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海馬判断

2013/02/04 23:03
タツノオトシゴの尻尾みたいにクルクルと巻いたように見える部位。記憶を一時的に蓄えて、その中で必要なもの、いらないものをあとからじっくり選ぶのが海馬の役割です。その海馬で選ばれた記憶が、大脳皮質に蓄えられる仕組みになってます。
(…)
脳は、物事を組み合わせれば組み合わせるほど、覚えやすくなります。意味のある言葉でも、ただの文字の羅列としか脳に入ってこなかったら、記憶できない。その文字の背景にある意味、映像、イメージ、音、そういったものが連合されて、はじめて記憶できるようになっているんです。それ、当たり前なんですよね。意味のないものを覚えるのは、脳にとってエネルギーの無駄な消費ですから。そういう余分なことをしないよう、脳は非常に合理的にできているんです。

池谷裕二、樋口清美、糸井重里「記憶のお話」(糸井重里『経験を盗め』p.53,55-56)

これを読んで、物事が記憶に値するかどうかの判断を海馬に任せてはどうだろうと思い付いた。

「これは重要だから覚えておこう」と思って頑張っても記憶できなければ、それは重要ではなかった。
ちょっとしたことから連想がふわふわ働いて、それが日常のある場面で何度か思い出される時、その連想はじつは重要であった。

「記憶のお話」では記憶力を良くする技術のようなものが紹介されていたが、これに熟達するということは、「内容に関わらず記憶すること自体を重要視することになる」と言えると思う。
見方によっては、本来の自分の必要性に従った「海馬判断」を鈍らせることになるんではないだろうか。
もちろん記憶術を会得することは自分自身が変化することなので「本来の」と書いたのは「変化する前の」と言い直すべきだろう。
それでも、そういう変化を望まないこともできる。
この「海馬判断」を「無意識に聞き耳を立てる」こととみなしてみたのだが、どうだろうか…。
つまり、自分が頭で望んでいることよりも、思った通りに記憶力が働かなかった経験が示す(それは直接的ではないと思う)願望の方が「ほんとう」に近いのでは、という。
「脳の身体性に従う」という表現をすれば刺激的だけど、これは語弊があるかしら。。
脳も身体の一部であるから、意識的でない脳の作用を身体的と呼べないか…単に無意識でいいか。
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