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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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そして死ぬからこそ言葉も生きている。

「(…)さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」
(…)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。

「死ぬ言葉」(内田樹の研究室 2010年04月06日)

言葉が「生きた言葉」として自分に届くということ。

聴くと、自分の身体に響き、自分を動かし、自分を変えずにはいられなくなる言葉。
聴くと、自分も発したい、相手に届けたいと思うような言葉。
そのような言葉を発したいという思いはきっと、自分に笑いかけてくれる人に笑顔で応えたい、という思いと一緒。

そして言葉はその単線的な並び(表現)からは思いもよらぬ複雑な次元を展開し、方向と目盛りが定まっているはずの時間を軽々と飛び越える。
左から右に、あるいは上から下に流れる言葉は、過去と未来を今につなげる「特別な時空」を構成する。
その時空では過去が形を変えて生き返り、未来が先取りされた命をもとに生まれるが、それらは「歴史的事実」でも「未来予知」でもない。(なぜならそれらは変わることに意味があり、そして確実という表現から最も遠いものであるから)

変化すること、流れることの究極は死であり、死に生かされている人間を動かす言葉もまた、死と隣り合わせにある。
けれど、死をまっすぐ見つめて生活することはできない一方で、死の意識が全く抜け落ちた生活もまた「死んでいる」。
死ぬ言葉」とは実際的な死の抽象であり、その抽象的な死が身近にあること(つまり「生きた言葉」と触れ合っていること)が「生活としての生」を支えているのではないか、と思った。

ま、まとまらない…
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