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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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年の終わりに一年を振り返り、年始めに一年の抱負を書く。
ブログ上でそれを建前にしかし実際は思い付いた所から書き散らすという日課ならぬ年課を、今年も支障なくできている。
「毎年同じことをやる」ことの効果はいろいろあるだろうけれど、今思ったのは日課と年課とはやはり違って、体内の細胞サイクルなんてのは日課であって、何が言いたいかというと「一定の時間間隔で同じことをする」点では同じでも日課はどちらかといえば身体が慣れれば続くものだけど、年課は身体が慣れるほど頻繁にやるものでもないのでやろうと思う意識がないと続かない(外的要因(他人と一緒にやる、とか)を設定する手もあるけれど)ということで、しかしそのような年課が日課のように思えてくるというのはどこかしら意識と身体の距離が縮まったような感じがしないだろうか、とか。

それはさておき、「往く年来る年」というタイトルで書いている毎年恒例のこの記事は本ブログができる前からやっていて、その習慣で(内容的にはこちらに書いてもよいのだけど)古い方のブログに書いてます。
論旨もなければ結論もない(「出れば出る」けどね)、人に読んでもらう文章かといえば首を振らざるを得ない文章ですが、お暇な方はどうぞ。
日に何度か更新されながら気が済むまで(というか帰省から戻るまで)だらだらと続きます。

深爪エリマキトカゲ(今のところ2の途中まで書いてます)

そういえば昨日だったか、朝日朝刊の「ののちゃん」の一こま目でテレビ画面に
 「逝く年狂う年
とあって笑った。
こういう自覚は持っておきたいですね。
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 子の領分とは、子ども部屋のような、母の作った巣を意味しない。それは、彼がいたずらな小人たちと会うことのできる場所のことだ。母に包まれることなく、自分ひとりの孤独を守れる場所のことだ。
 いったいに、子どもの成長にとって、孤独に慣れることは重要なはずだ。どこにも位置づけられない、なにもにも包みこまれない、自分ひとりに慣れることは、成長の過程になくてはなるまい
 これに慣れておかないと、最高の孤独である自殺へと短絡する誘惑に弱くなる。自殺した子どもは、たいてい孤独になれる場所を自殺への過程で求めている。この現象を、彼のそれまでの生活における孤独の欠如から来ている、とぼくは考えている。彼は、それまでの孤独の不足を、自殺によって一挙にとりもどそうとする。それは、家庭の不在などが原因ではないし、またもちろんのことに、自殺した子の家庭に「甘え」があって「きびしさ」がなかった、といったものではない。

森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』p.57-58(「父と母と、そして子と」)

孤独と自殺は正の相関関係にある、と常識は言うと思う。
けれどここではその逆を言っている。
「孤独になれる場所を求めて自殺する」という部分にドキッとした。
自分にその傾向があるから、ではない。
きっとこれはその通りで、しかし孤独を求めて死に引き寄せられる子どもに、果してその自覚が持てるのだろうか。
そう考えた時、いや、持てるはずなんかないと思ったからだ。
自分で死を選ぶなら納得して死にたい、という話ではない。
自分が死を選ぶ意図が分からないまま実行に移してしまうのは、本人は主体的に動いているつもりでも実は「まわり」がそうさせている。
抜粋の話ならそれは両親(家庭)かもしれないしクラスメイト(学校)かもしれない。
そして「まわり」である、彼の生活環境を取り巻く人々が悪いのかといえば、その中の特定の誰かが決定的な影響を与えたのかもしれないが、その特定の誰かも彼と同じ状況(自覚がない。さらには悪意もなく、自分の振る舞いが自然だとすら思う)にある。
つまり「そういう流れがあった」としか表現できないような、非常に気持ち悪いものを感じて胸が疼いたのだった。
無責任な表現に見えるかもしれないけれど、それは「責任者はどいつだ」という目で見るとそう見えるからで、そしてそういう見方がまさに自覚なくこの「流れ」を形成している。

ちょっと別の部分を掘り下げてしまったので戻す。
自分は教育に興味があり、教育関係の新書や教育論のオムニバス本などを時々読む。
その自分の教育に対する興味の出所について、「誰しも子ども時代を経験しているからテーマに普遍性がある」「いずれは自分に子どもができることを想定している」といったことを書いてきた。
そのどちらもある程度当てはまってはいるだろう。
けれど僕の読み方はあらためて意識するに「誰かの教育のため」でなく「自分の教育のため」であって、するとほんとうのところは別の部分にあるのではと思った。
つまり自分こそが「子ども」なのだ。

もう少し正確に書こう。
ある意味で子ども時代をすっ飛ばして大人になってしまった自分にとって、もう一度子ども時代をやり直すことが必要なのだ。
一般的な話にしてみよう。
現代は「一億総幼児化」と概して言えそうな論をよく目にする。
モンスターペアレンツ、マナーの悪い老人、ブラック企業(これは違うかも)など。
大人としての倫理、節度が備わっていない大人をして幼児化と呼んでいるのだけど、これは「見た目は大人、中身は子ども」という名探偵コナンの逆の…ではなくて。
えーと忘れた、なんだっけ。

そうそう、幼児は子どもとは違って、というか子ども以前で、周りを気にせず我が儘に振る舞うのが本領で、それが終わって教育を受けられる状態になって初めて子どもになる。
だから、幼児化している大人に教育が必要なのは確かだけれど、まだその必要の前提を満たす状態に達していなくて、その前段階で幼児から子どもになるために必要なのは教育ではない。
…上の話とつなげるなら必要なのは「両親のほどほどに放任な保護を通じて孤独を獲得すること」(飛躍してるなあ)なのだけど、最初に言いたかったのはこれではなく。

「大人」も「子ども」も役割であり性質でもあって、社会に出れば大人の役割をこなさねばならないけれど、どれだけ歳をとっても子どもの性質が人の中から失われてはいけない。
そして「教育を受ける身ぶり」によって大人は子どもの性質を取り戻すことができる。
のかもしれない。
ということが言いたかったのかもしれない。


抜粋と全然話は変わったけれどそれはよくて、「孤独は大切なんだよ」と教えてくれる、なんだか活力をくれる文章だったのだ。
家庭や学校を否定しているように聞こえるかもしれないが、それは「よい家庭」や「よい学校」なるものが語られ過ぎたためである。

ある価値観を持ち上げるために、比較対象をけなすことがある。
個人の中で心のバランスを保つためになされる場合は、どうこう言う筋合いはない。
ただ、それを集団で、しかも当たり前のようにしてしまうと、よくない。
それがよくないと先に気付けるのは孤独の側で、そしてそれを集団に伝えてあげるという使命も孤独の側に生まれる。
別のなにかを貶めることなく、なにかの良さを人に伝えられればと思う。

 むしろ、「父のきびしさ」と「母のやさしさ」なんて、なんの根拠もあるまい。父なるものは不在であっても自分の領分のなかでみずから成長することができればよいし、母なるものの幻想がおおっていようと、待避する領分がありさえすれば安全だ。
 それは、自分に固有の領分で、自分に固有の小人たちと面会できる場所である。父にとって悪い子になることができ、母の世界からはみだすことのできる場所だ。これは、実在の世界である必要すらない。彼の心の中に、そうした世界があるだけでよい。

同上 p.58
 わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
 ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。(…)理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。

田中小実昌『カント節』p.18-19(「ジョーシキ」)

自分が体験したこととか、頭の中で考えたことを言葉にする。
人が言葉を喋ったり書いたりする最初の動機はそのようなものだ。
(この「最初」は起源の話ではなく、その都度の最初のことだ)
その時、言葉を道具として使うことになる。
しかし哲学というのは、本当は、どこか途中で言葉が道具じゃなくなる時から始まるものかもしれない。
極端に言えば、自分が何を言っているのか分からなくなってくると降りてくるのだろう。(哲学の神様が?)
書く動機として頭の中には何かがあった。
その書く前から頭の中にあったものが、既に素晴らしい内容であることはありうる。
けれどコミさんの言う「におい」は、そこには含まれていないのではないか。
「むりかげん」というのも、何やら難しい話を書き進めるうちに熱が入ってきて、論理よりも情熱に任せてぐいぐい筆が走る、という光景がそこから想像できる。

しかしそういうトランス状態になる前は「自分」があったのだろうけど、コミさんは同じトランス状態といってもだいぶ違うようだ。
情熱なんて表現は程遠くて、淡々と、といった感じ。
「空っぽ」と本人は言っていて、なるほどと思うのだけど「空っぽ」なはずがない。
というより、何が「空っぽ」なのか。
それを知りたいと思ってコミさん本を読み進めているのだなと今思い出した。

 自分がしゃべってることが、ふらふら、あっちにとんだり、こっちにいったり、行方がわからないのでは、自分でありつづけてるとは言えまい。アイデンティティがどうもわからないなどと言ったが、本人にアイデンティティがないんだもの、アイデンティティなんてことがわかるわけがないか。
同上 p.160(「I・Dカード」)
「他人に迷惑をかけない人間」というのを、やたらと持ちあげることに、ぼくはおおいに不満なのである。(…)むしろ、迷惑をかけあうことこそ、人間の社会性と言えるくらいだ。それに、社会的弱者にとって、この「迷惑をかけるな」は差別として作用することが多い。問題は、迷惑をかけていることに鈍感になるな、ということだろう。
森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』p.30
これも自覚の話。
自覚の話は「言うは易し、行うは難し」であることが多くて、例えばこの場合だと、自分が他人に迷惑をかけている自覚を実際に迷惑をかけることの抑制作用と切り離すことが難しい。
自覚さえあれば傍若無人でも大丈夫なわけはないし(自覚が言葉だけになるとこうなるのだが)、過剰な自覚を背負い込んで縮こまっていてもいけない(僕は主にこちらに属する)。
だから「行動を伴う自覚」とするにはこの論理一つでは足りない。
もちろん森先生のことだから続きにちゃんと書いてある。
 うろうろして首をつっこむときは、迷惑をかけないようにするわけにはいかない。(…)それで、やじ馬のマナーくらいはあろう。たぶんそれはオジャマムシの妙なやつと自己規定する道化気分でもあろうか。
 道化の気分というのは、人間としてかなり高級なことに属するから、うろうろと人に交わるというのは相当にややこしいことだ。しかし、人間はややこしさを避けていると、どんどん縮こまっていく。してみると、小さな仲間にオジャマして迷惑をかけるというのは、ややこしさを注入してあげることでもある。
(…)
 だから、目的といったものがあるとすれば、なにかを探し求めるのではなくて、とかく閉じこもりがちな自分の心を、ややこしく解きほぐすことにありそうだ。この点で、目標を求めることへの無精さと、ややこしさを求めるやじ馬性とは両立し得る

同上 p.30-31
人にとって、ややこしさは必要なのである。
そんなもの必要ないと思っている人にこそ必要なのだ。
それだから、相手に流されるだけでは決して、ややこしさを必要としている人にややこしさを注入してあげることができない。
しかし、話はわかるが、果して話だけでこうも動けるものか。
きっと、それは難しい。
だから感じなければならない。
「他人がややこしさを必要としていること」を、その人に自覚なんてなくても、その人が暗に発しているものから。
そしてそれを感じる力や方法といったものは、おいそれと会得できるものではない。
その力を持っている人が近くにいれば、きっとその人とある程度一緒に過ごす時間があるだけでわかってくるものだ。
けれど近くにそんな人がいない場合はどうするか。
自分でその力や方法を開発するしかない。

なんだか話がずれている。
その方法の開発に興味はあるがそれはまた別の話。
この抜粋の中で「おっ」と思ったのが下線部で、簡単に言うと「ばらばらに思えた性質が一つの筋道で繋がると強くなる」と思ったのだった。
強くなるというか、意味があると思えるというか、「自分のこの性格、面倒臭い短所としか思ってなかったけど、自分のやりたいことに活かせるやん」と思えるというか。
一人の人にはいろんな性質があって、人の性格を一言で言い表せるなんてことはないけれど、それは決して一つひとつの性質が何の関係もなく散漫に存在しているわけではなくて、何せそれらのいろんな性質は全て一つの身体に宿っているのだ。
だから、お互い関係ないように思える自分の性質たちも、視点によっては一つの文脈を介して繋げることができるし、そうやって繋げることができると、個々に独立して発揮されていた以上の効果を(その効果を発揮する場面も分かってくるし)発揮することができるようになる。
この「視点を持つ」「文脈を発見する」ことは言葉によってしか行えない。

上で一度ずれた話とつなげるなら、自分でその力や方法を開発するにおいて、言葉は非常に重要な役目を果たすことになる。
この場面で「誰もそんなこと言ってないから…」と自信をなくすことは論理的に間違っている。
「自分の文脈」を発見できるのは自分しかいないからだ。
他人の共感が登場するのは、自分で見つけた「自分の文脈」を他人に向けて発揮した時になって初めてのことだ。
論理の力は、このような所で日の目を見る。
そのはじまりは実質を伴わなくとも、論理を実際に適応して効果が実感できれば、論理への信頼に実質が伴うことになる。
これは論理が使われるのではなく、新たな論理が作られる場面の話である。
最後の方を書いてて思ったけど、自分が好んで読む方々の思想の折り合いを自分の中でつけねばならんなと思った。個々に読んでいる間は「なるほど!」と思っても、そのなるほどが別の本の否定に思ってしまうということはその両者の思想が自分の中で敵対しているということだ

だから、本の内容を自分の内に吸収するということは、別の著者の言うことと相性良く自分の中に住まわせるということだ。これは誤読というか一著者の思考の曲解にも繋がるのだけど、読み手に重要なのは誤読をしないことよりも「自分にとって良いように読む」ことだ。

(…)

つまりここに書いた方々のみんなから自分に取り込めるものを探すというのではなく、一つの本を読むその都度に感心したことについて、「なぜ自分が感心したのか」を問う、ということだ例えば。他者とか常識の価値観を借りて感心してるだけかもしれないんだ
これは昨日の記事を書き終えてからツイッターでつぶやいたもの。
書き過ぎて疲れた後に、ふっと余韻のような、整理体操のような感じでこういう言葉が出てくるんですね。
無理はしてみるもんです。
調子に乗っただけだけど。

それでこの指摘が自分にとって革命的だと思ったのは、今まで自分の好きな本はだいたい「なるほど!」と納得しながら調子良く読んできたのだけど、その「なるほど」同士のリンク付けは興味を持ってやっていたけど「なるほど」そのものの質を問うという発想が無かったからだ。
つまり「なるほど」と思える何かしらの文脈を発見した時点で良しとしてきたということで、上記の通りその文脈を(自分が大していいとも思っていない)他者の考えや(自分が距離を置きたいと思っている)常識から持ってきている可能性を検討したことがなかった。
筋の出自がどうであれ筋が通っていれば論理的だ、というようなまるで主体的でない読み方を時々していた…と書いてもまだやわな方で、実際は客観的思考をすべく進んでそのような読み方をしていたのではないか。
そしてたまに自分の感覚に沿う文脈を見つければ「お、これはいいなぁ」と感心するのだけど、この感心と上記の(文脈が無文脈的な)「なるほど」との間に明確な差をつけていなかったのではないか。
もちろんそのような読み方で読書を楽しむことは達成できるけれど、「自分を変える」という意識を持って読むにしては無節操に過ぎるのだ。
…しかしこの無節操な読み方も「流れに呑まれりゃ流される」渡世法とちゃんと通じてしまっていてその点違和感はないのであって、けどそれはイヤだというのはやはり「自分が流されたいと思う”流れ”を選べていない」所にある。
ここが本当に難しくて、いやだんだん言い訳じみてきたけれど、なんか就活してる時に似たことを書いた記憶が甦ってきたけれど(これです)、「流される”流れ”を選ぶ」振る舞いは「(純粋な?)流されの作法」からすれば怠慢だみたいな今書けば屁理屈としか思えない論理が長いこと自分の中で幅を利かせてきたことは事実なのだ。

別に恨むつもりはないが、カント的直観によれば森見登美彦のせいかもしれない。
自分を読書生活に導いた作家がモリミーという点がまず壮大に怪しい(笑)
今『太陽の塔』を読みなおせば、何かが起きるのだろうか。
社会人になってからそれをすることにこれまで何度も躊躇してきたのは「もっかい読んでつまんなかったらどうしよう」という虞のためではなく、「社会人適性値が下がりそうで困る」なんて笑い話的な理由に留まらない、何かが。

…年末文庫版持って帰ろうかな。
 というわけで、この2日ほどは、架空の建築の平面図を描いて遊んでいます(…)1階はガレージと工作室のみ。その他は、レイアウトルームとかコレクション・ギャラリィとかがあって、2階から4階まで吹抜けの中庭。その上にブリッジが架かっていて、ここも将来は線路が通りますね。5階のペントハウスは防音のプレィルームです。はは、夢っていうのは、こうして具体的に見るのがコツなんです(笑)。ビジョンが具体化できない曖昧な夢は、絶対に叶いません
森博嗣『ウェブ日記レプリカの使途』p.20
「おもえばいたる」タグはそういえばこのような思想に基づいた記事を書くつもりで、発端は内田樹氏の「夢(想像)はそれが具体的で細微であるほど既視感をもたらす」という話だったのだけど、自分の夢をいろいろ思い描くうちに「自分の今の生活が否定されるのはやだな」という意識が生まれたのか、具体的にするはずだった想像がだんだん曖昧になっていった記憶がある。
自分の理想像があって、自分の現状がその理想に見劣りすることは当然あって、しかしこのことを「下積み」ととるか「現状の否定」ととるかは自分が現状をどう思っているかによる。
自分の現在の生活が、ちゃんと理想に向かう進路上にあると思っていれば、つまり理想像を実現するために必要不可欠な過程に今いるという認識があれば、現状の不満は理想へ向かう力となる。
しかしそうではなく、自分の現状は理想像と全くかけ離れていて、何か「棚ぼた」的な出来事を期待しているような、つまり現状維持にかまけて理想を実現するための主体的な行動を取っていない(取る気がない)のであれば、現状を理想と比較した時にそれは現状を否定することにしかつながらない。
そして後者の場合に、現状と比較する理想像はそれが曖昧であるほどダメージが少ない(現状をあまり否定しない)ということになる。

夢が曖昧になる理由はだいたいこのようなものだ。
ここで自分はどうしたいのかという話になるが、
僕は具体的な夢を持ちたいけど、それに向けて真っすぐ進もうとは思っていない。
「何をしたいか」ではなく「どうありたいか」を理想像の軸としたい、とずっと考えていて、しかしこの方針は理想像が曖昧になりがちである。
曖昧になること自体は原理的なもので、なぜかといえば状態を微分したものが行動だからである。
言い換えると、行動の志向はその行動一つを実行することに限定されるが、状態の志向はその状態を満たすための数多の行動を経るのである。
だから、僕がしなければならないのは、「曖昧」の意味を変えることである。
夢や理想像が具体的でなく漠然としている、ぼやけていることを曖昧と通常は言う。
しかし僕が理想の「状態」を志向する時の曖昧さとは、その理想像の一つひとつは具体的に想像するのだけれど、その想像の数をどんどん増やして、しかも「一つこれが最善だ」と定めたりはしないということだ。
だから、一つの夢を具体的に思い描く時、もちろんそれは自分が望むものだから「いいなあ」と自分に羨望の思いを抱かせるが、ある時点でそれを念頭から引き離す。
引き離すとは、想像の余韻だけ残して具体的な内容を忘れてしまうか、あるいは意識上はきれいさっぱり何も残さないのが良いのかもしれない。
ただその時は、後で復元できるように文章に残しておくのがよい。
いずれにせよ、僕が「夢を形にする」ことは理想像を文章化することに他ならない。

+*+*+*

というここまでは前置きで、さらに別の前置きが続く。
上に書いたように、曖昧さを取っ払いたいと思った。
ここで言うのは、個々の夢の曖昧さのことだ。
そしてそのために、正直に書こうと思った。
今の自分の状況とかけ離れたことでも、ポジティブなことを書けば、今の状況に対してその夢はポジティブにはたらくはずだ。
そして、このポジティブを大事にするために、「現状と夢がかけ離れていること」についても考えねばと思った。
つまり、と言いつつ飛躍するけれど、なぜ「かけ離れている」と思うのかというと、それはあんまり深く考えていないからなのだ。
簡単に言えば、「状態」は表面状態だけではないということ。(?)

具体例を書いた方が早い。
実は会社での部署異動を記念してこのブログをちょこちょこ変更している。
(これはついでだけれど、コメント受付をこれまで不可にしていたのはそれだけ内向きになっていたからで、今後文章がポジティブになっていくことを望むがあんまり変わらないかもしれないけれど、コメント可にするということは読み手の印象や気付きを言語化してもらうことを期待しているということなので、読みにくいとは思うけれど何か思い付かれれば何でもよいのでどうぞ自由にご記入下さい。)
その一つ、タイトル下の一言コメントを変えてみた。
「夢はいつも、プー太郎。」というやつです。
プー太郎が夢というのは保坂和志の小説に影響を受けていることは間違いないのだが、これは厳密には「職がない状態」ではなくて自由人であるということ。

いい例が『季節の記憶』の松井さんで、地元で「なんでも屋さん」をしている彼はいちおう仕事をしているということになるのだろうけれど、自営業と言うほど固いというか確立されてはいない印象がある(いや言葉上は自営業と言って間違いでないけれど、その表現に収まり切らない自由さが松井さんにはある)。
それで、単にプー太郎になりたいのならすぐに仕事を辞めればいいのだが、もちろんそんなことはしない。
保坂氏は小説家になるまでに百貨店で働いていたらしいけれど、それはすぐに専業になる気はなかったということで、詳しいことは知らないけれどその都度の氏の選択の結果だと思う。
松井さんだって、サラリーマンだった時代があるのかもしれない。
何が言いたいのかというと、つまりは「どっちでもいい」のだ。

僕はついこの前に会社を辞めかけたけど結局は続けることにして今は新しい仕事を覚え始めた段階だけど、この新しい仕事をずっと続けるかどうかは分からない。
社内の状況を気にせず自分の希望を通した手前、これからすぐに仕事を辞めることは人として少し憚られるけれど、それは「すぐに辞めない理由の一つ」でしかない。
辞めたいと思えばすぐにでも辞めるのだろうし、そう思うということはその選択に未練なんか残らないのである。
では今の職場に腰掛けでいるつもりかといえばそんなこともなくて、すなわち常に辞められる準備を整えているというわけでもない。
(とはいえ今回の異動で個人プレーの部署に移ったので事実辞めやすくなったが)
社内で自分の立ち位置に応じて必要とされる分は働くし、頑張りたいと思えばオーバーワークも厭わないだろう。
ただ一つ言いたいのは身軽でいたいということで、ちゃんと言えば「仕事を続けても辞めてもどっちでもいい状態」を維持しておきたいということ。
それを腰掛けと言うのだ、と言われてもうまく反論できないけれど、あるいはこの状態だと自分の仕事に本気でかかれないのかもしれない。
それが会社にとって良くないか、自分がその中途半端さに納得できなければ、辞めることになるだろう。
しかし思うに、会社で仕事に没頭している間は「この仕事を途中で放り出すなんて考えられない!」と思うことは当然あってよいと思うけれど、その思いを家に帰ってからも引きずるのはイヤなのだ。
とするとその切り替えができない人のことを会社人間と呼ぶのかもしれない。
別に会社人間を否定するわけじゃないしそういう人が一定数いないと会社が成り立たないのかもしれなくて、単に自分はそうなりたくはないというだけだ。
…あんまり断定するとちょっと不安になるけれど、そして微妙なというかよく分からないので実感なき想像で書くけれど、家族ができればこの考え方は変わるのかもしれない。
そして家族をもつこと自体は良いことだと思っているので、自分が今否定した考え方とはうっすら繋がっているとも言える。

どんどん話がそれたけれど、言いたかったのは「状態の志向は行動を限定するものではない」ということだ。
ただ「状態の志向」そのものはとても曖昧なものだから、油断して日々の行動に引きずられるといつの間にか「自分は今なぜこれをしているのかが分からない」ということにもなる。
だから日々考えておきたいし、そう話を戻せば「具体的な理想像」を日頃から蓄えておきたいと思ったのだった。
そして「おもえばいたる」タグを仕切り直しで本腰入れて充実させようかと思って、第1弾として(自分が住みたいと思っている)「縁側のある家」について書こうと最初に思っていたところまでやっと戻ってきたのだけれど、どうも前置きが長過ぎた。
これじゃ前と変わらない…というのもイヤなので、宣言を一つ。

今は『もう一つの季節』を読んでいるけれど、このまま未読の保坂小説を読み終えたら既読のものを何度も読み返そう。
自分の理想像の一つは、明らかに一群の保坂小説によって形作られている。
一読目は雰囲気を楽しむ(+哲学的な思考を楽しむ)だけだったが、自分の夢を具体化するという意思のもとで再読してみよう。
なんか表現がかたいかな…読み方のイメージとしては「登場人物になりきる」といった感じだろうか。

まず何より、上で正直にと書いた通り、「僕は保坂小説のような生活を理想的と思っている」ことを自分の中で明確にすることだな。
そしてその思いは「その理想像と今の社会人生活がちゃんと繋がっている」ことを意識できれば確固としたものになる。
考えることは沢山あるけれど、ゆっくり着実にいこう。
と、毎日売店で1つ買って食べるようになって思う。

最近また文章を書く気が起きなくて、
でもその理由はこれまでとは違う。
文章を書くことが会社での仕事になったからで、
それにけっこう満足しているようだ。

「考えたいことを考える」もウソではないけれど、
「考えたいこと」は、まずは外から与えられる。
「書きたいことを書く」もこれと同じ話で、
「書きたいこと」の書きたさは内容で決まるのではない。

テーマが外から与えられて、
そのテーマに対する考察やその結果の出力は、
それが自分本位にできるからこそ楽しい。
形式に縛られずという意味でなく、形式にはまり込む自由もある。

「ものを考えられる状態にしておく」ことを維持したいと思っていた。
だから仕事が思考停止を伴うものであった間は、家でことさら考えていた。
今は会社でも余裕があり、わりと正常に頭が回った状態を保てている。
この生活に慣れてくれば今みたいに書くことがなくなるかもしれない。

それはそれでいいことかもしれない。
家で本を読むスタイルは変わっていない。
会社で書いているから入力過多になることもない。
「入ったものは出す」ではなく「入った分だけ出す」という感じ。


人との接し方が気がつけば変わっていたようで、
それは前とどう変わったかも分からないような変化で、
もしかして今まで意識していなかっただけかもしれないし、
つまり自分の同じ振る舞いに対する意識の度合いが変わっただけか。

その詳細は書かないけれど、そしてこの現状がよくないとも思ってないけれど、
時々は今の「自然」に逆らって無理をした方がいい時もあると思っておきたい。
ようやく落ち着きつつある今に至るまでに4ヶ月ほどかかったけれど、
そのきっかけは2人の同期が与えてくれた。

社内ではとてもそんな雰囲気にはならないけど、どこかで礼を言わねばと思う。
与えられた状況にどう適応するかだけを考えたいた当時の自分には、
適応し切れなければ辞める選択肢はあっても部署異動という発想がなかった。
矛盾めいた言い方をすれば今回僕は「主体的に行動させてもらった」。

結局はそういうことなのだろうと思う。
「流れに乗ると思えば自分から動ける」と前に書いた。
受け身によって主体性を発揮するのだが、その発想は主体的なものだ。
どのような行動や思想も、解釈する次元によって主体的にも受け身にもなる。

そして、このようなすっきりした言い方で区切ることに躊躇いを感じる。
いや、内容はすっきりしていないが、言い切ること自体がすっきりになる。
修行の要はその日の稽古の終わらせ方にあると甲野善紀氏も言っている。
調子がピークになる手前で終われば、寝ている間も頭の中で稽古が進むそうだ。

文章を書くことに当てはめれば、「まだ言い残しがある」地点で止めることだ。
書き始めは滞っていた思考が滑らかになり、結論がうまくまとまる予感がする。
そんな時に、ちょっと話題を逸らせたり、枝葉を掘り下げたりしてみる。
「喉まで出かかった言い残し」が消えないようにそれをするのが難しい。

+*+*+*

年の瀬ですね。
気がつけば来週で仕事納め。
今年はどのような年末になるだろうか。
今年はいつもと少し違う年末になる気がする。

その予感を楽しむ。
ピコピコ。

マイペースで仕事ができるというのは幸せなことだ。
やる気がある限りそれはプラスにはたらく。
残業がふつうにできるようになった。
前までの働き方に問題があったのは明らかだ。

変わり目ついでに社会人ぽいことをしてみた。
ひとつは、腕時計をはめること。
ひとつは、制服のズボンにベルトを締めること。
効果てきめんに身が引き締まったようだ。


聴く音楽、読む本の傾向もこれから変わっていきそうだ。
以前は全然聴かなかった、楽しげな曲を聴こう。
ストレートに前向きな本も読めるようになるかもしれない。
逆に言えば『森の生活』が中断に追い込まれそうな気配。

橋本治とその系列は引き続き、というかどうしても外せない。
むしろハシモト本だけ読み続けてもいいくらいは積ん読がある。
しかし未読本の処理ばかり考えるのも不自由だ。
『ああでもなくこうでもなく』シリーズを読み返すのはどうだろう。

あ、いいかもしれない。

しかしとりあえずは『人はなぜ「美しい」がわかるのか』を読もう。
今日読み始めてさっそくエンジンがかかってきた。
「美しいがわからないとは自分以外=他者がわからないということ」
直球ですね。

 「美しい」ことのわからなさを、
 「美しい」を理解したいという欲求とは別に、
 「美しい」ことが直接は何の役にも立たないことを、
 「美しい」を分析して得られる洞察とは別に。

わくわく。
昨日「空っぽな自分」と書いたけれど、
少し後になって田中小実昌を連想した。

『ポロポロ』の主人公は、空っぽだった。
自分に何か役割が与えられると、演劇が始まる。
比喩でなく、現実が全て演劇になる。
役割が何もない時にどういう状態にあるかというと、
空っぽという以外は何もない。
主体性がない、というのとは違う。
そんなものはなからないのかもしれないが、それは些細なことだ。
ものすごく客観的といえばそうで、しかし冷酷にはならない。
冷静ではあるかもしれないが、何より滑稽なのだ。
この、滑稽であるという認識において初めて、笑いが起こる。

これは「空っぽ名人」というか、まあ小説の中の人ではあるけど、
実際いるわけがないと言う気はない。
たぶんそういう性質の人はいて、しかし彼は自覚していない。
この性質の備わることが一つの超越で、
そしてそれを自覚できていることがさらにもう一つの超越なのだ。
正直に言えば、憧れる。
この自覚はなんと自意識ではないのだ。
矛盾めいたことを言っているけれど。
そうか、自意識過剰がメータを振り切って機能していないのだ。
自意識として。


この「空っぽ」という性質に自分はどこかしら親和性があるように思う。
コミさんの小説をもっと読みたいと思った。

そしてその前にたぶん、仕事を頑張ればいいのだと思う。
急に現実的な話になるけど、今しっかと認めるけど、自分はやる気がなかった。
昼食を抜いて、夕方腹が減ったといって残業せずに帰る。
これをやる気がないという以外にどう表現すればよいのか。

というわけで明日からは昼食ふつうに食べます。
そのかわり朝と夜は小食。
さあて体重が年末までにどこまで減るかしら。
(実家に体重計があるのでその時に結果がわかる)
この前の健康診断でたしか63kgだったかと思う。
別に数値にこだわらないけど。
実験です。
近況。

食生活の改変はまだ移行途中だけど身体が軽くなった感じはある。
吐き気はなくなった。

そして風邪をひいた。
昨日の夜から体がだるいのと、今日は鼻水がよく出る。
週末に体調を崩すというのも調子が戻ってきた証拠だろうか(?)
なんだか風邪の症状も「まっとうな風邪」のそれに思える。

そうそう、味噌とカボチャとネギが沢山残ってたから、
それの処分があって移行期間が長引いているのだけど、
味噌汁の具が減って汁が透明なのに感動してしまった。
つるっと喉を通る味噌汁というのは素晴らしいものだ。

今まで何を食べていたのだろうか…

+*+*+*

なんだか考えを文章化する気が最近起きなくて、
その理由についてさっき考えてみた。

いつも何かしら念頭にあって、
そのうちひとつをチョイスして思考を深めたいと思えば書くことになる。
けれど最近の「念頭の事々」はそうは思えなかったのだろう。
あまり書かない方がいいと思うことはもちろん直接書くことはできない。

「なぜ”あまり書かない方がいい”と思うのか」についても、
その内容を間接的に示してしまうようだとやはり書きにくい。
だから、何か書きたいと思って書けるなと思ったことが、
「あまり書かない方がいいこと」であった場合に、
遠回しにオブラートに包んで迂回的表現を駆使して抽象的に書いている。
普段の自分は。
その「訳の分からない抽象」から後の自分が復元できないことも織り込み済みで。

しかしその手の書き方が少しイヤだなと今の自分は思ってしまっている。
何故にというに、その書き方では人に伝わらないからだ。
いや、もともと人に伝えようと書いたものではない。
リアルタイムで書く自分の思考を発展させることが主目的である。
がしかし、これも文章を書く行為に他ならず、
ここで今ブログを書いている以外の文章を書く行為と少なからず繋がっている。
(そして文章を書く行為と言葉を発する行為も繋がっている)
意識では別だと思っていても、相互影響をそう簡単に排除できるものではない。
生活の各コマが有機的に繋がっていればこそ、自分の思う以上に関係している。

書くうちに自分が言いたいことが分かってきた。
趣味(というか思想)が仕事を侵蝕している。
端的に、今の自分が展開している考え方でそのまま仕事をすることはできない。
部屋で一人で考える時というのは大体において、
非協調的(非社会的)でニヒリスティックなのだ。
無常観を内に抱えてこそ得られる視点は確かにあって、
あるジャンルの読書の醍醐味はその「空っぽな自分」を開放できるからだ。
ただ、それを(読書以外の)他の生活領域と切り離すことを全く考えていない。
それは「読書経験が生活に生かされる」ことの一つの実践だと思っていた(が、
これは考えが単純過ぎるのかもしれない)。

ともあれ、
何でも頭で考え過ぎだということはまず間違いない。
生活が緊張していればいるほど、頭だけで考えることの不安が大きくなる。
それを問題だと思って、解決したいのであれば答えは1つ。
時間ですね。
つまり、仕事が過渡期だということ。
今回の件は冷静に考えると、転職に比する変化なんではなかろうか。
だからといって、なるようにしかならないのだけど、ほんとに。
来週1週間で落ち着けばいいな。
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