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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
の続き。今回ばかりは(と言えるほど「成功率」が低い)しっかり続きます。

僕は常識が嫌いだ。
常識にはいろいろ種類があるが、もともとは「人と人との間のやりとりを円滑にするための共通認識」として生まれたのであって、それが生まれた当初は必要とされたから生まれたのであり、理由も実益もちゃんとあった。
僕が嫌いだと言ったのは、常識が形成された当初から時代が変わって実益が無くなったにも関わらず、当たり前のような顔をして意味もなく(あるいは害を振りまいて)幅を利かせている類の常識のことだ。
その「意味がない、実益がない」とする判断基準は何か? とまず思われるだろうが、これに答えるには具体例を以てせねば説得力がない。

というのも、まず僕自身の感覚として、「常識に従って(=特に考えもなしに)振る舞っているけれど何だか窮屈そうに見える」ことがあるのだ。
だから少し考えてその常識に意味がないことを把握したうえで思うように行動すれば清々しいのではないか、と。
…そう、こう書いて「言いたいことは分かる」のだけれど、こんな話題がもし日常会話で展開されたとして(実は僕は珍しく最近その機会があった)、まず続くのは「例えば?」という疑問。

その例示をする前に「考え方」の話を続ける。
これは土台をしっかりするための作業にも見えるし、「外堀を埋める」作業にも見える。
どっちにしても、具体的なところを知りたい人にとってはまどろっこしい以外の何者でもない。
しかし、先の記事で触れたが構造主義に興味を持つ人間としては大事なところなのだ。
そしてこれは先の記事で書くべき話なのだが、(僕の考える)構造主義の欠点の一つは「こだわると本題にたどり着けない」ところだ。
ものごとの仕組みを知るのは確かに面白い。
仕組みを考えるうちにもっと広い枠組みに想像が及べば話の間口がさらに広がる。
楽しい。
そう、これは間違いなく楽しいのだが、恐らく「マニアックな感覚」と考えておくべきなのだ。
構造主義の話が日常会話で展開されることが滅多にない(とこれは断言できる)のは、プラクティカルな人間、つまり大抵の日本人にとっては興味の範疇外だからだ。
それを知って何の得がある?
俺は今そんな話をしているのではない、話を逸らすな。
…ごもっとも。
その指摘は間違いなく正しくて、しかし「無粋だねぇ」と思ってしまうこちらはしかるべくしてそのような話題を人に振ることがない、これは機会がない以前に意欲の問題なのだ。
被害妄想だろうか。
(うん、なんだか文体がこころなしか小田嶋氏みたいだな)

閑話休題。
「閑話休題」という語の使用はふつう「さ、そろそろ本題に戻りましょ」という現実回帰の意思表明フレーズと思われがちなのだが、頻繁にこれを用いる人間の経験からすると「逸れた話が一段落した」という己が満足感が呼び寄せた言葉であって、つまり「しゃーない、話戻すか」という消極性が本音として潜んでいるのである。
まあ、正確にいえば「おおっぴらに潜んでいる」だろうか。東京都というジャングルを行進する迷彩服レンジャー部隊のような。分かりにくいか。

閑話休題。
とだけ書くと「戻り先」がたくさんある場合には不親切となる。
今回がそうだ。
というわけなのできちんと書くと、常識の話をしていた。
「形骸化した常識とは具体的にどのようなものか」について語ろうとしていた。
そして具体例に入る前に更なる前置きをしておこうと思ったのだった。
これは自分が矛盾を含んでいることを先に指摘しておこうという「私的詩的指摘」なのだが、詩的になるかどうかは出たとこ勝負である。
きっと負ける。

閑話休題。
常識は「人と人との間のやりとりを円滑にするツール」と言った。
人は日々目的をもって、あるいは心地よくコミュニケーションをしたいと思って生活している。
その目的の達成、意思疎通の成就に、なるべく手間をかけたくない。
やりたいことはたくさんあるのだ。
だから、なるべくなら効率よくこなしたい。
そういう要請が「常識」というものに対してあるはずである。
僕は常識のその機能を否定するわけではない。
常識とは手段であってそれが目的化するのは良くないとか、常識は人口に膾炙してこそ常識となるのだから形骸化(その表れの一つが「手段の目的化」だ)する運命にあるとか、そういったことを実は本記事の結論で言おうと思っていてでもその前に書きたい事があったのに図らずもこれを先に書いてしまうことが思考の本来的にパラレルな進行と地方ローカル線が如き単線進行である文章化行為の相性の悪さを露呈しているという考察はさておき、その前に書きたいことというのは、
僕は「あまり効率を追求しない方がいい」と思っているということ。
プラクティカルな話題にあまり興味を示さず構造とか前提とか抽象的なことばかり言っている自分は「効率の追求」という常識の(一つの)機能を否定しないと言っておきながら、それは「人がそう思うなら勝手にすれば」の意味で、つまり私的には否定してしまっているのだ。
しかも全然詩的でなく(それはどうでもいいか)。
いや、まわりまわって「短期的な効率の追求は長期的に見ればムダがあるよ」と言いたいのかもしれない。
そしてそのようなまわりくどさは排除されてこその常識なのである。

ややこしくなってきた。
いちおう最初は「(具体的にいくつかの)常識の出所を探り、その意味のなさや新常識の模索などができればいいな」というウソかホントか分からないようなことを考えていたはずであったのだが、流れに身を任せて考えていくうちに「常識とはそんな風に頭をこねくり回して作るものではない」ような気がしてきて、やはり私的な構造解析に過ぎないのかなと思っていたりもする。
まあ、具体例を思い付けば(多分日常で経験してる筈だけど、会社で仕事してるとこういった思考に結びつかない、まあマジメに仕事しているので)続きを書いてみようと思います。



いつも一度PCを閉じてから続きを思い付く。
「原稿の塩漬け」は多くの文章家が実践しているけれど、やはり対象から一度距離をおくことは一定の効果がある。
出来をあまり気にしない身としては「一度に書き上げる」方が達成感があるのだが、やはり「達成感の有無」という考え方は僕が文章を書く目的から逸するもので、「学校のテスト感覚」が抜け切れていないとか、仕事感覚が混ざり込んでいるのは間違いない。
毒されている、と言ってもよいくらいだ。
プロでなければ、文章を書くことに期限なんてないのだ。
で、プロであっても、出来映えを気にする人は(みんながみんなそうではないのだとは思う)、きちんと「塩漬け期間」を設けておくものらしい。
文章化を通じて充実した思考を展開する、という目的においては僕も仲間に入れてもらえるはずで、よって「塩漬けの技術」も身に付けたいと思う。
まあ技術より先に習慣かな。

という前段は本題ではなくて、PCを閉じてから何を思い付いたかという話。
さっき上で「新常識の模索」などと書いたがやはりあれは筆滑りの言葉の綾で、そんなもの作る気はさらさらないのだった。
自分がやりたいと思っていたのは、現状を前提として新たな解釈をそれに与えること
常識は既にある。
既に分離できないかたちで僕らに浸透している。
常識(の一部)を悪とみなして改善にかかる努力はある正しさを備えてはいるが、「建前だけの正しさ」に陥ることが多いのは、常識がもはや僕らの一部となっているからだ。
あるものはある。
その既にある状態はそのままに、しかし「なぜそれがあるのか」を問うことは可能だ。
普段意識しないことだけにその類の思考自体が不自然だし、手間はかかる。
しかし、それはかなりの効果をあげることができると考えている。
今の時代には特に。
と言うのは専門分化し過ぎて総体を捉える視点が不足している現状があるからだ。
狭く深く掘る穴がどんどん増える。
一つひとつの穴はどんどん深く掘れるようになる。
そうなると、他の穴に目を向けるモグラはいなくなる。
だがモグラは目が見えないが僕ら人間には目が見えるのだ(?)
理念先行の時代には日本のプラクティカル性は珍重されたはずだ。
だが「モノありき」の豊かな現代では理念、価値観の構築が急務となる。
それは「カネではなくて…」という話かもしれない。

ちょっと話が散逸しそうな気配なのでここで打ち切り。
次回への導入になっただろうか…
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