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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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暑さに溶け込む。

暑い。
外は暑いのだが、室内はところどころで寒い。
冷房をかけたまま寝た翌朝の自室とか、測定室とか。
外が暑いのに中で寒がっている状態に不安を覚える。
エコでないとかそういうことではない。
自然でない違和感はあるがそれは今に限ったことではない。
夏風邪は治すのが厄介だという恐れはある。
単純にそれが不安の第一要素かもしれない。

外を歩くと問答無用で暑い。
だから言葉通り問答は無用。
しかし何も考えないわけではない。
暑さの原因を問う意味がないだけで。
高気圧がどうとかは天気屋に任せてこちらは聞き流せば良い。
理解して涼しくなるわけでもない。
だから考えるべきは「暑さをやり過ごす実際的な方法」について。

とりあえず空気の層を注視してみた。
前に「空気が水分で満たされている」と感じた時と同じ見方。
視線の先には風景があるが、見ているのは「その途中」。
目は「風景が(ある時と違って)どう見えているか」しか示さないが、
その情報を頭が解釈する仕方によって「途中」をとらえる。
空気の構成分子がいつもより激しく振動している(暑いから)。
その振動を想像し、自分がその振動に囲まれていることを意識し、
そして自分の身体を構成する分子がその振動に共振する。
暑いことに変わりはないのだが、暑さが外的なものでなくなる。

質が変わったと思い、それに実感が伴っているかどうかは…?
ま、あるならあるんでしょう。
(…)生化学と解剖学とでは、本来異なる点が一つある。解剖学では対象は可視であるが、化学では通常不可視だということである。(…)不可視の世界では誰かが拾い出す物質なり事実なりは常に何らかの意味ないし脈絡がある。だからこそ拾われたのである。つまり、本質的には予測されたものである。もともと見えないものだから、それでなければ拾いようがないではないか。一方、可視の世界では必ずしも事実の間に脈絡はない。存在がまずあって、眼に見えてしまう。事実の「意味」のほうが後追いをすることも多いのである。
「脈絡のある事実」(養老孟司『ヒトの見方』p.78-79)
解剖学は「(永遠の)夜明けの学問」なのだと思った。
こんなに退屈なことはない、と同時に生きることそのものでもある。
養老先生の書く本が「社会時評に限らず学問書でも」身近な感覚で読める(というか身近な感覚から切り離すことができない)のは、解剖学の性質がそうであるから。
なるほど、そりゃ「やるべきことは尽きない」わけだ。
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