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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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アイロニーとは演劇性のことでもある。
 僕自身というものがはじめからない僕は、透明人間が体中に繃帯をまきつけ、黒メガネをかけ、マスクをしたように、たえずなにかの役でからっぽの僕を塗りつぶしてきた。中学生、白黒帽をかぶった高校生、それから星一つの肩章がついた軍服をきた兵隊さんという役。これらは主役のほうだが、その他なんでもござれだ。こんどはコレラ患者という役か、よろしい引受けた。役者である僕は観客から受ける演技をしさえすればいいのである。
 コレラ菌が僕の身体を侵し、僕を殺すと感ずれば、怖ろしさに気が狂うかもしれない。が、僕には僕自身が見えないのだ。僕自身が見えないのに、僕の死が見えるわけがない。だから、僕は平気でいるよりしかたがないではないか!

「赤鬼がでてくる芝居」(田中小実昌『上陸』p.54-55)
アイロニーは日常に対して負担になると前回書いたけれど、それは(一般的であるにしろ)ありうる形態の一つであって、抜粋のような「演劇的な生き方」は意識せずともアイロニーが思考のベースになっている。
それは一つの「突き抜け方」であって、だから負担でもなんでもない。

「究極のアイロニーとはこれか」と思って(「人は死ぬために生きてるんだから人生に意味なんてない」というのもその一つだけど、話を単純にし過ぎるこの手の思考とはベクトルが真逆であって、ふつーの人から見る「底知れぬ未知の闇」がそこにあり、田中氏がしごく平易にこのようなことを語れることもその闇をより深くしている)、そういえば最近似たような話を読んだと思って探したら、こんなものが出てきた。
かつて「私と仕事と、どっちを愛しているの?」と訊くのは専一的に女性であった。
ただし、女性にとってこれはあくまで修辞的な問いであり、この問いの含意はストレートに「そんな『くだらないこと』してないで、私と遊びましょ」というラブリーなお誘いであった。
かかるオッファーに対して回答を逡巡するような男は再生産機会からただちに排除されてしまうわけであるから、答えは「もちろん君さ」以外にはありえない。
それに、男が夢中になってやっていることの過半は、分子生物学的スケールで見るならば「くだらないこと」以外の何ものでもないのである。
そのことを定期的に男たちに確認させるのはまことに時宜にかなったことと言わねばならない。

「幼児化する男たち」(内田樹の研究室 2010年6月23日)
この「分子生物学的スケール」というのは『生命の意味論』からの抜粋にある「男は余剰」を指していると思う(そうなるとウチダ氏のいう「過半」の指すものが分からなくなるけれど)。

要するにアイロニーは「取り扱いに注意」と。
「諸刃の剣」がやたら攻撃力が高いのも頷ける(ドラクエⅢの話です)。
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