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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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春めいた空気。

事務机のある棟と評価解析を行う棟が違うので、毎日徒歩5分程度の道を最低2往復している。
最近は風が強くて落ち着かない時もあるけれど、日差しと空気はぽかぽかしている。
また今週末も少し冷える(そして雨?)とのことで、散歩する日に限ってコンディションが整わない。
けれど、いつもお天気、いつも朗らか、支障なき道のりでは飽きるのだ。
道のりの具体的な構成物に関わらず、その佇まいの「変わらなさ」のために。
あるいは、その「変わらなさ」を求める自分の心のために。

「変わる」という主体の認識は、主体と客体の相互作用だ。
「変わる」ことで生きている人間が「変わらない」ことを求めるとはどういうことだろう?
身体が「変わる」ことに反して脳が「変わらない」ことを求めること以外に何があるか。
往々にして脳が身体と逆に志向することを脳自身が考慮に入れるとき、脳と身体は顔を並べることになるのだろうか?
「一貫性」が脳の宿命であるとして、それを崩そうとする意志を一貫性を獲得せずに発揮することはできるのだろうか?
「脳が身体に従う」とはどういうことか?
身体器官の一つである脳が自分の赴くまま振る舞うのを「脳が身体に従う」というのは単なる言葉遊びに過ぎない。
言語が脳の専売特許である以上、「脳が身体に従う」さまを言語で記述できないのだろうか?
「身体言語」を開発するべきなのだろうか?
たしか保坂和志が自身のハード(「硬派な」ってこと)エッセイで「量子力学を表現するためには量子力学的な言語を用いなければならない」と書いていた。
きっとそれらは不可解さにおいて宇宙人の喋る言葉に引けを取らないだろう。
意思疎通に全く不都合な言語が存在する意味はあるだろうか?
何か重要なすれ違いがある。

本当に伝えたい事柄を正確に表す言葉(言語)は、誰にも理解されない。
そんな言語がもしあるとすれば、そういうことにならないだろうか。
そしてそのことは、何を意味するだろうか。
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