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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
「彼女は二人の間では"過燐酸石灰嬢"と呼ばれている」

消費者でいることに居心地の悪さを感じ続けること。
それは疲れるし、社会活動に振り向けるべきエネルギーの浪費になる。
もちろんこれは裏返して見なければならない(表=多数派)。
居心地の悪さを抱え、分析対象にしてこそ、消費社会において「消費者的でない行き方」を模索することができる。

「消費活動で経済を回して社会に貢献する」という。
その貢献する対象というのは、消費社会という社会の一面である。
今の社会を維持するにはそのような貢献もある程度必要であろう。
しかし全ての人間がその種の貢献だけで満足すれば、どうなるか。

この「ある程度」は、アバウトに見積もっても大変大きいものだ。
言い換えると、こんなことを考えるのはごく一部の人間でよいということ。
そして彼らはアウトローにもなり得るし、縁の下の力持ちにもなり得る。
彼らと「ある程度」の人間の必要性の見積もりをどう行うか。

それをしようと思うのは、当然だが彼らの方だ。
彼らが自分の立ち位置に使命感を見出すためには、消費社会の論理に埋没していてはいけない。
しかしその使命には、社会の一面である消費社会の維持も含まれている。
呉越同舟、といったところか。

そう、アウトローが山で暮らしていても、彼らと同じ舟に乗っている。
ここは数で効果を見積もるような似非現実主義的思考をすべきところではない。
「自分一人がなにをやろうがたかが知れている」?
思考の出発点は、その個人主義的発想の集積が現在を作り上げた事実を認めること。

もっと哲学的(現象学的?)なアプローチもあるかもしれない。
個人主義といって、状況によって個人は縮小することも肥大することもある。
その(個人という境界のとりうる範囲の)広がりをイメージなりでとらえる。
あるいは個人主義の境界が厳密に一個人で閉じられた社会が成立するかどうかを考える。

もしかすると、個人主義と言われる消費社会の隆盛はこの境界の曖昧さのお陰かもしれない。
そして経済成長に限界が見える今と、境界の曖昧さの消失がリンクしているかもしれない。
こんな話は例示でイメージを補強できても、実証できるものではない。
人が「実証」を口にする時、その効果の確実性を期待している。

しかし別の話もあって、未来予測とか科学で実証とかいった「確実主義」という"常識"もある。
確実主義とは、「ああすればこうなる」(@養老孟司)のことである。
確実主義が上記の消費社会の隆盛→衰微の流れに勢いをつけているとすればどうなるか。
この実証が流れを止める(変える)ために効果的でないことは間違いないということだ。

話は込み入っていて、話が込み入る理由はいくつかある。
この場合は、長い間いくつも放置してきた野方図な単純さを回収しようとしているからだ。
単純さの「伏線」を、だ。
多角形の面積を求めるために補助線を引く。

しかし補助線を引くべき多角形が「閉じていなかった」場合に、受験生はどうするべきか。

1.テストの問題が間違っており、後で訂正され全員正解になるので今は放置する。
2.放置したまま他の問題を解く気になれないので挙手して試験監督に知らせる。
3.多角形もどきの「穴」を閉じて自分でちゃんとした多角形にしたうえで解く。
4.それ以外

そして僕らは、もはや受験生ではない。
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