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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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工藤さんのいう、「善良な人」について。
これも『草の上の朝食』からの抜粋。
「だからねえ、そういう善良な人っていうのは、自分が機嫌悪いときは機嫌悪い顔してて、うれしいときははしゃいじゃうの。
 感情がすごく素直に出ちゃう人っているでしょ? それで自分ばっかりはしゃいじゃうんだけど、まわりはしらけるの」
「それは単純って言うんじゃないか?」
「単純、ーー? あたしは違うと思う」
「じゃあ、素朴って言うのは?」
「素朴、ーー? それならちょっといいけど、やっぱりあたしは善人がいい」
「ーー、で『善良な人は困る』」
「ええ、ーー。もっとはっきり言うと、嫌いなの」

p.129-130

これは「ぼく」が、会社から抜け出してよく行く喫茶店のウェイターをしていた工藤さんを夕食に誘って、初めて二人で会話する場面。
ここでの「善良」という表現にぼくは強く共感したのだけれど、同じような人のことをぼくは「やさしい人」と呼んでいるのだった。
工藤さんは最後で「嫌い」とまで言っているが、これは一般的な印象として解釈すべきでない表現で、つまり文字通り私的な感覚に基づいた発言で言い換えれば「自分とは合わない(相性が悪い)」と言っている。
ここには「自分は『善良な人』ではないし、なれない」という自覚(あるいは多少の負い目)がある。
(と書いて、この「負い目」の認識が工藤さんのような性質の人間の多くにあったとして、それがじっさいに頭の中で影響力を持つのは男だけだろうなと、男である最近のぼくは思う)

「善良な人」あるいは「やさしい人」というのは、それが自分にとっても相手にとってもいいことだと思ってそのように振る舞う。そう振る舞うのが自然で、自然なのがいいことだと思っている。だからこそ「ぼく」は単純とか素朴という言い換えをしたのだろうけど、この会話が示す通り「ぼく」も工藤さんも「善良な人」ではない。少し後で工藤さんが「ぼく」のアパートにやってきてアキラや島田など部屋の面々を見た時に、「ぼく」は(それにきっと工藤さんも)彼らを「善良な人」だと認識するような場面があるが、工藤さんはだんだん彼らに溶け込み、後には自分から「ぼく」の部屋にやってくるようになる。

「善良な人」が嫌いと言いながら彼らと親密にもなれる意味はいくつかあって、ひとつは上で言い換えた「相性の悪さ」というのが、個々に相対した時のことを言っているのではないか。「善良」という性質は、場の性質としては良きものだが個人の性質としては(「善良な人」でない人間にとっては)好ましからぬものだと工藤さんは思っているのではないか。そして「善良な場」に居心地の良さを認めた工藤さんは(主にはよう子の影響によって)変わり始め、「ぼく」はそれに少し寂しさを感じながら仕方ないと思う。(この「仕方ない」という感覚がぼくは好きで、村上春樹の小説の「やれやれ」と通じるものがある。「やれやれ」が説明的でない分「仕方ない」が分析的に見えてしまうが、その分析に登場人物がそれほどこだわっていないところ(というのはどんどん分析を深く掘り下げはするのだけど、決して人に無理やり納得させようとすることがなく、というかそんな動機がまず存在しないということ)こそが保坂小説のいいところで、村上氏と保坂氏のどちらも「頭でっかちな男が(頭を懐柔させながらも)感覚で行動する理想型」を示してくれていると僕は勝手に思っている)

きっと「ぼく」も工藤さんも考え過ぎで、能動的にそうしたいとはあまり思わないが、時にはなにも考えずゆったりしたいと思ってしまうのだろう。この「考え過ぎ」という状態は女よりは男の方が安定していて、だから「ぼく」は安定しているし、常に流されながら自分が揺らぐことがない。女である工藤さんは「考え過ぎ」が自分のデフォルトであっても時にそれから解放される糸口を探してはいて、それを見つけたところで本作が終わっていると思うのだけれど、きっとそれは一時的なもので、工藤さんは満足したら一人(あるいは二人)に帰っていく。もちろん「ぼく」の部屋に二度と戻ってこないことはなく、「良い"腰掛け場所"を見つけた」ということなのだろう。

とここまで書いて別に思い出すことがある。
最近単純と複雑について考えたことがあって、男は身体が単純だから頭は複雑でなくてはならない一方で女は身体が複雑だから頭は単純な方が良い、という認識が妥当なものだと思い始めている。
それを「だから単純と複雑は惹かれ合う」と言うと飛躍というか別の話になってしまうけれど、この認識の妥当性は「頭と身体が相反するもの(論理的に矛盾するもの)である以上、それぞれの立場としても矛盾させておいて両者のバランスを考えるのがよい」という養老先生の考え(に刺激されてぼくが勝手に作った話かもしれないが)に担保されると考えられる。
複雑は単純に染まりたくはないが単純を必要とはしていて、自らの安定のために「解放弁」として近くに居てもらいたい、ということだと思う。
気楽に集っているようにしか見えない4人+1人(ゴンタ)+1人(工藤さん)が居る「ぼく」の部屋という場には「気楽に過ごす技術がある」という解説者の論とも繋がるような気がする。
この解説(石川忠司という人が書いている)がまた凄いことを書いていて、文庫本の解説で久しぶりに「おお!」という内容だったのだけど、抜粋に繋がる言葉が出てこなかったので今回はやめときます。
僕はまだ中年ではないしね(ふふふ)
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