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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 私の「教養がない」はほんとであり、私は日常的に、「教養がない」ことで困っている。それはたとえば、「料理をしよう」と思って冷蔵庫のドアを開けたら空っぽで困っている──というのと同じである。私の教養冷蔵庫はすぐ空になるので、私は困っていることが多いのである。
(…)「教養」に関する私の困り方は、「ない」か、「扱ったことがないから、当然ウチにはない」のどちらかで、困り方としては、後者の方が多い。私はそういう困り方をしていて、しかし、別に「自分の料理の腕」では悩まない。扱ったことのない食材でも、自分の目で見て、手に取り、触って、匂いを嗅ぎ、ちょっとかじってみたり、扱ったことのある人の話を聞いたりして、試行錯誤をしてみれば、なんとなく扱えるようになるもんだと思っている。なんでそんなに自信があるのかと言えば、「料理をする」ということが、そもそもそういう試行錯誤を含んでいるからである

『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.105(蚊柱のように)
この料理の喩え(「教養」=「食材」)がステキだと思うのは、自分で料理をする人間にとっては教養がとっても身近になるからである。
教養と聞けば油断すりゃ権威のようなものを感じてしまうが、いつもまな板でトストス切ってるニンジンやナスに権威なんてこれっぽっちもないのである。
カボチャなら豪州産と鹿児島産で値段に差があって、市場で格付けされた農家による食材は原価や間接費の想定を超えた値段がついていたりするけれど、もちろん僕らはスーパーに同列に並んだそれらを選べるし、自分の好きなように調理ができるし、その食材を用いた料理が美味しいかどうかは食材の格なんかよりも自分の料理のウデやその時の気分や体調といった自分自身にかかっている。
教養という言葉は現代の生活のなかではもはや死語となっていて、しかしそれは現代における教養という言葉の使われ方がそうさせているからで、自分の中に(あるいは自分の価値観の構成において)教養がないという状態はある意味で「料理に使う食材がないので外食しか選択肢がない食事情」と同じ寂しさをもっていることになる。
そして僕はハシモト氏の言う教養ならモノにできると思い、それに付随する自信はハシモト氏が「料理ってそういうもんだから」と言ってる内容が既に自分の生活の一部になっていて、要は京人参やちんげん菜をサラダに使ってみたりアスパラを炒めて味噌汁の具にしてみたり、あるいは生姜を味噌汁に大量に投入して「ぐえー」とか言ってればいいのだ。

実際を知っている人にとって、その実際を軸にした論理ほど身に染みるものはない。
当たり前だが、「ことばの力」とは、言葉だけのものではないのだ。
「教養」というものを「調理された料理」と思っていて、大学というところを「料理を食べるところ」くらいにしか思っていない人が、いくらでもいる。そういう人達が「教養という考え方自体が強迫観念だ」と思うのだとしたら、それは、よほどまずい料理ばかりを食わされた結果だろう。「料理というものは自分で作るものだ」と考える人にとって、こんな不思議な拒絶はない。「出す料理、出す料理が全部まずいレストラン」へばかり行って、「この料理はこうしたもの」と思い込んで、「この手の料理はもう食べない」と決めてしまうのは、料理や食材に対する冒瀆のようなものではないかと思うのだが、もしかしたら、「教養離れ」というのはそういうものかもしれない。だとしたら、「教養志向」というのも、かなり怪しいが。
同上 p.106
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