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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
もっとも、そういう臨床的に単純化された状態をして人間を物質的存在であると捉え、物質だから単純な存在だと考えたいわけではなくて、”精神”とか”心”とか呼ばれているものを電気的反応と化学的反応の集積ないし総体として捉えようが霊的な何ものかと捉えようが、そこで起きていることの複雑さに変わりはなくて、むしろ、”霊的”と呼ぶときに一括りにされてしまいがちないろいろなことが、物質的に記述しようとしていけば緻密になるというのが俊夫の考えで、その考え方でいうなら俊夫にとって、”霊的”と名づけることが世界を単純化することで(”霊的”でなく他の呼び名でもいいが)、物質性にこだわることがこの世界の複雑さに釣り合うことだった。
保坂和志『残響』p.112-113


この部分はまさに保坂氏が文章を書く上で一貫している態度で、「もっと解析的に現象を記述していくことが文学の生きる道ではないか」と『アウトブリード』にも書いていた。
じっさいその通りだと思うし、単純化がいろいろな悪影響を及ぼしているとも思うのだけど、この言い方は容易に反転するものだとも思った。
すなわち、現象を要素還元し物質的に記述していくことが「記述できることが全て」という態度に硬化してしまうこともあり、科学の言葉で語れない現象を霊的なものと捉えることで「言葉にできないもの」の存在を認める態度もあるということ。
こう考えると本質は、科学か宗教かではなくて、とりあえず世間一般で枠組みとして固まっている「科学」および「宗教」というツールを実際にどう使いこなしていくかということになる。
これがタイトルの含意で、タイトルの前段はつまり科学原理主義は宗教の一派と呼べるということ。
では後段はなにかといえば、未知を許容する、あるいは知の外の(身体的な?)存在にも目を向ける宗教は、未知を探求するという科学の一面と性質を同じくするが、一般に還元する(科学の根本的手法である「仮説の構築とその検証」とはそういうこと)態度を内包していないから科学にはならない、ということ。
教義として多人数の他者に広めることを一般への還元と呼んでよいのかもしれないけれど、宗教的体験の本質はやはり一個人の内的体験なのかなと思うので。

何が言いたかったかといえば、科学と宗教のどちらがいいかという話ではなくて、どちらの側に立っても(上では両者をツールと呼んだ)自分の目指す態度を追求することはできるということで、ついでに僕の目指す態度とは未知の探求と恒常的な変化を両立させること。
「常に変わらず変化する」という言い方が不変なのか変化なのか、とは単なる言葉遊びのようにも聞こえて、昔「計画的無計画」という言葉が好きでこの一言をこねくり回した記憶が甦ってきたのだけど、これは禅問答ではなく(いや、「本来の意味での禅問答」と言うべきか)、実践的な意味がある。
内田樹氏がいつかブログで「非原理主義を貫くには永遠の入れ子構造をまず理解する必要がある」といったことを書いていた。つまり、一つの原理にこだわらず臨機応変にという意味で非原理主義を掲げるとほどなくして「非原理主義的原理主義」として原理主義に回収されてしまう構造になっていて(頻度としては「毎週月曜の燃えるゴミ回収」くらいか)、その構造を脱するために時に原理に従い時に原理を無視する(しかも「無秩序に」←これが重要)という態度をとらねばならぬという話だったかと思う。
話がずれたけれど、要するに「自分が何を求めているか」が抽象レベルで念頭にあれば、それを追求するためのツールに惑わされることはないということ。よくいう「手段の目的化」がここでの「惑わされた結果」なのだけれど、こう書いてみてなんとなく「目的の手段化」が理想なのかな、と思い付いた。
それは具体的になんなのだ、と言われるとよく分からないが。

そう、そういえば昨日『残響』を読み終えて、今日ふせんを貼った箇所をいくつか読み返していてふと書きたくなって今これを書いている。
で、この小説は群像劇なのだけど登場人物はみんなどこか保坂氏的性質を備えていて(もちろんその表れ方は各人で異なるわけだ)、一人で喫茶店で座ってゴルフの打ちっ放し場でクラブを振る老人を見ながら延々と思考を重ねる野瀬俊夫という人物がいちばん保坂氏に近いのかなと思ったのだけど、野瀬氏の断章の最後はいつも「分からない」という言葉で締めくくられることになっていて、しかしこの「分からない」が思考の放棄ではなく「(新たな)思考の入り口に立った」ことがありありと感じられてとても楽しい。
今の自分の生活態度とフィットしているのか、「こんな生活もいいなぁ」と思わせてくれる(これは『カンバセイション・ピース』を読んでいて感じたことでもある)。
人物にしろ状況にしろ、憧れを抱くことが昔からあまりなかったのだけど、保坂氏の書き物に憧れを抱く頻度が群を抜いて高いのは、今の自分の生活が物足りないからではなくむしろ満ち足りているからかもしれないと少し思う。
そして上で言っているように、この状態は維持するものではないのだろうと思う。
大事なのは変化なのだけど、どのレベル(階層)での変化を求める(許容する)か。
そのレベルを時間に対して固定しないことも、より本質的な変化と言える。
…これが上の話の繰り返しに聞こえれば、抽象的思考と相性が良いことになる。

あと一つだけ書きたかったことがあって、それは上で科学か宗教かという話をしたけれど、文章を(それなりにまともに)書くにはどちらかの態度をとらないといけないのかもしれない。
それは読み手への伝わりやすさとか、書き手の一貫性(これがなぜか真摯さにつながってしまう)に大きく関わるから。
これを乗り越える術はないのかしらん。

+*+*+*

最初の抜粋部分を読み返して、本記事のタイトルを思い付いて、そこから保坂氏の別の本のタイトルを連想した(いや、多分この書名を先に知っていたから思い付いたのだ)。
その本の名は『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』。
この本は今手元にあって、帯に「こいつ 何言ってんだ?!」と書いてある。
僕もそう思う。
そしてそう言いたい。
「突き放す」のではなく「引き寄せる」ために。
「ゴール」ではなく「スタート」として。
「不変」を守るのではなく「変化」へと開かれるために。

いつ読み始めようかな。楽しみ。。
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