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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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近頃ようやく夕方が涼しくなってきたので毎週末に散歩に出ている。
(気のせいか、日が暮れる前の方が夜より涼しい気がする。風のおかげ?)
からりと晴れることが、少し前の「随時にわか雨体勢」な不安定な数日からなくなっていて(今はそんな湿気ているわけではない)、それと関係があるのか夕方頃の雲が日替わりの壮観を呈していて、部屋から見える(色のみならず形も)彩り豊かな秋空を眺めているとじっとしていられない。

散歩コースは決まっていて、すぐ近くを流れる川の土手に出て川沿いを歩き(しばらくは歩道が続くのだ)、歩道の切れる所で川を離れて山(と言って戸建の連なる低い丘)へ向かい、大体の方向は決めて路地をジグザグ進みつつ、TESCO(3つある近所のスーパーのうちの1つ。ここにしか置いてない輸入ものがお目当て)に寄って買い物をし、下りも閑静な住宅街(車はたまにしか通らないし暗い。僕好みだけど女の人は一人では歩けなさそう)を練り歩いて帰途につく。

ちょっと散歩の仕方が変わったようで、まず周りをきょろきょろ見なくなった。
海外旅行の「おのぼりさん」的挙動不審を所構わずやるのが散歩スタイルなのだけど、もちろん日が暮れると何も見えないからしないわけではなくもともとあまり見えていない(いつも裸眼で歩く)ので輪郭だけとらえての想像力勝負なところはあって今もそれをしている時もある(という言い方をするのは意識していなければ勝手にそうなるからだ)のだけど、自分の足下を見たり、そのすぐ前の地面に目線を据えたまま歩いていることが少し増えたように思う。
それは何か考え事をしているからではなくむしろ何も考えていないがゆえの歩行スタイルであって、ちゃんと言えば「何も考えていない」ようになろうと意識して歩いている。

最近ふっと意識がそれた時に特定の言葉が浮かぶ癖がついてしまったようで、その理由やその瞬間の状況について実地的経験をもとに考察を深めているのだけど(実地もなにも、何をしていても起こるので数えきれないほどの経験を積んでいるのだ)、まだその理由を一つに断定する気もないけれど3つ目に思い付いたこれが一番ありそうかなと思うものがあって、それは自分が「言葉から離れたいと思っている」のではないか、と。
とだけ言えば誤解を招くので言い換えると、四六時中言葉について(あるいは言葉を使って)考えているとイヤになるので「たまにはぼーっとさせてくれ」と自分の中のどこかが訴えかけているのではと思ったのだ。
この「特定の言葉が浮かぶ瞬間」の状況をいえば、「集中が切れた時」と前に書いたけどこの表現だと少し的を外れていて、おそらく「思考の階層が繰り上がった時」すなわち思考内容そのものからその内容の枠組みに視点(←思考の話なのに視覚の表現なのだな)が移った時と言った方が近い。
これは構造主義的思考として珍重(というほど珍しくないので…有用視?)していてむしろどんどんやりたまえと思っていたのだけど、実はこの傾向は病的でもあるという認識をかつての自分がもったことがあって(この思考の流れが無意識にごく自然に為される機制は院生時代の絶望的なコミュニケーション不成立状況において形成されたのだった)、思考は充実していても徹底的に「閉じた状態」(しかも自然に←傍目には「ふつうに見えるけど何か違和感がある(何か通じない)」という僅かな違和感のみある、と僕は想像している)であるということを忘れていた。
別にそれはいいのかもしれないけど(ぶちっ←あ、ひどい)、きっと振る舞いの自然さを取り戻そうとしているのかもしれなくて、ここで自然というのは、閉じているのならそうと分かるように閉じるといった「見かけと中身の一致」のこと。
それは単純なことなのだけど、特に面白くないからやらないでもいい単純さではなくて、コミュニケーションのルールだから守らなくてはいけない単純さなのだ。
だからそれをなおざりにしていた自分は身を世間に晒し回る散歩という行為において反省的に再構築しようとしている…のか? ホンマかいな?

…多分違います。何せ話がズレまくってるから。すみません。
話を幾分か戻すと、上で触れた「意識がそれた時に浮かぶ言葉」はすぐイメージに結びつく特定の言葉であって、つまり肝心なところ、その言葉が間髪入れずにイメージに変換されるせいでその後に別の言葉が続かない。
だからこの癖が「言葉による思考の打ち切り宣言」のようにも受け取れるのだ。
散歩の時にきょろきょろしなくなったこととはこの話と少しつながっていて、きょろきょろしなくなったという変化においては「何を集中的に見ているか」よりは「何を見なくなったか」の方が大事で、それは文字なのだ。
風景と文字をごっちゃに見ていると風景からも文字が勝手に連想されてくる、ということもあるかもしれないが(という話もしたいのだが今回は泣く泣く諦める)、何かを集中してみるのではなく「見るともなく見る」ことで言葉による連想を遮ってみようという実験を最近始めた、ということが本記事を書く前に言おうと決めていたこと(たぶん)。
で、歩きながらなにかを見るともなく見るのだけど、それは視覚に関係なく物思いにふけるのではなくて、「意識は視覚にとらわれているのだけどそれを言葉に変換しない」ことができるのかな、というのがその実験内容で、昨日やってみた感想としては、実に難しい。

意識がある以上なにかを見ていればなにかを連想するのだと思うのだが、言葉を介さないで連想するなんてことは不可能じゃないかと思ってしまった。

という一文が、実感の吐露ではあるのだけど「なにやら色々怪しい」ので、怪しいなとだけ言っておきます。
うーん、どう転がってくのかなこの話。。
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