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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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お、これは「あのこと」ではないのか?
といった「気付き」を普段からとても大事にしている。
普通には結びつかない事象同士のリンクを見つける。
全く別ものと思われた物達から同じ構造を見出す喜びは大きい。

しかし自分はそれを過大適用しているようだ。
なんでもかでも結びつけるといって、結びつく先が固定化してくるといけない。
自分の場合どこに固定されるかといえば「自分」である。
通常、対人的(に限ることもないのだが)なそれは自意識過剰と呼ばれる。

自分の座席に誰かが近づいてくるだけで、自分に用事があるのではと思う。
歩道を歩く自分の少し先で車が停まれば何事かと思う。
もちろんそれらから自分へのアプローチが始まる可能性はゼロではないのだが、
ほぼゼロに近い可能性を(よほど疲れていないと)かなり高確率で拾ってしまう。

他人の目を異常に気にする性質は中学入学の頃からでもう始まって長く、
それはもう半分無意識の反射ということで諦めてよいのだが、
自然な振る舞いだからといってそれが思考の傾向にまで及ぶのは良くない。
思考は基本的に内で閉じて集中して行うものだ。

連想自体はよいのだが、あまりに突飛な、牽強付会なものはスマートではない。
時に「考える次元が異なる」と突き放すことは思考の怠慢ではなく、「常識」だ
自分を元気づけるための思考もあるにはあるがそれは別の話。
客観的な思考に個人としての自分が出てくることはないと前提しておくのもアリか。

「日常をもう少し冷めて過ごそう」と前に書いた意味もここにある。
思考内容に「自分にとっての価値」を過剰に見出す姿勢はNGだ。
そういう種類の思考もあるというだけで思考の全てではない。
恐らく今の自分は「内では責任感に圧され、外からは無責任に見える」状態だ。


「内から湧き出る無責任」を活性化させる方策を考えよう。
その一つは「想像を敢えて現実から突き放す」だろうか。
これはなんでも「実際」に役立てるプラグマティストの苦手とするところではある。
まあ、「実際」の意味を変えればいいのだが。

ここで初めて(!)高校以来の我が師M氏への歩み寄りの方向性が生まれる。
妄想癖の強い点では共通の自分とM氏の大きな違いは「妄想の位置づけ」にある。
自分はあまりに現実(これもひとつの妄想には違いないが)を意識し過ぎた。
もっと気前良く、「あさっての方向」を眺めながらニヤニヤしてもよいのだ。

時に、「あさって」とは「未来」の別名でもある

「マジメな不真面目」だけではちょっと救われないので、
根っこから不真面目になる可能性も検討してみよう。
投げやりではなく没頭。
そして意志と集中力。

有名な一節を引用して締めよう。
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」

森博嗣『全てがFになる』

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