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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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手紙でもメールでも、特定の誰かを想定して書かれた文章は、一度書くとその相手に届けたくなるものである。
もちろん最初からその目的で書かれることが多いのだが、そうでない場合もある。
例えばある種の気分屋の人間は、自分の生活の構成要素と誰かの何かが結びつくと思いつきでその相手にメールをしたためる。
そして書き上げてから「せっかく書いたし送らないと勿体ない」などと思い、僅かな逡巡を免罪符に送信ボタンに親指が伸びる。
そんな人間がいるのかと問われれば僕自身少なくとも一人なら思い付ける、とだけ言っておく。

それはさておき、その彼のメールは成分内訳が全て彼自身の都合(要するに「欲望」)で構成されている。
日常でそのメールの送信相手とのやりとりがあれば(そしてその延長としてのメールなら何ら違和感はない…というかそれがふつうだ)まだマシだが、そんなありきたりな脈絡と関係のないところの発想に価値を置く人間もまた僅かだが存在する。
そして彼は自分の作った流れに流されるままメールを送り、後悔することになる。

ではどうすればよかったか?
メールを書くだけ書いて、送らなければよい。
自分の発想を面白いと思って、本当にそれだけなら、それを外に出す必要はない。
外に出したい意思があれば、それには「聞いてもらう相手への気遣い」が必然的に含まれるはずである(常識的な人間ならば)。
その気遣いが面倒だという思いが頭をかすめでもすれば、その事実を以て彼に自分の作文を特定の人間にアウトプットする資格はない。

「出されなかった手紙」とはふつう、相手への募る思いを文章にはしたが勇気がなくて手元を離れなかった、という経緯で生じるものだ。
本記事はそれとは趣旨が違って、つまり「出されることなく落ち着いてしまった手紙はそもそも手紙ではなかった」という話。
抽象すると…
「形式から始まったものに内実が伴うか」という問題提起であって、その否の、形骸化の一例を示したことになる。

どうしてこのような事態が生じるのだろうか?
という問いが、彼の脳内世界と日常生活を架橋してくれる。
彼にダメージを与えるような回答を一つ示すとすれば(何せ彼は社会人なのだ)、想像力の多寡ばかりに囚われるとその使いどころを間違えることになるよ、と。
想像力の軽視を嘆く人間は、その「想像力の軽視が成り立たせている日常」をも軽視しがちになる。
結局それは自分の想像力を(その過信を通じて)軽視することになる。

自分発の問いに自分を繰り込む姿勢について、「それをできていると思っているが実はできてない可能性」を時々想定することは大事だと思う。
そしてそれはルーティンワークではない。


話を戻しまして。
「まがいものの手紙」の判別方法として「塩漬け」を提案します。
「もったいないおばけ」に化かされないようにね。
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