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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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以下も抜粋はすべて『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』より。
 私は、教養というものを標準語と同じような意味合いをもったものだと理解している。自分の生活圏だけを基盤にして成り立っている方言は、生活圏の違う人間との意思疎通を不可能あるいは困難にする。だから、狭い生活圏を超えた、広い領域でのコミュニケーションを成り立たせるための共通語──標準語を必要とする。そして標準語は、個々の生活圏に特有の諸々を捨象──つまり切り捨ててしまうから、方言から標準語に入った者は、そこから再び自分の独自性を表すための方言を作り出す方向へ進まなければならない。方言と標準語は両極になって、人はその間をぐるぐると螺旋状に回り続けるのだと思う。
(…)
 教養を捨てることは、自分の現在だけを成り立たせる興味本位の「雑」だけでよしとして、人としての思考のフォーマットを捨てることになる。そして、「雑」を吸収しえない教養だけでよしとしてしまったら、そこでは個なる人間の「生きることに関する実感」が捨てられてしまう。方言と標準語がそうであるのと同じように、「雑」と教養もまた、互いに還流してぐるぐると回るものだと思う。(…)教養というシステムを回復させない限り、情報という中途半端な知識に振り回される人間達は、孤立したままで終わるだろう──そういう逆転現象は、既に起こってしまっているのだと思う。

p.92-93(標準語としての教養)

私は、実のところ「私自身の方言」しか喋れないが、自分の外にある「標準語」も、かなりの程度で喋れると思う。それは、私が「標準語をマスターしよう」と思ったからではなくて、自分の外にある、「標準語」という言語を眺めながら、「あれが共有性を持つことによって”標準語”と言われるものであるのなら、その言語の中にあって共有性を成り立たせるものはなんだ?」と考えて、「自分自身の方言」を徹底的に分析した結果である。だから私は、「雑を突き抜ければ一般教養に届く」と思っている。そして、自分に可能な方法はそれしかないと思っている。
(…)
教養」を「教養」たらしめる構造を理解すれば、「雑」として放置されているものも「教養」になる──大学の専門課程で、「何を書いても結構ですが、私達に分かるように書いて下さい」と教授に言われた時、私はその原則を理解した。それで正しいと思っているし、日本に足りないのは、その考え方だと思っている。

p.96-97(「キィワード」というキィワード)

「橋本治の本にはすべてが書いてある」と思って、そのすべてとは「終わりという始まり」とか「ゴールというスタート」と呼べるようなものなのだけど、ハシモト氏の文章に補足することなんて何もない(あるなんて口が裂けても言えない)が読めば無性になにかを書かなければならないという思いに駆られることになっており、そのなにかとは紛れもなく「自分のこと」なのであって、それは氏の本を読むことで今まで持っていなかった思考のツールが手に入ることに因っている。
読んで自分の何かが変わるのではなく、「自分の何かを変えられそうだという手応え」が得られる。
読んだ時にうっとりしたりわくわくしたりしてしまうのは、自分が「自分のことに関して」ハシモト氏のような思考を展開できたならば一体どんなことが出てくるのだろうという具体性抜きの予感の大きさだけでそうさせてしまうからであり、そしてそこから難儀なのは、当たり前だが「ハシモト氏のような思考」がすぐに使いこなせるわけがなくて先に感じた「うっとりやわくわく」に中身を与えることができなくてうずうずしてしまうことだ。
そのうずうずは不安定でもあって、ちょうど今みたいなミニバブルが割れるか割れないかみたいな社会状況と似ていなくもないがやっぱり全然関係はなくて、それは先は見えないが「プロセスの充実」の予感が霧中の一歩を踏み出させるという「知の目覚め」なのだと思う。
だから最初に言ったのは「あるフェーズが終わり」「別のフェーズが始まる」ということで、その相変化はすべて知の主体の内側で起こる。
「世界を変えるより自分を変えるのが手っ取り早い」とはこのことで、目標が必要なのも「達成して一皮むける」ためであり、人の皮とは結局のところタケノコの皮のようなもので剥かないまま放っておけば面は厚くなって外敵にも耐えられるが、内側の熟成は見えないしともすれば自分でそのことを忘れてしまうのだ(つまり人に「美味しい」と食べられて、おしまい)。

それはよくて。
恐らくハシモト氏の思考はある伝統を引き継いだ作法なのだと思う。
「作法を知らない型は間が抜けてしまう」という話を前にどこかで読んで、その文章で自分の下駄の歩き方が改善された経験もあって「その通りだ」と思って、このことは昔の日本文化に限らずあらゆることに言えるはずだとは思ったがしかし、自分の今の生活を構成する要素(その一番は「本を読む」こと)の作法なんてどこを参照すればよいのかとその時は少し途方に暮れた(「読書論」みたいな本は斎藤孝やら加藤周一やら何冊も読んでいて、それで自分の読み方に自信を持てたかといえばもちろんそんなことはなかった(から今こんなことを書いているのだが))。
読み方に自信を持てないことは「まあそんなもんだろう」と前から思ってはいるが、それはおいて「読書における作法」というのは読書の方法とか読書論とはなにか違うようで、しかしハシモト氏の思考についていくうちに「橋本治は"作法そのもの"なのではないか」と思えてきて(だってもう『橋本治という行き方』というタイトルがまさにそうだ)、すると「〜の作法」なんて限定せずにハシモト氏の思考を自分のものにできれば(←しかし大胆不敵もいいところだ)あらゆる作法が身につく…というのはどう考えてもウソで、しかし「作法とはなにか」が体得できることは確かなはずで、それは「あらゆる作法を身につけるためのスタート地点には立てる」ということなのだ。

結局のところ、日本に必要なのはゴールではなくスタートなのだろう。
(もちろん「ぜんぶリセットすりゃスタートに立てる」という発想は大間違い)
 もしかしたら私は、自分のすることすべてを、「古典芸能」のように扱っているのかもしれない。「自分としてはどうやるのか?」という問いは、「自分のやろうとしているものは、本来的にはどういうものなのか?」という問いとシンクロしていて、「自分のやろうとしているものの本来性」は、常に上位に来る。自分のやらんとすることの「本来形」が見えなかったら、「やろう」とも「やれる」とも思わない。私は、「自分」よりも「自分のやるべき対象」を信じているのである。
自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重していた方が、ずっと確実である。だから私は、「自分」よりも「自分の外にある本来」を信用する

p.27-28(「自分」を消す)

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