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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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生まれたから生きる。

ウィスキーの肴に胡桃を食べている。
ミックスナッツではなく胡桃単体で買うと重量単価が一寸高く、普段のスーパーでの買い物で手に取ることはまずなくて、元は宅飲み用に買って余ったものだ。
だから食べる時も一日に数粒でひとかけ口に含むごとに味わって噛み砕くし、そもそも毎日食べるわけでもない。
(少なくとも焼いた小魚と胡桃を甘く絡めた「くるみ小女子」が夕食のおかずに並ぶ時は食べない)
そんな食べ方をしているといつまでも袋の中の胡桃は減らなくて、賞味期限は知らないが何にせよ開封後の食品を長期間置いていると気にはなるものである(このことが無意識を刺激する頻度を「主夫度」の一指標としてもよいだろう)。

という前段があって、さっき擬ショットグラスにウィスキーを注いでこたつに向かってさあ飲もうという時に胡桃の袋が目の隅に映って「あ、食べよう」と思って、「はて、これは…」と瞬間何かを考え、「ああ、生まれたから生きるようなものか」と思った。
本当は「期限が切れる前に食べよう」のはずなのだが、まずこの言い方は(当たり前に思われてはいるが)変で、しかしこれが変である理由を詰めるのではなく「変であるにも関わらず言わせてしまうもの(こと)」について思いを馳せたのち、いくつもの段を一度にすっ飛ばして出てきた言葉であるように思われる。
「生まれたから生きる」なんて言って、場合によっては何か達観やら諦観みたいなものを帯びて相手をたじろがせる響きがあるが、理由になってない理由というか単なる同語反復で意味をなさない言葉でもある。
これを同語反復と呼ぶのは論理の形式に純粋に従っている場合で、即ち「一つの言葉は一つの意味と対応する」という言葉のルール。
多義語があるじゃないかともちろん思われるだろうが、今はそれを別に考えようとしていて、つまりこのルールが意味しているのは「多数の人々の間で合意形成された(各々の言葉に対応する)意味を守りましょう、そうでないと意思疎通ができないから」ということ。
逆に「達観や諦観を思わせる」という時、そう思わされた人は「生まれたから生きる」の”生まれた”と”生きる”に(恐らく後者により多めに)過剰に意味を織り込んでいる。
その発言者の人となりも「複雑怪奇な織り物」の縦糸となるだろうが、その縦糸に厚みを持たせ、最終的に編み上げる横糸となるのは「そう思わされた人」の想像の中身である。
縦糸と横糸のどちらが重要といえばやはり横糸で、縦糸だけだといくら量があって束に厚みがあろうともまとまりがなく、かさばるだけで意味をなさない。
しかしスカスカの縦糸をしっかりした、言ってみれば極太の横糸でぎゅーっと結べばどうなるかといえば、もはやそれは編み物ではなく、火を点ければ良く燃えるね、というくらいのものに成り下がってしまう。

しかし子供はそれが何であっても、燃えれば喜ぶのだ。
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