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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「誰が言ったか」を、まず考えてみる。

前に書いたことと最近書いたことで矛盾していることがある。
「言葉は誰が言おうとその意味が変わるものではない」と前に言い、
「同じことでも言う人によってその影響力ががらりと変わる」と最近言った。
しかしこれは少し考えれば矛盾していないと分かる。

デノテーションとコノテーションと言えばすっきりするが、あまり面白くない。

前者は、意味が変わってしまうことに理不尽さを感じたという話に出てきた。
「あの人が言ったと思ったから信じたのに」という発言。
しかしこれは発言主体が訂正されて、意味が変わったわけではない。
それを信じた人にとって「意味」に意味はなく、ただ効果だけがあった。

後者は、最近読む本でよく出てくる話だ。
保坂和志はカルチャースクールか何かで喋った経験からこんなことを言っている。
話は用意していくよりも、その時に必然を感じた話をした方がよい。
これは少し話が違うが、「同じ話でもそれが場に合うかどうかで影響が変わる」と。

これも(「も」は一つ前の記事との対応)言葉はそれだけでは存在しないという話。
話す人の雰囲気も影響するしその人に関する情報を聴き手が知っている場合もある。
発言内容とそれらがミックスされその内容が聴き手にとって独自の広がりを見せる。
これをひっくり返して考えてみてはどうかと、さっきふと思ったのだった。


深く問われぬまま人口に膾炙している話というのはたくさんある。
常識はその最たるもので、僕はそれが好きではない。
もちろん好悪はその常識の通用する場面と何ら関係はない。
などと言えば歯が歯茎と一緒に浮いてカシャカシャ鳴りそうだ(意味不

もとい、色々考えようと思うと「常識のなりたち」は格好の素材となる。
その矛盾や不合理を並べ立てて抗議しようというのではない。
意味など関係なく、常識へ差し挟む明示的な疑義はすべて非常識となる。
だから同じフィールドに立たなければよいというだけの話。

と言いながら別に常識だけを取り上げようとは思っていない。
要するに意味の通る一連の言葉であればなんでもよい。
ただ、その始まりとして自分に「ん?」と思わせるものが適している。
違和感は全ての始まりなのだ。


本を読んでいて、「これは誰に向けられた言葉か?」と思うことがある…
と言えば話の流れとして良いのだが、実はその経験はあまりない。
自分の読みたい本をハズレを引かずに選べるほどその経験は減って行くのだ。
そして最近は自分に合わない本はさっさと中断する潔さも身に付けた。

と言って対象を本にするから話が進まないわけで、つまり新聞が好対象である。
どうも新聞を読んでいて、自分に向けられた言葉が少ないと感じる。
そんな時、この言葉を喜んで読み進める人のことをたまに想像する。
あまりいい気分はしない。(そりゃそうだ)

それはよくて、「なんでこんなこと言うんだろ」という疑問の方が本題である。
正確には「なんでこんなことを当たり前のように言えるんだろ」で、
それが常識に近いところでもあり紙面上に書かれる違和感が別にあったりして、
そこで自分は「この人は勝手に何かを前提にしている」と思う。

(なかなか辿り着かない。たぶん続く…)
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