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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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羽生善治氏の著作抜粋だけど保坂氏のタグをつけている。
保坂氏の興味があってはじめて羽生氏の思想に興味がわいたから。
こういうリンクで本を読むと、視点が安定するのがいい。
「保坂氏の琴線に触れるものを羽生氏が持っている」という情報ひとつで、
保坂氏の本を読むのと同じように羽生氏の本を読むことができる。
もちろん最初から視点が固定される弊害もあるかもしれない。
けれど「今の自分の興味を掘り下げていく」方向性で読むにおいては、
得られるものの方が多いと思っている。
タグの付け方はあまり考えてなかったので、その場に応じて意味を加えていこう。

+*+*+*
 情報化社会を上手に生き抜いてゆく方法は、供給サイドに軸足を置くことだと思う
 自分自身は常に消費サイドにいて消費を続けているわけだから、自主的に、いや、半ば強制的にでも出力を上げていかないと、個人としても組織としても需給バランスを崩してしまうのではないかと考えている。
 ずっと情報ばかり食べていると、ふと気がついた時、”情報メタボ”になっている可能性があるのだ。
(…)
 必要な情報・知識というのは、日々刻々と変わってゆくものだから、大胆に捨ててしまい、必要なタイミングで拾い上げればいい。
 そして、拾い上げた情報を基本に新たな創造をして、供給側に回るわけである。

羽生善治『大局観』p.126-127
この「供給サイドに軸足を置く」という言葉が自分の中に強く響いた。
現代社会における「消費者」から、もちろん逃れようはないのだけど、思想的な立場として離れていたいという日常的な思い(それは「いつもそのことについて考えている」というより深くて、「日々の行動指針としてそうである」ということ)に共鳴したのだ。
この言葉を僕は「需要側としての必要・不必要を見分ける力につながる」と捉えた。
だからここでの供給サイドというのはモノを売る立場ではなくて、自分に必要なものを自分で用意するスタンスのことなのだ。
腹が減っていて、懐手で食べ物が並んでいれば、好きなものから満腹になるまでどんどん食べていくだろう。
けれど食材の調達から調理・配膳・片付けまで自分でやるとなれば、そして食うために生きるのでなく人生の中で数あるうちの一場面として食事を捉えているならば、食べ物の種類や量は自ずと決まってくるはずだ。
情報はいくら溜め込んでも膨満感に苦しむことが(表面的には)ないために、「情報メタボ」は通常のメタボよりたちが悪い。
あるいは「膨満感からくる虚脱感」は両者に共通してあって、後者ではそれが意識下から忍び寄ってくるからかもしれない。

「需要側としての必要・不必要」は初めから分かっているわけではない。
新しい情報や知識に自分が触れるその都度の判断があって、その判断を適切に行うことで必要と不必要を見分けることになる。
新しい情報や知識を実際に自分で使ってみる経験がその力を養うことにつながる。
それを使って創造する。
本を読んでばかりでアウトプットをしないことを「情報を溜め込む」と言うのはたやすいけれど、読んだ分だけ書けばいいというものでもない。
同じ本でも、読む時期によって心の琴線に触れたり、自分の中を素通りしたりする。
”必要な情報・知識というのは日々刻々と変わってゆく”というのはこのことで、タイミングが合った時に「その情報を心に留めておく」から「自分なりの表現でアウトプットしておく」までの”拾い上げ”のグラデーションがある。
上記の力とは、僕にとっては読書が自分の血となり肉となるように”拾い上げる”力のことだ。
だから、この力を発揮するための技術を別枠で身に付けておくことも必要だ。
 有益な情報を抽出するためのプロセスは、コーヒー豆からコーヒーを創るのに似ている。まず、コーヒーを粉上にする作業(第一のプロセス)、次に、フィルターをかけ、お湯を注ぐ作業(第二のプロセス)。まったく異なる二つのプロセスを通す事によって、抽出されるものが有益な情報になるのではないかと考えている。
同上 p.118-119
コーヒーが好きなのでこの喩えが気に入った。
”第一のプロセス”、”第二のプロセス”のそれぞれを具体的な情報の選別・抽出作業に言い換えてみると、前者の「豆の挽き具合」は情報の細分化、「豆のブレンド」まで考えれば選別した情報の組み合わせ方になり、後者の「コーヒー液の抽出」は情報から必要な要素を取り出すことになるだろうか。
それはいいのだけど、僕が「おお!」と思ったのはこの両者が「まったく異なるプロセスである」という指摘だ。
まだうまく想像できていないのだけど、膨大な情報の渦の中から一掴みを選び、自分が必要と思われる要素を抽出し、形を変えてアウトプットするまでに、考え方のまったく異なるいくつかのプロセスがあるのだ。
それらはひとつにまとめることができないというか直線的でないというか、それぞれ脳の別のところを使っているのだろう、きっと。
何が言いたいのかというと…とにかく複雑だ、と。
きっとこのプロセスの組み合わせの複雑さが、(単なる消費でなく)情報を創造につなげることの魅力になっている。

そして何とか言いたいことを正確に言おうとすると、往々にしてアポリアに達する。
もちろん「これで言い切った」ではなく「ここまでしか言えない」ということ。
ある地点から、言葉を継ぎ足すことが迂回以外のものでなくなる。
ほとんどの新書はその「迂回」まで書くスペースはないのだけれど。
 選んでいるのと同時に、たくさんのことを排除していて、ユニークなこと、変わったことを考えたり、試したりする機会が減ってしまうのではないかと思うこともある。
 検索は検索で非常に有効・有能なツールであることは間違いないが、それと同時に、自分で責任を以て懸命に選択をすることも大事だ。
(…)
 検索をかけながら、検索の世界からは逃げて行く、そんな矛盾したテーマを眼前に突き付けられているような気がしてならない

同上 p.121-122

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