとつをどう意識したかが問題になる。
それは蓄積されるもののようで、その蓄積もその都度フィードバックされる。
そうかと思えば、意識しない時には蓄積がいくらあっても浮かんでくることはない。

だからプレッシャーを感じる必要はない。
ここでいうプレッシャーは捏造で、つまり自分で勝手に作り出したもの。
要求元は社会なのだが、捏造というのは、社会の価値観を採用した自分の意識を隠蔽しているから。
それは惰性にも見え、勤勉にも見え、あるいはやさしさがある。

意識とは対象と主体を明確に分けることができない。
意識対象に、意識する主体が知らず知らずのうちに組み込まれてしまう。
これをよく量子力学の客観観測不可能性と並置する。
これは意識が量子力学的であることを示している。

言い方を変えると、意識は実感(体感)できないものなのだろうか?
脳を(身体が?)身体のように感じることはできない。
そのことが無限の可能性を秘めている。
可能性である限り、それは無限となる。
引き続き、影の話。

影は平面にできる。
歩道に電柱が一本立っていて、空が晴れていれば、アスファルトに電柱の影が映る。
アスファルトの床面は平面で、その凹凸を無視すれば電柱の影は二次元である。
抽象化すれば、影は「本体の次元を一つ落とした姿」として現れる。
この次元を一つ下げると、平面内の物質の影は線分として現れることになる。
既に机上の話になっているが、紙の上に絵を描けばよくて、それが(二次元の紙上から三次元を立ち上げるという)写実でなく「そのまんま」と捉えればよいのだけど、紙上の一点に光源を書き込んだ時に光は放射状に拡散していく。障害物がなければ紙の上では光源の点(の絵)以外は光で満たされていることになる。そこに、光源から離れた場所に物質(線分でも矩形でもよい)を書き加える。すると光源と物質の位置関係を考えて光源の両端と物質の両端をそれぞれ線分で結んだ時にその線分を物質後方に延長して半直線(なんて言葉普段使わないなそういえば)にすれば、物質の背中と半直線(と紙面の端)で囲われた領域には光が行き渡らなくなる(暗くなる)。この状況で影はどこにできているかといえば、暗くなった領域ではなく、紙面の端と二本の半直線の交点を結んだ線分にできる(たぶん)。
そしてアスファルトの凹凸は紙面の端の「よれ」に対応する。

といった「次元を落として(上げて)考える」という思考実験は、わりと楽しい。

上は次元を一つ落として考えたので、今度は逆に次元を一つ上げて考えてみる。
つまり四次元空間における物体の影は三次元ということだけど、x,y,zの三軸に加えるのはt軸(時間)なので、僕らの生活空間がある時刻で止まった状態が実生活における「影」である。それが存在するのかと言われるとするようなしないような、まあ頭では考えられるか、でも上で書いた「線分(一次元)の影」よりは実感に近いかな、といったところだろうか。いや、言葉で表そうとするもの(シニフィエ)が「三次元の影」と言えそうだ。例えば歴史は人間の生活の流れ(蓄積)の影だと。ほんと?
「思った通り」の先?

ある理想を描く。
思った通りになればいいな、と思う。
それが叶う。
頭に浮かべたことがそのまま現前している。
この眼でそれを見て、満足する。

これは何だろうか?
「思った通りになる」とはどういうことだろうか?
考えた内容が、眼で見て、手で触れて確認されて完了とする。
これでいいのだろうか?
いや、悪くはないが、これ「だけ」ではないと思った。
つまり「思った通り」の実現の形の、これは一つに過ぎない。

現実的に言えば、「これだけだ」という暗黙の了解が現実を回している。
それで回っていたし、まだ回っている。
けれど、同じようにしていつまで回り続けるかは分からない。
この「回る」は篩い分けでもある。
遠心分離器は必要な物質以外を跳ね飛ばしてしまう。
その「必要」は、ある判断に因っている。
判断ということは、意思が伴っているということだ。
意思が個人のものでないことは、意思が存在しないことを意味しない。
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