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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
畦道を歩く。

社員寮の前に広い田んぼがある。
田んぼに沿って通りに出て、左に曲がって少し歩けば会社がある。
通勤の半分は田んぼのそばを歩いていることになる。

見るのは、道沿いの雑草か、田んぼか、近くの木々か、遠くの大山、そして空。
それらをぼんやり眺めながら、あるいは一心に見つめながら歩く。
いつも時間がぎりぎりなので足を止めたことはない。
散歩の時も足を止めない癖はこの通勤のせいにあるかもしれない。

道沿いの雑草を眺める時、「鳥の目」になっている。
雑草は種類豊かで秩序がなく、森のようでもある。
つまり飛行機に乗って一帯の森を眺め下ろしているイメージだ。
あるいは森を猛スピードで駆け抜ける未開の人となる。

田んぼは今は水を張る前の時期だが、耕地と休耕地が混在している。
休耕地は丈のある雑草が好き放題に伸び、見ていて気持ちが良い。
風が強い日は長い葉がなびき、その連鎖から風の軌跡が浮き上がってくる。
並んだ電球が順番に光るのと一緒で、それを軌跡と思う元の要素はデジタルだ。


通勤で歩いていて、毎日同じことをしている、という意識がない。
そう思ったこともあるはずだが、記憶にはない。
ある日歩いていてそう思って、過去に同じ経験をした記憶が甦るのかもしれない。
その再生の積み重ねの密度が、その意識を決めるのではないかと思う。

経験の量自体は変わらない。
何げない、取るに足りない経験こそ、その一つひとつをどう意識したかが問題になる。
それは蓄積されるもののようで、その蓄積もその都度フィードバックされる。
そうかと思えば、意識しない時には蓄積がいくらあっても浮かんでくることはない。

だからプレッシャーを感じる必要はない。
ここでいうプレッシャーは捏造で、つまり自分で勝手に作り出したもの。
要求元は社会なのだが、捏造というのは、社会の価値観を採用した自分の意識を隠蔽しているから。
それは惰性にも見え、勤勉にも見え、あるいはやさしさがある。

意識とは対象と主体を明確に分けることができない。
意識対象に、意識する主体が知らず知らずのうちに組み込まれてしまう。
これをよく量子力学の客観観測不可能性と並置する。
これは意識が量子力学的であることを示している。

言い方を変えると、意識は実感(体感)できないものなのだろうか?
脳を(身体が?)身体のように感じることはできない。
そのことが無限の可能性を秘めている。
可能性である限り、それは無限となる。
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