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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 ぼくは黙ってビールの残りを飲んで、真紀さんの言ったことがわかりにくかったからもう一度たどり直した。
 イルカの知能は人間のものさしでは計れないと、まず真紀さんは言った。言葉は光であるというヨハネの福音書の言い方を借りるなら、言葉の届かないところは”闇”だということになる。”闇”には言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない。何かがあっても人間には理解できない。言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである──と、堂々めぐりのような論法だけれど意味としてはこういうことだろう。
 ぼくは、このとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席に考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた

「この人の閾」(保坂和志『この人の閾』)p.65-66
 毎度のことだが面白かった本(小説には線を引かないことにしているので気になる箇所があれば付箋をつけるのだけど、彩り豊かに付箋が貼られた小説はそれに含まれる)は読了後に付箋箇所を読み返している。保坂氏のこの中編集(短編よりは長いのかな?)を読み返していて、他は読んですぐ意味が分かったのだけど上で抜粋した部分だけ「自分が付箋を貼ったのも頷けるが何に惹かれたのかすぐに言葉にはできない」と思ったのでとりあえず書いてみて、何か浮かんでくれば書こうと思った。
 まず思ったのは「こんな女の人は現実にはいない」ということで、しかしこれは僕の言葉ではなくて小田嶋隆と岡康道の対談で聞いた言葉で、確か村上春樹の小説に登場する女性を指して二人で頷き合っていた記憶がある(日経BOの連載だったと思う)。もちろんそれは「実際にいたらいいんだけどなあ」という文脈の中での発言で、僕も共感したのだけど、この真紀さんについても同じ印象を持って、しかしそれに付け加えたいと思うのは「こんな女の人は現実にはいないけど、"もし言葉を持てばこんなことを言いそうな女の人"はいるのではないか」ということ。これも単なる願望かもしれないが。「言葉を持てば」と言ったのはこういうことを考える女の人なんていないという意味ではなく、頭で考えてはいても人に話すことはないだろうなと思ったからだ(そしてもし話すようなことがあるとすれば、女性同士よりは男に対して話す可能性の方がまだある)。
 そして僕がなるほどと思ったのは真紀さんの話の要約の「言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである」という部分だ。これがとても実際的な考え方であるなと、そしてこれが男女の違いの一つなのだろうなと思う。これに対して、言葉が届かなくとも届けようとした自分の努力は認めたいみたいな考えは「女々しい考え方」だと言いたくなるけれど、きっとこれは「"女々しい男"の考え方」なのだ。印象で話を進めるとややこしいけれど、きっと男らしさ、女らしさは昔と今とで違っていて(まあそれは当然だろう)、加えて女らしさと「女性性」の違いも新たに考えなくてはならなくなったのだと思う。社会的性差と生物学的性差、と言い換えれば意味はすっきりするがなんだか即物的な気もする(「社会的」を「即物的」というのも変か?では誰なら変でないと言うだろう?…と考えると余計ややこしくなるのでやめよう)けどそれはよくて、両者の差を意識するようになるのは健全なことで、それは学問が越境的に機能し始めたことを意味する。大きく言えば要素還元主義が「生そのもの」から離れ過ぎたことの揺り戻しである。
全然違う話になっていたので戻して、上の「こんな女の人はいない」という発言を掘り下げてみたいのだけど、まずこれは(ある系統の)男性の願望の裏返しであることは書いたが、これとは別に、この発言は女性がするべきもののようにも思うのだ。なぜかといって、たとえば真紀さんのような書かれ方をした女の人が実際にいるなあと男性に想像させるものだとして、女性はそのような想像の仕方をしないからだ。言い換えると、女性は実際の人物と小説の(つまり想像上の)人物を一緒にはしない。…ちょっと微妙な話だが、僕の想像入り交じる経験によれば、男は想像を現実に混ぜ合わせる傾向があるのに対し女は想像は現実と全く別ものと捉える傾向がある。この男と女をそれぞれ男性性、女性性と言い換えたいと思うのは、この傾向が生物学的性差に根ざすからだ。それは簡単に言って「脳と身体の関係の密接さの差」だ。

この生物学的性差は乗り越えようがなくて、それは「男女間での共感」はある程度以上は望めないということで、「お互いを理解する」とは「同じ感覚を共有する」ではなく「違いを認め合う」ことで、女の人はこんなこと言わないし考えるまでもなく分かっているのだけど、真紀さんなら三沢君(「この人の閾」の語り手)に言うかもしれないし、そんな真紀さんのような女性を僕は「現実にいるかもしれない」と思い、それには多分の願望が含まれているが、男にとってはその願望も含めての現実がある。前に僕が「男は身体が単純だから頭は複雑でいる方がバランスがとれる」と書いたことの例はひとつここにあると言ってよくて、しかしこれがバランスがよいと示すことがそう簡単であるとも思えない。

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回文は往々にして怪文なりき。
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