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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
矛盾を「誇ったって!」

人はそう変わらないものだと思う。
言葉を手に入れて、凄いと思って読んだ言葉を自分が書くようになって、
それが受け売りではなく自分を一度通して出た言葉だと思って、
そしてその言葉は「昔の自分」を言い表したもののようである。

実際は、フィルターを通して集まったものに意味付けをしているだけで、
色々考えている中の一部分であるだけなのかもしれない。
しかし、例えばその逆のことも考えていたとして、それは印象には残らない。
すると、変わっていないだけでなく、「変わることを望んでいない」とも言える。

それはきっと当たっている。
「子供心を失いたくない」と、そもそもまともな大人かどうか心許ない僕は思う。
これは公的な場面では内々に、駄々をこねる言い訳としてよく使われる。
しかし駄々をこねることになるのは、それが責任を負わない言い訳だからだ。

僕は自分によく言い訳をするが、そこに自分のとるべき責任を含めているつもりだ。
つまりそこに「それでいいわけ?」はなく「それでいいわけ。」しかない。
僕は「何を実際とするかは人それぞれ」という留保付きのプラグマティストである。
言い方を変えると「"理"が不可解に膨張している合理主義者」になるかもしれない。

いちおう話はぜんぶ繋がっていて、小さい頃僕はろくに論理的思考をしなかった。
だから自分の行動を筋道立てて説明するような経験がなく、
今の自分の想像の範疇を超えた自由奔放さを(主に頭の中で)発揮していたようだ。
そして言葉を知る過程で「自由奔放さ」に論理を発見していくことになるという話。

論理を屁理屈と決めつけるのは論理に勝てない側の人間で、「屁」は単に装飾語だ。
しかし理屈に情緒がくっつくのは本当で、それは「ものは言い様」ということ。
主張したいことが何であれ、それに説得力を持たせる論理を構築することができる。
だからといって「論理なんて机上のレトリックでしかない」ことにはならない。

なぜかというと、言葉はそれ単独で存在しないからだ。
言葉はそれだけでポッと生まれでてくるものではない(文字の方が分かりやすい)。
言葉(文字)に最初に意味を込める時、その"人"はどんな気持ちであったか。
言葉の力の原型は、きっとそこにある。

言いたかったのは、言葉の強度は内容によって決まるものとは限らないということ。
(「とは限らない」を「ではない」と言いたいところではある)
同じ内容の言葉が、語る人によって訴求力が変わるのはなぜか。
言葉に想いを込めることは可能だが、本と、会話とに込められる量も、質も異なる。

それを「形式が違う」とすっきり言ってしまうのには抵抗がある。
言葉の力がはたらくのは個人の内ではなく「場」なのだ。
何かを伝えたい自分と、それを伝えたい相手と、僕らを囲む「場」がある。
思えばその「場」は、今の今だけでなく、とても長い過去(歴史)を含んでいる。

お互いがそれを意識しながら交わされる会話とは、どんなものだろうか。
お互いがしっかり相手の目を見ながら、しかし遠くを見つめているようでもある。
近所に住む(ある時を一緒に過ごした)仲でありながら、
初めて会うわけではないものの、お互い遠くからやってきたような。

それも「村上春樹の小説に出てくる女性」のようなものだろうか。
つまり…
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