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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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ことばを用いて考えるパターンについて。

思考そのものは単線的ではなくて「一つのことを考えよう」と思って、その道に従っているという意識の中において思考は単線的となる。
で、その線上をそのまま進むとはふつう、言葉をツールとして使う。
言葉にしてから自分の考えに気付くのであれ、先行するもやっとしたイメージを言葉になおしてそういうことなのだと確認するのであれ、そこで使う言葉そのものについて考えることはない。
が、往々にして独りでぽーっと考えていて、すなわち目的もなく予想到達点も見あたらないままとりとめなく考えていると、文章(上でいう「単線」)にするつもりの言葉をいつの間にか分解し始めていることがある。
それも定まった道がないというだけで同じ思考ではあって、獣道(いつか通った道かもしれないがぼうぼうの草に覆われてその判別はかなわない)であれうねうねしていようとも単線に変わりはないとも言える。
そしてそれらの意味で同じ(違う)とは言えて、でも今挙げた以外の「質の違い」があるとなんとなく思う。
質ではなく構造かしら。

…単に「我を忘れて(ひとつの)思考に耽るのがイヤで客観的な(?)視座を確保していたい」という願望の、わりとレベルの低い顕れかなと思ってみる。
当事者意識と呼ばれるものが最近「責任を感じろ」という物事の円滑な進行と(本質的には)関係のない意味を主に帯びているように思われていて(と言って会社でそんな会話は露とも出てこないのできっと新聞を読んでいてそう思っているのだろう)、その反発からか(とある問題に対し言ってみれば当事者である)自分の立ち位置に対する意識を希薄にする傾向が自分にはあって、それはどちらかといえば当事者意識が薄れる側に傾くことになっている。
しかし完全に無責任というわけではないが、負うべき責任の多寡(問題を起こした時に自分がとるべき対応など)を想像の及ぶ限り(という表現は物凄く弾力的なのだが)は想定するがその想像は「ではその責任を取らないでもよいように頑張ろう」ではなく「取らざるを得なくなる状況が生じれば仕方ないよね」という認識の定着に活用されていて、その結果何が起こっているかといえば「当事者意識が表に出てこない」ために外からは無責任に見えて、とはいえ以上の想像に執着はないのでその外見を咎められれば(しばしば必要以上に)当事者意識を湧出させるという、いちおう言葉にすれば長いが「組織内での仕事意識の持ちよう」としての一つのスタンスを形成してはいて、ではなぜこんなややこしいことをしているのかと言えばこれが「非{非(非原理主義的原理主義)的原理主義}的…」の実践と思い込んでいる。

この{ ( ) }は高校の英文法で関係代名詞を習った時の使い方をしていて、同じ括弧で閉じられればその中身はひとまとまりとして考えることができる(英文法の話では主語や補語の抜けた一文がwhichと等価になるというワザでこのwhichが関係代名詞と呼ばれる…って自分は誰に向けてこんなことを書いているのか?)という実は抽象すれば(もうしたんだけど)画期的な思考方法であって、構造主義の基本的な思考概念を「括弧に入れる」と訳してあるのは本当にイメージにぴったりだなと思うがそれは今は関係なくて、上に書いた「スタンス」はこの括弧を2つは使えているはずなのである。
この括弧は原理的に無限大まで増やすことができて、けれどその括弧に伴う実質というのは括弧が増えるほど薄くなっていくのだが(というかふつう誰も増やそうと思わない)、原理主義の打破を「可変的に」追求する人間の中ではその試みが上手く行っていれば時の流れに従い括弧が増えていくはずである、原理的には。

閑話休題。
思考が単語の分解に流れてしまう意識を解析しようとしていたのだった。
簡単にまとめれば、本来の単線思考を紡ぐ集中力がないだけかもしれないし、その単線思考が今やってもろくな方向にいかないという感覚があってやらないでいるだけかもしれない。
…これは解析ではなく「意味付け」ですね。
ここでの意味付けは、思考を続けるためではなく思考を終わらせるために用いられたことがよく分かる。

そう、「予定」がある限り思考はどこかで打ち止めにしなければならないのだ。
一つのことを何日にもわたって考え続けることを「集中力がある」と誉め讃えることは可能だが、公私の切り替えをスムーズにこなさねばならぬ社会人の「バランスの維持というノルマ」とそれは両立し難い。
それが両立されているように見える場合、恐らく後者が犠牲にされている。
こんなことを断言できるのは自分の精神体力が未熟だからにほかならない。

高校時代の話だが、僕は短距離走は大の苦手で、長距離走にも全く自信がなく(体力以前に腹痛ですぐ走れなくなる)、その頃からこの傾向が改善されたとは思っていなくて、今は徒歩(あるいは競歩に近いかもしれない)の継続に要する精神力(実は体力ではない!)を自負している。
「脚による歩み」を思考のメタファーとしようとしているのだが、上で精神体力と書いたのは持続力に見えて実は瞬発力であって(1週間も1年に比べれば一瞬…とまで言わずとも短いだろう)、自分はとても長い基準における持続的な思考に自信を持ってよいのだと思う。
というか身体がそれを要請していて、頭は「そうなってもいいな」と思っているのだと思いたい。

つまりバランスを維持しながらの持続的な思考とは、ひとスパンの思考ごとにふんぎり(落としどころ)をつけつつも同時に「もやもや」も残して次につなげるという技術の洗練がカギだということだ。
だからこんなにズルズルやっててはいかんのだよ。
というオチでした。ガオー。

+*+*+*

2012/08/27(Mon)22:15:58
そうか、単語を分解して遊ぶのは「お手軽トリップ」効果をアテにしてのことなのだ。何か今と違うことを考えたいな、気分を変えたいな、と思っている時、その考えを構成する単語を分解する(そうして全く別の意味が生まれる)だけでそれが達成されてしまう。レベルが低い、と言ったのはこれがたんなる連想ゲームに終わることが多いから。「深めうる予感」もすっ飛ばして言葉の表面で転がり回ってるだけ。そしてもちろんこれは集中している状態とは程遠い。もはや縁遠いけど、テレビを流し見しているようなものかもしれない。

+*+*+*

2012/08/27(Mon)22:22:40
「お手軽トリップ」とは例えば…家にいるのに仕事の文脈で「長所と短所」という考えが浮かんだ時、「ちょうしょとたんしょ、ちょうたん、たんちょう…タンチョウ」とくればもう(もちろん頭の中で)体は湖に浮かんでいることになる。
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無題
そうか、単語を分解して遊ぶのは「お手軽トリップ」効果をアテにしてのことなのだ。何か今と違うことを考えたいな、気分を変えたいな、と思っている時、その考えを構成する単語を分解する(そうして全く別の意味が生まれる)だけでそれが達成されてしまう。レベルが低い、と言ったのはこれがたんなる連想ゲームに終わることが多いから。「深めうる予感」もすっ飛ばして言葉の表面で転がり回ってるだけ。そしてもちろんこれは集中している状態とは程遠い。もはや縁遠いけど、テレビを流し見しているようなものかもしれない。
chee-choff 2012/08/27(Mon)22:15:58 編集
無題
「お手軽トリップ」とは例えば…家にいるのに仕事の文脈で「長所と短所」という考えが浮かんだ時、「ちょうしょとたんしょ、ちょうたん、たんちょう…タンチョウ」とくればもう(もちろん頭の中で)体は湖に浮かんでいることになる。
chee-choff 2012/08/27(Mon)22:22:40 編集
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