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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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人が泣いたり苦しんだりしているのを見ても、私はほとんど情緒的な反応をしない。
泣いている人には「ティッシュ」を差し出し、苦しんでいる人に対してはできる範囲で苦しみの原因を除去すべく努力するが、それはどちらかといえば計量的な知性の活動であって、私の魂がその痛みや苦しみに共振しているわけではない。
私が苦しむ人に相対したときに集中する主題は、とりあえず苦しみを軽減する「対症療法」的な処置は何かという短期的な問いと、このように苦しむに至った歴史的・構造的な原因は何かというもう少し長期的な、いずれにせよ非情緒的な問いである

内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年1月26日

全くその通りだな、とこれを読んで思った。
最初の一文から薄情だと感じられるかもしれないが、
「苦しみの原因の除去」と情の有無に直接の関係はない。
苦しみに共感するかどうかは、ウチダ氏の言う「非情緒的な問い」の後の話だ。

同じ苦しみをこちらも分かち合ってこそ当人は癒される。
確かに「一緒に泣く」ことに実際の効果はあるかもしれない。
ただそれは途方に暮れるというかよほど不運な状況に限ってのことか、
あるいは「苦しみの原因」が解明し尽くされた後の「締め」として起こりうる。

いや、原因なんて分かっていて、ただ一緒に泣いて欲しいのだ。
そう言われれば恐らく自分も、泣くまでせずとも困った顔くらいはするだろう。
ただやはりそれも非情緒的な振る舞いにならざるをえない。
原因を特定できる知性は働いていながら、情緒に訴えられても本気とは思えない。

まあそこは難しくもなくて、おおかた本気ではないのだろう。
自分自身も大学を出てから「情緒まっしぐら」の人間は見たことがないし、
よほど深い付き合いでもしなければそのような(どのような?)面倒事に遭遇しない。
さて、自分は何が書きたかったのか?


ウチダ氏のこの日の記事で興味深いのは2つの構造の対置である。
「慰藉[いしゃ]の構造」と「説教の構造」。
説教と言われると酔っ払いの繰り言のようなマイナスイメージをすぐ抱くが、
これは「事情を見渡せている者からのまっとうな進言」のことだ。

苦しむ人に向けるもっとも効果的な慰藉の言葉は「この苦しみはあなたの責任ではない」というものである。(…)ある邪悪にして強力な存在が、あなたの幸福の実現を阻み、あなたを苦しめているのだ、というかたちで本人をその不幸から免責するのが「慰藉の構造」である。(…)
その対極に「説教の構造」がある。

説教は、「あなたの不幸の原因のかなりの部分はあなた自身が育み、肥大化させたものである」という前提から出発する
したがって、「説教者」は、あなたの苦境のどこからどこまでが「あなた自身の選択の結果」であり、どこからどこまでが「外的要因によるもの」であるかを腑分けし、「自己責任」部分について、「なんとかしろ」と指示し、「外的要因」部分については「そこから逃げろ」と指示するのである。(…)

不幸を構成するファクターには「何とかなるもの」と「どうにもならないもの」がある。
何とかなるものは何とかし、どうにもならないものはほおっておく。
すごく単純である。

同上

説教が耳に痛いのは、まず自分の責任を明言されるからだ。
言われる方は既に分かっていても、改めて外から言われると苦痛である。
そして説教の内容に目新しいものがなければ聴き手に得は何もない。
だから説く側が予め判断すべきは「この人は事情が分かっているのか?」だ。



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