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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「視線に慣れること」と「鈍感になること」はひょっとすると違うのではないか。

僕は中学校に入学した頃から「人に見られている」という意識が強くて、そのことをずっと自意識過剰だと思っていて(思わされてきて)、何度も改善を試みたが治らず、途中で「これはもうこういう自分なのだろう」と現状を納得する論理の構築に目先が変わったのだった。
その論理の一つが「周囲の状況に対して敏感であること」で、危機に遭遇した時に遅滞なく適切な対応ができる体勢を常に整えている…というと動物みたいだが、人間社会に危機なんてそうそうないのでこれは意識の問題で、要するに(予想外のものを見たり想定外の人に会うなどして)「びっくりしたくないだけ」なのである。
それじゃ単なる臆病者かと思われるが言い訳はあって、びっくりするというのは「びっくりした瞬間に隙を見せる」ということでもあって、隙を突かれる可能性(そもそも誰に?)の多寡に関係なく隙のある状態が自分の覚醒時に存在することそのものが危機であるという認識があるわけで、要するに考え過ぎである。(言い訳になっていない)
こうなったことの発端も考え過ぎに因るのだから特に違和感はなくて、意味のあるなしとか生産性以前にそういう機制が出来上がってしまっていることと、本気で悩んで「長い目で見て計画的に」治そうとこれまで思わなかったために、この性質は変わることなく今に至る。

以上のことは悩んでいた頃の復習であって、最近はいくつか別のアプローチで(改善ではなく)変化を目論んでいる。

見られているという意識は「相手が自分に関心をもっている」という勘違いを呼ぶもので、というか自分の中で両者は等値の関係にあるのかもしれないが、日々の行動が専ら受け身的でいられる理由はこの勘違いの強靭さによるのかもしれなくて(自分が周囲に全く関心を持たれていないという意識があれば自分から構ってもらいにいくものだろうし)、そうすると孤独が好きという僕自身の基本的に独りでいる生活はあまり上質ではないと思えてくる。

孤独については「真の孤独は砂漠の中ではなく群衆の中にある」という言い方があって、これは独りでいることに慣れると孤独であることを忘れるという意味なのだが、「群衆の中にいる孤独」というのは言い換えれば「周囲の人々から全く関心を持たれない」ということで、だから孤独を忘れるというのは上の話と繋げると「油断して人が自分に関心を持っていると思ってしまう」ことで、つまり周囲の状況に関係なく見られているという意識を持てる自分は常に「油断大敵火がボーボー」状態だという結論になる。
あれ、なんだか書いてるうちに「敏感なはずが鈍感」みたいな話になっている…
というのも「敏感」と「鈍感」がそれぞれ照準している次元が違うからなのだけど、これはこれで面白い話ではあって(次元の混同はよくするもので、つまり矛盾と思われる話が構成要素の次元を整理すれば矛盾ではなかったということはよくあるのだが、その「勘違いの矛盾」を乗り越えようとする努力の駆動源が(勘違いであれ)矛盾そのものにあるのだ)、今の自分もご多分に漏れずということになるのかもしれないがとりあえず話は戻る。

上で触れようとした「別のアプローチ」の一つに「あんまり見えてない目で街を歩く」がある。
見られている意識はたとえば周辺視野に映る通行人の顔の「目が自分を向いている」という認識につながるのだが、これはその実際を確かめたところで解除されるものではない。
なぜならそれは可能性の認識ではなく「周辺視野に映る顔」がそう見えるからで、そう見えるというのも通常の視力が周辺視野であることである程度ぼやけた結果なのであって、それでは街を歩く時にあんまり見えてなければいいということになる。
僕の場合は右目がこの方法に使えて、じっさい右目だと人の顔を中心視野に据えても視線や表情をちゃんと把握できないのでうってつけではある。
裸眼だと視力は右目の方がよいのに「意味の解像度」が左目より悪いのは経験の差だろうと思う(生まれて25年はずっと左目を頼りに生活してきたので)がそれはよくて、見られている意識が高じると本当に見られているかどうかの確認をせずにはいられなくなるものだけど、ひとつは「この確認をするまでのハードルは見る手間がかからないほど低くなる」こと、もうひとつは「この確認作業は何度かやっているうちに癖になってしまうことでもハードルが下がる」ことがあって、僕が右目で街を歩くというのはそもそも「確認作業ができない」ことになるので(メインに使用する目を右目から左目に変えるというのも手間というか負担がかかる)見られている意識があまり刺激されないようになるのである。

で、二つ目のアプローチが本題というか、思い付いたから本記事を書こうと思ったことで、「日常的にずっと見られていれば慣れるのでは?」と。
他人と一緒に生活していれば同居人から見られるというのは極端に言えば空気を吸うようなもので、そんなことをいちいち意識することはないはずである。
そりゃそうだと思って、しかしその前に「人から見られることを意識しなくなるということは鈍感になることだ」と思っていた僕ははたと考える。
これはなんだか矛盾していて、それは「他人と一緒に生活している人のすべてが鈍感ではない」からで、そうだそもそも「人から見られることを意識すること」は「人から見られていること」ではなくて(うん、当たり前過ぎて鼻血が出そうだ)、視線というのは意識より先にやってくるもので逆に余計な意識がその感知を阻害することの方が多いはずだ、と。
つまりこの件の思考において実際的でなかった自分は「視線の性質」を考えていなくて、まあある意味幸福な生活をしてきたのだなと今の僕は思う(ひとつは幼少期に「親の視線が(自分が求めるまでもなく)常に自分に注がれていたこと」の結果かもしれないこと、もう一つは「粘つくような」とか「身をすくませるような」と形容される視線に対峙せざるを得ない状況に遭遇しなかった、つまりそのような視線への対処という要請がなかったということで、これは「幸福」というよりは「気楽」かなと思うけれど、「視線に強い」(し、同時に「視線が強い」)女性なんてのはこの後者の意味で経験豊富なのだろう)。
だから要請のないところで慣れる必要はなくて、つまり単なる実験以上の話ではないのだけど、「視線の性質」について実際的な思考ができるような「経験」をしておいてもよいのかな、と。
まあ、まだ詳細は書けませんけどね。ははは。
(あ、話のきっかけは森博嗣の『MORI LOG ACADEMY』です。と書いてもまず分からないだろうけど。はははのは)
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