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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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2013/02/11 11:48

『海辺のカフカ(下)』の付箋箇所を読み返している。
その途中から、メタファーについて考えている。

まず単純化していえば、「メタファーのメタファー」は「現実」になりうるのではないだろうか?

メタファーは比喩であり、抽象化でもあり具体化でもあり、現実をそれとは違うものとして表すことができる。
現実を具体的なものと考えた時にメタファーは抽象的になるだろうし、文脈や流れといったものがうまくつかみきれない現実のなかでのメタファーは具体化のはたらきを見せる。

現実と比喩の関係はおそらく「入れ子構造」として捉える見方が一般的かと思われる(と言った時のメタファーは抽象化を指すと考えられる)。
メタファーは現実の一部をくるみ、さらなるメタファーはより外側でそれらを薄く包み込む。
最初に見ていた現実はどんどん漠然としてくるが、その大きな意味や流れのようなもののイメージが姿を表してくる。
もちろんその姿は可能性の一つに過ぎない。

一方で、比喩を「現実のベクトル成分」と捉えることもできる(この時のメタファーは抽象化でも具体化でもよいように思われる)。
固定化した現実に、ある意味で「意味の失われた」現実に、方向と動きを与えるためのメタファー。
現実も本来スカラーとベクトルの両成分を持っているが、散文的な把握はスカラーを強調してしまう。
このような比喩の捉え方をしたときの「メタファーのメタファー」は、入れ子構造とは違った構造をとる。
ある地点に位置する現実が、比喩を通して別の位置に移動する。
その前後の位置を結ぶベクトルは、「現実が進んだ方向」を示す。
そして次に別の比喩を通した時に、例えばそれが最初の移動と全く逆向き(でスカラー量も等しい)であれば、二度の比喩を通じた現実が最初の地点に戻ってくることになる。
もちろん「比喩の比喩は現実となる」という理想状態を強調したいのではなく、「比喩を重ねることで(最初は離れるいっぽうだったかもしれないが)現実に近づいていく」ことがあるのだ、と言いたい。

小説とは、その存在自体がメタフォリカルなものだ。
小説の中で用いられるメタファーに、読み手は神経を研ぎ澄ませなければならない。
書物の中のものが、書物を越えて出てくる瞬間が、小説にはある。
それはたとえば、
「この世の中のすべてのものはメタファーなんだよ」と大島さんがカフカ少年に諭す時、「この世の中のすべてのもの」には佐伯さんや甲村図書館やさくらの夢だけでなく『海辺のカフカ(下)』もMacBookProもブラックコーヒーも含まれており、僕はカフカ少年と並んで、大島さんの端正な顔立ちに魅入って頷いているということ。
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