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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
僕は普段から人と仕事上などの必要以上に喋らないのだけど、人間は人と喋らないと寂しくて生きていけない生き物なのだとしたら、それでも僕が平気なのは頭の中で会話してるからかもしれない。
想像というのは具体的のようで抽象的でもあり、曖昧な夢のようでありながら圧倒的な現実感をもって迫ってくるものでもあり、確かに言えそうなのは実体を備えた実生活と比べてなにかしら偏っているということ。
がしかしバランス感覚の大元を想像力が担っているという話もあり、するとその偏りは内的な問題に過ぎなくて、つまり偏った想像を修正できるのは想像(の仕方)にある。

という話がしたかったのではなく、その想像の中での会話をしながら気付いたことがあった。
自分の興味対象は大体このブログで書いてるようなことで、そんなテーマで日常的に接する方々(つまり会社の人です)と飲み屋談義を繰り広げたりしていて、その想像が偏っているというのは中身の大体が自分の語りで相手の相槌やツッコミなどの反応が見えてこないことを指しているのだけど、それでも気付くことがあるのは自分の語りと思ってる言葉のなかに相手のそれがいくらか含まれているからかもしれない。
と具体的にしようとすると怪しいけれど、きっと想像内での対話相手の想定というのは「相手のその人となり」を念頭におくことで自分の語りが(例えば一人で考えている時と比べて)いくらか変化する効果があるのではないか、とある程度抽象的に表現すればそれっぽい。

で、仕事のやり方から話が合いそうな気がしているうちの上司と教育について話していて、「"自分探し"なんてのは国が始めに言い出したんですよ」と言って教育審議会の答申かなんかだったかな、と言ううち想像が内なる思考に切り替わって、
 そういう刷り込まれた固定観念って今では血肉化して違和感がないというか無意識の行動指針になっているけど、刷り込まれた当時と今とで違うのは当時の自分の状況(つまり刷り込まれ方)を環境込みで突き放して分析できることとその分析ツール(つまり物事の捉え方、考え方)をたくさん手にしていることで、その固定観念と自分との結合を解くのも(その結合力の主成分は固定観念に対する愛着、崇拝、無根拠(非合理)な肯定など。「習慣」はその性質と機能の関係では合理的だけど習慣の具体的な内容と機能の関係を見た時には非合理の最たるものとなる)面白いのではないか、
と思った。
忘れっぽいとか自分の過去に愛着のない人ほどやりやすいだろうなと思い、僕は充実した一時期の過去の経験を文章化できないことに嘆いたことのある人間であって(そのせいで読書にのめり込んだ、と言って大袈裟ではない)、昔と比べて表現手段としての言葉をたくさん手に入れはしたけれど個人史編纂みたいなことに対する興味はむしろなくなってしまった人間なのできっと楽しくやれるのだと思う。
人はほっといても変わるものであって、けれど「ずっと今のままでいたい」が主流の価値観でそれは「今を肯定することで変化を否定する」ことなのだけど「人工を肯定して自然を否定する」ことでもあって、しかし過去を否定することで変化を肯定できるというのは「人工の人工は自然」みたいなひとひねりがあってとても面白い。
このことを「否定の肯定」と言った時に前者はどう言えるだろうと考えてみると、まあ当然だけど「肯定の否定」になる。
後者は「肯定してるつもりが否定になっている」で、これは「身体に任せて生きているはずが脳に振り回されている」というようなもので、身体性が鈍っていると言うことはできるがその前件に「抽象思考を軽く見る態度」がある。
つまりタイトルのようなことが言いたかったのでした。


一言でいえば、
「過去の自分を分析対象にする」のも面白そうだ、と。
で、きっとそう思えることは今の頭がわりと健全な状態であることを示していて、
こう書くことは祝いにも呪いにもなるという。
と書いた最後の一行はきっと「呪鎮」です。
ふう。
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