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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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われわれの脳には、なにかに実在感を与える機能が存在する。一般にそれは、かなり強力であって、本人はそれにほとんど疑いを感じる余地がない。そのような実在感は、脳の置かれた状況によって、さまざまな対象に付着する。数学者なら数学的世界に、哲学者なら言語による抽象世界に、ふつうの人なら身のまわりのモノに、株屋なら株、金貸しならお金、魚屋なら魚、というわけである。だから私は、死体に実在感を感じるのである。
養老孟司『続・涼しい脳味噌』p.21

ここで養老氏のいう「実在」は、形のあるモノを指すのではない。
それも含まれるが、総じて人が自分にとってリアリティを感じるもののことだ。
「実際に存在」しているのは、各人の脳の中でのことである。
しかし脳内のある一部分を占めるそれは「かなり強力」な存在感を放つ。

旅の総括で書いた「実体」とこの「実在」は異なる。
今読み直すと所々で異なる使い方がなされてはいるが、
主には「形のある、日常生活を構成するモノ」の意味で用いた。
旅の総括のその文脈を一言で再現すると、「実体に実在が伴っていなかった」と。

 養老氏の考えに即せば、小説世界や思考内容は自分にとって「実在」である。
 ただその実在感をそのまま他者と共有することはできない。
 その実在感を前提とした話をしても通じないということだ。
 共有を目指すなら下準備がいる

前に「実体を大切にする」と書いたのは他者を意識してのことでもある。
実体は、その同じモノを目の前にする他者と存在感を共有することができる。
実体に対するイメージが異なろうとも、その違いを議論する前提は共有できる。
この前提の共有をすっ飛ばしてコミュニケーションを図ると碌な事が起きない。

…と言いつつ、同時に集団が嫌いで独りを充実させたいとも言う。
どっちなんだ、と思われそうだが、集団は嫌いだが他者が嫌いなのではない。
一対一で根を詰めて話す機会は基本的に歓迎する準備はあるのだが、
気をつけろと自分に言っているのは「その会話は"独り"の延長ではない」こと。

人それぞれの実在感と、人と人の間の実体の存在感、この意味を心に留めておこう。

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