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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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『草の上の朝食』(保坂和志)を非常に楽しく読んだ。
読み終えて、付箋箇所を読み返して、書きたくなったことを以下に。

「四人が起きているあいだは部屋が四人で足りてるって思ってるんだけど、寝ちゃったらどうなのかってーー。
(…)ーー部屋とかいつも歩いてる風景とか、そういうのってどれくらいこっちが支配してるのかっていうか、こっちの感覚が届いているのかっていうか、(…)
 いつもいる場所に対して人がどういう関係のつけ方をしているのかっていうのを、映像と音で撮れるかどうかわからないけどーー、やっぱり撮りたいと思ってるから、とにかくまずすべてのシチュエーションを撮ることにしてみようーーって。
 ーー誰だったか忘れちゃったけど、写真の初期の頃に、街の様子を写真に撮ってみたら自分がそのとき写そうとしたものより、そのときには気がついてなかったものの方におもしろいと思うのが写っていたーーっていうのがあったけど、その感じって今でも変わってないと思うし、ーー」

p.139-140

自分が部屋を眺めるのではなく、「部屋が自分を見ている」という感覚。「見る」よりは「認識する」だろうか。
(アフォーダンスと通じるものがありそうだ)
部屋が人に与える影響というのが直接的なものではなく、部屋自体が部屋にいる人との関係性を成り立たせていて、その関係性が人に影響を与える…?
ある一つの部屋に1人でいる時と大勢でいる時に居心地が違うのは、部屋そのものは変わっていないが部屋と部屋にいる人との関係性が変わっているからだ、、
それを「自分以外の部屋にいる人」を部屋の構成としてカウントする認識とどう違うのか、と言われれば、人はやっぱり部屋ではなくて人なのだ、と?
なにが言いたいのか。

おそらくこの辺の話は『カンバセイション・ピース』で保坂氏が書こうとしていたことのはずで、それとの関連で思い出したのか一つだけ加えておくと、「大勢の人がやってきて、帰った後の部屋の雰囲気」というのがヒントになるのかな、と。
がらんとしたその時の部屋の空気は、大人数で騒いでる間に「大勢との関係のつけ方を成り立たせた」部屋がまだその関係性を残留させているからで、その関係性は自分一人とではつり合わない。
こういう認識で「部屋(ひいては家)の存在感」が増すことになるだろう、と言えば散文的になるが。
…小説の力を感じざるを得ないテーマだな。
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