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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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悩める者は、悩まねばならない。

言葉にならない思いを言葉にする努力をする。
その努力は言葉を紡ぐと同時に口を噤むことで為す。

遠く、辿り着くべき地点が見えても急いてはならない。

歴史に学ばなければならない。

同じことを繰り返すことが「空虚」なのではない。
それと知らずに繰り返すことを、「空虚」と看做す。
それと知らずに繰り返し、その後に気付き、安堵することを「空虚」と看做す。

それと知りながら繰り返すことは、単なる繰り返しではない。
それは歴史でしかなかった繰り返しを、自分のものにする過程である。
自分のものにした時、「繰り返しの先」を目指す者は、悩まねばならない。

悩める者とは、悩む可き者のことである。

歴史は、過去は、今に開かれている。
それは今を生きる者を、静かに待ち続けている。
その声を聴いた者は、いちど立ち止まらなければならない。
周りを見回す必要はない。
他でもない自分が、呼ばれているのである。

耳を澄ませば。
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 映画の話も出た。石川君はよく浅草あたりをうろついては映画館に入った。そして、映画館の暗闇の中で夢想するのが何より好きだったと言った。先生は映画を見られますかと石川君が言った。いや滅多に見ないと答えると、石川君は、僕のこの間軀の調子が良かった時に子供と『もののけ姫』を見に行きましたと言った。あれは大ヒットしたのに批評家や知識人にはあまり受けが良くないのです。何故だかわかりますかと石川君は言った。彼らは娯楽を期待していたのに、あれが芸術だったからですよ。知識人は芸術が嫌いだから、反発したのですと石川君は言った。
高橋源一郎『日本文学盛衰史』p.127

この「石川君」が誰かといえば、なんと石川啄木のこと。
そして「先生」は森鴎外。
どうやらこの本は明治あたりからの文学者たちの生活が現代の風俗事情を織り交ぜながら描かれているらしい。
(島崎藤村が蒲原有明に「ちょべりば!」と囁けば、横瀬夜雨が「フルメタリックボディの八段変速ギア、坂道はもちろん階段を登るのもへいちゃらの上、最新式の無公害エンジンとカーナビを搭載し、最高時速六十キロというモンスター車椅子」で夜ごと横根村を走り回り「横瀬の家のホーキング」と住民たちに噂される)
そのこころは、と考えていくつか思いつかないことはない。
古典の、現代誤訳というよりは超訳のような位置づけ。
「当時の文学人が今生きていたらこんなことをやりそうだ、言いそうだ」。
タカハシ氏は文芸時評集をいくつも出していて、『文学なんかこわくない』とか『文学じゃないかもしれない症候群』とかタイトルにもう氏のスタンスが前面に出ていて、そのどれかの中で「文学関係者の間で文学が閉じていてはいけない」というようなことを書いていた。
この本もきっとそれと同じ感覚で書かれたもののはずで(というか氏の著作すべてがそうなのかもしれない)、つまり啄木とか鴎外とか、あるいは幸徳秋水や島崎藤村を「国語の授業で習ったなあ」くらいの文学的知識しかなくても十分読めるようになっている。
ということに気付くのに、読み始めてから少し時間がかかった。
なにしろ本書のマジメな部分はとことんマジメで、(固有名詞が何を指すのか)さっぱり分からないからだ。
それが最初は「これは不勉強な自分が読む本なんだろうか」と不安にさせていたのだけれど、途中で「あ、別にいいのね」と気付いたのだった。
読んでいて細かいところが全然わからずとも、「文学と(一般人の)日常とは地続きである」ことはわかる。
そしてそれが、タカハシ氏が読者に分かってほしいことの一番のはずだ。

+*+*+*

という話と繋がるか繋がらないか、本書の読中脳内BGMはちょっと意外なところを選んでいる。
霜丘氏の和風曲。
→ 臨命終時 - simoka/kakoi
日本文学だし和風曲かなと思い、しかし読み始めでちょっと「おどけた(フマジメな?)感じ」を受けたので穏当な和風曲は合わないなと思い、べつにこの曲がおどけているわけでは全然ないのだけどパッと思い付いたから選んだのであって、おそらく本筋に対する何らかの意外性が共通しているかなと後付け解釈。
しかしダブステップをこんな風に使えるのは凄いな。
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(講談社文芸文庫)を読了。

先に書いておくと、脳内BGMはこれまた偶然、読み始める前に出会ってハマっていた、不始末氏の「ちいさい音ダイアル」。
曲の透き通るイメージがそのまま作品と重なり、生々しい場面もはちゃめちゃな描写も、リアリティがないというか「少し遠いところで起こっている」ような淡さが漂っていた。
(遠くで鳴っているラジオもとてもいい味を出している、とは本書を読み終えて聴きなおした時に気付いたのだが)
「リアリティがない」という言い方は小説について語る時にマイナスイメージとして用いられることが多いが、それはたぶん「リアリティが重要な作品」についてだけ当てはまるのであって、タカハシ氏の本作(に限らないけど)においてその点は重要ではない。
たとえば読み手が文章の一つひとつを遺漏なく出来る限り正確に頭の中でイメージ変換していって、そのイメージを時間軸にのせて展開させていったとして、「しっくりくる」とか「うん、僕も主人公のように振る舞うだろうな」とか、読み手にとってその展開が自然と思われる時に「その文章(小説)にはリアリティがある」とみなすとすれば、『ジョン・レノン対火星人』にその要素を期待するのは無謀というものだ。
ともすれば、小説のリアリティは「凡庸な読み手と同じだけの凡庸さ」を意味する。

では本作は描写の逐一がメタファーや本歌取りで構成されていて、執筆当時の日本社会の価値観やシンボリックな事件などの時代背景を網羅的に把握し、かつ今昔の文学作品に通暁していれば「解読」できるのかといえば、たぶん「知っていればそれだけ面白く読める」程度には重要であるのだろう。
…と書いたが、それは内田樹氏の解説があってこそ言えることで、この解説がなければ僕は本作について「ナンセンス」以外に継げる言葉が見つからなかった。
この解説を読んで初めて、タカハシ氏の小説の(もちろん「ひとつの」ということだが)読み方がわかったような気がした。
(ウチダ氏の解説によれば60年代(後半?)の学生運動の経験が重要であるらしい。ウチダ氏が執拗に「ためらい」にこだわる理由がこの経験にあることは氏のブログや著書で繰り返し読んできたが、氏によればタカハシ氏も、違うアプローチであれ、等しく「暴力的なもの」の犠牲になった「もの」(これは直接的には同士ともいえる人々(学生)だと思うのだけど、たぶんエートスとかもっと抽象的なもの)を弔っている、とのこと。正しく供養しなければ先祖に限らず思想だって化けて出る、と言ってウチダ氏がフェミニストを批判しているのを思い出した、唐突だけど)
これは書評家が発すれば「廃業宣言」のようなものだが、理解が進むように要約できたりエッセンスを取り出せる小説なんてものは、小説である必要がない。
それは「読み方がわかった」と書いた時にその読み方を簡単に言葉にできるわけではないのも同じことで、だから僕が文章にしたいと思うなら結局「何を感じたか」という私的な感想になってしまう。

ということで感想なのだけど、そして「本作の」ではなく「ウチダ氏やタカハシ氏の文章を読んできての」というひろーい話にいきなりなってしまうのだけど、僕にとっての「なりたい大人像」が彼らの文章を通じて形になってきたことが今さらながら嬉しい。
というのも、僕自身「憧れの人」とか「理想の人」が昔から全く想像できなくて、歴史的偉人や身の回りにいる「大人」(小さい頃はそうで、長じてから(ゆーてお前何歳やねん、というツッコミもありえましょうが)は「年配方」)など「年齢的に将来の自分に当てはまる人々」を数多く、「そういう目で」見てきても見出せないでいて、それがなんだか良くないことのように思っていたのだ。
(なりたくなくて大人になるよりはなりたくて大人になった方がいい、という程度のことかもしれない。事後認知的であれ…というか、はなから手遅れである以上そう思うしかないのも事実ではある)
この形になりつつある「なりたい大人像」は個人名で特定できるものでなく「ある気質を備えた人」といった抽象的な像である。そして普遍的であるがこその抽象的で、具体的にはその時代に合わせて別な形となって表れる(はず。先のことだからもちろん知らない)。
そしてウチダ氏の言論を信じれば、そのような性質に憧れる人は現代日本で極めて少なく、僕はまずそのことを以てその「像」に魅力を感じている。

ふふ、曖昧にするとわからなくなってくね…

最後に、ウチダ氏の解説からひとつ引いておく。講談社文芸文庫のこの解説は「いつものウチダ節(でもちょっとだけ真面目バージョン)」ではあるのだけど「文庫の作品解説」という括りで見れば異例であって、それは簡単に言えば「解説してんのに”分からない”って言い過ぎ」という点なのだが、「”分からない”と言うことで何を伝えたいかが分かるという意味でとても分かりやすい」ので特に問題はない。

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 どうしてそういうことになるのか、私にも分からない。よく分からないけれど、「いかなる根拠もなしに、人を傷つけ損なうもの」の対極には、「いかなる根拠もなしに、人を癒し、慰めるもの」が屹立しなければ、私たちの世界は均衡を失するだろうということだけは分かる。
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言われれば当たり前だと思うが、言われなければ気付かない(普段全く意識していない)ことが世の中にはたくさんあって、加えてそれらは一度言われても(大変重要であるにも関わらず)すぐ忘れてしまうもので、「耳タコになるまで同じことを飽きずに言い続ける」ことの大切さはそこにある。
「センチネル」(@内田樹)や「キャッチャー」(@村上春樹)とは、その役目を担ったものの名だ。
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