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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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視覚のメタファーを離れて…?

毎週同じコースを歩いている。
玉川沿いの道は車道だったり歩道だったりするのだけど、舗装された歩道がコースの一部にあって、そこは僕の歩く時間帯(日が暮れる直前くらい)にほとんど人が通らないので自由に歩ける。
右手は川が流れており、水草が元気よく繁茂していて心地よく緑に染まっている。
左手は田んぼで、近所ではこの時期にちょうど水が入り始めたようで、まだ水は土色に濁り、苗も植えられたばかりのひよっこである(寮の真ん前の田んぼは水が入ったその日の晩からカエルが鳴き始めた。オタマジャクシが流れてきてすぐに孵ったのだろうか)。
舗装された歩道は真っ直ぐで、前後も左右もほとんど傾斜はない。

何の話かといえば、最近また目を瞑って歩く方法(というか感覚)について考えている。
前の週末に寝不足で駅前まで歩いた時、その帰りは目を開けるのがつらいほどの疲労を感じて、安全なところでは「逆まばたき」(まばたきの瞬間だけ目を開けて、あとは目を閉じる)をしながら歩いていた。
「また」と書いたのは前にも一時期凝ったことがあって、その時に比べると目を閉じながらまっすぐ歩けるようになったなと今回感じたのだった。
前に考えていたのは、目を瞑る瞬間の視野を錐体に焼き付けて(つまり残像を残す(ん、これは重複表現?))、目を瞑った時にその残像を「じっさい目を開けて歩いている時と同じように動かす(風景を左右から後ろに流していく)」という無茶な話で、言った通りにできたとは思えないけれど、これは目を瞑ると言いながら視覚的イメージへの依存という点ではふつうに目を開けている状態とほとんど変わらない。
あれから(というわけでもないが)色々情報を得て(ツイッターで平尾剛が紹介してたDaniel Kishのextraordinary senseとか、人間が処理する入力情報の9割以上が視覚だとか、それゆえ視覚に関係しない現象や事柄の表現にも視覚のメタファーを無意識に使っているとか、あとは『目から脳に抜ける話』で養老孟司の展開していた「人間が左右の耳で音の発生源までの距離と方向を定位する精密なメカニズム」の話とか)、目を瞑るのだから視覚に頼らない歩き方があるのではと考えるようになった。

で、それは上で少し触れたように耳を使おうということで視野ならぬ「聴野」の構成について掘り下げてみようと思うのだけど、この言葉遣いが既に視覚のメタファーを使っているのだろうか…
まあそれが悪いってんじゃないし、そうあらざるを得ないという話らしいので、それと意識しながら展開していくとしよう。
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