忍者ブログ
幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ひきつづき。

というわけで早速食生活を変えつつある。
まだ作り置きが残ってるので移行途中だけど、
とりあえずこんな感じに変えようと思っている。

朝食:
 納豆チーズトースト+サラダ+目玉焼きベーコン
 +りんご半切れ+kiriチーズ+ヨーグルト+ミルクコーヒー
  ↓
 グラノーラ+リンゴ半切れ(+ベーコンエッグ)+ヨーグルト

昼食:
 パン+オールブラン2切れ(1袋)
  ↓
 社食…A定食ご飯少なめ(味噌汁なし?)

夕食:
 ご飯+スペシャル味噌汁+豆腐
 +おとも(マグロ煮付orいわし?+野沢菜?+ニンニク漬物)
  ↓
 ご飯+キムチ+インスタント味噌汁(+豆腐?)
 or スパゲッティ

「一日の必要栄養摂取量」という言い方をするけれど、
一日というより数日(あるいは一週間)単位で考えるものではないか。
それが日替わり定食のコンセプトなのではないかな。

朝食は入社以来の変更で改革といっても過言でないのだけど、
未練も何もない。楽になるし。
しかし改めて見ると食べ過ぎてたな…
夕食は入社時に戻すような感じになるが、
あの時は無闇に主食の炭水化物を盛っていたので、
今回はそうならないよう気をつける。
空腹を思い出したい。
「わりとお腹いっぱいになったけど足りてないかもだからもう少し食べよう」
みたいな身体を無視した食事をとらなければまず快方に向かう。確実に。

というようなことを考えながら今日はスーパーに行って、
グラノーラを大量購入した以外の食材の少なさにびっくりした。
まあ、自炊の楽しみはとりあえず度外視しておこう。
今は食べる量を減らすことが健康につながる。

この土日でちょこちょこ食べる量を減らしていて、
食後に満腹にならないようになって身体が楽になった気がする。
吐き気も薄れてきたような。
(しかし日常的に吐き気がしてたのになぜ異常と思わなかったのか…
 あ、ストレスのせいにしてたんだ、そいえば)
「何かが足りない(満たされていない)」と思ったら水を飲むことにしよう。
水は万能。身体は水でできているからね。
会社でも水分補給を意識しよう。

あまり一気に変えない方がいいかもしれないけれど、
それを意識しつつ体調をしっかりモニタリングしよう。
いままでもしてたつもりというのがほんとうにあてにならんのだが、
これも学習、きちんとフィードバックできれば精度は上がる。

そして身体の変化というのは緩やかに起こるものだと思っておく。
気長に、忍耐強く。
 医者に行って薬もらえば正確な診断のもともっと早く治るかもしれないが、
 病気には時間がかかって回復はすぐというのはなんかいやだ。
 病気の治療に効率の概念が入ってくるのは、体をモノ扱いしているということ。
 病む時はしっかり病まねば、身体に愛着が持てなくなる。
けどまあ、時々は情報を頼りにもしよう。
今回も健康診断がなかったらどうなってたか分かんないし。
最低限の社会性は維持する、と。

+*+*+*

全然話変わるけど、MIDIキーボードを買おうかと発作的に思いついた。
耳コピで譜面を書くのに、もう時代は鉛筆と五線譜ではないらしい。
仕事が落ち着いて、その気になれば。
ふふ。
PR
あらま。

あらま天狗。

いやなんという恐ろしいタイミングか今日健康診断の結果が出まして、
GTPだかGPTだかの数値が去年(一昨年?)と比べて跳ね上がっていて、
ぶっちゃけどうやら肝臓がよろしくないようです。
で肝臓不調系の疾患と症状を調べてみるに、全く自覚がなかったんですが
不覚なことに(重複)、食べ過ぎ&飲み過ぎ生活を送っていたようです。
詳細は書きませんが(というか過去記事に全部書いてある)、
もしかすると食習慣をがらりと改善すれば、
思った以上に色々な事態が快方に向かうかもしれないと予想されるわけで、
(ヤボいですが「あらま」はこの下線部を指しています
まあ感想を一言で表せば「一人で生活するのもたいへんだね」と。

まあ詳しくは書きませんが(二回目)、
特に後悔してるわけでもないので、
(なんつか、内容でなく形式として、後悔しないような生活を送る努力をしている)
生活の設計の仕方は変えずに生活を改善していこうと思います。
おそらく身体をガタつかせたのはおおかた自分のせいで、
長期間にわたる蓄積が今の(というより数ヶ月前からの)不健康を出来している。
一気に底落ちしたきっかけは外因にある可能性もあるけれど、
むしろそのお陰で不健康が(もっと後に気付くより)緩やかに顕れた可能性もある。
気分的にはその外因を事故以外のなにものでもないと思っていたけど、
長期的に見れば「塞翁が馬」なのかもしれない。
まあ感想を一言で表せば「一人で生活するのもたいへんだね」と。(二回目)

しかし空腹だと思っていたものが空腹ではなかったというのは、
自分の身体のことどんだけ分かってへんねんとかなりショックではあった。
(あるいは飾磨氏(@『太陽の塔』)の名言を地で行くという証明だろうか)
この肝臓不調の感じを覚えておこう。
とか頭で言ってるからダメなのかしら。
いやいや。
必要であれば身体が覚えてくれる。
現代的には本当は頭は身体のために情報を仕入れてあげるのが正解なのだろう。
分かっちゃいるけど、ね。

かんぞうくんを、いたわろう。
そいや前の検査から7kgくらい太ったとはいえまだ適性体重に届かないんだけど、
これでまた痩せ戻りそうだな…平均なんてぜんぜんあてにならん。

ああ…ホントに転機だな。
記念にテンキー買おうかな。
会計士の姉は「おテンキーお姉さん」。
くだらねえ。
うるいなら泣いて笑ってくれるだろうに。
(「うっわー何言ってんのー! 超おもんねーぎゃははは」みたいな)
うう。
伏線の回収。

ようやく異動が決まりました。

その意思をもって行動を始めてからずいぶん長くかかって、
まあ行動といって「何かする」よりは「何もしない」の方が近いけど、
単に現状に耐えるのではなしに、そつなき日常と同様に「何かを得続ける」
という努力(身を入れて読書をする、とか)は体力が少ないと難しくて、
やっぱり健康が第一だよねと挫折しかけたこともあり、
あれけど元をたどればその挫折が意思のはじまりだったような気がしないでもなく、
まあぷかぷか浮かぶ意味の泡を割らず掬わずで漂わせる作法というものが
渡世のついでに身についたということで成長したね。

てなことはなくわがままになっただけかもしれないが、
周りより自分の感覚に従えるようになったことも喜ばしい一方で
肝心のところでわがままになれない自分もやっぱり嫌いではなくて、
あれこれどう考えても自分が好きという結論に至るこれはオサマーの証。

それはよくて、おそらく来月初旬から仕事内容ががらりと変わるはずで、
しかし所属はそのままの「隠れ社内出向」みたいな非正式異動なので、
よいこともわるいことも含めて何が起こるか予断を許さないので余談をしよう。
(あ、今思い付いたけど「考えるヨダン」の像があるとしたら(ないけど)
 あの姿勢のままで顔は潑溂ピーチクパーチクの口で、
 座っていると思いきやコサックダンスの一瞬間を切り取ったとても動的な像。
 体言止めにしてみました)

よいことというのはこれまで自分の性質としてきた「境界人」の役得で、
複数のグループに所属するとそれぞれの部署内での束縛が弱まり、
責任の緩和や仕事の自由度の増加などの効果が期待できる。
(もちろん程度によってはその裏返しの悪影響にもなるけど)
ただ今まで以上にまたぐ領域間の距離が広いので、
股が裂けないように注意しなければならない。(これは何のメタファーなのか…)
もうひとつよいというか、通常の異動に比べてわるくないことというのが、
非正式という形によるものでこれが何かというと「政治に利用されない」点だ。
逆じゃないのかと言われそうだが、自分で書いていて同感だと言いそうになったが、
そうではなく…あれ、どうなんだろ。
まあこれはわからん。そして僕は政治は嫌いなので振り回されたくはない。
いや雇われの身である以上体は振り回されざるをえないけど心は我関せずでいたい。
ので「とりあえず勝手にしてください」というしかない。

一方のわるいことというのは、がらりと変わる仕事内容の方で、
ありていに言えば「現場を離れる」ということで、
具体的には一日中PCに座ってカシャカシャやることになる。
社会人になる前は「それだけはイヤ!」と思っていた仕事スタイルで、
しかし日々の平穏を求める今は「まあアリなんやないかな…」と思ってはいるけど、
昔の感覚のままだと長く続くとはとても思えない。
けれど昔の感覚のままではないし(断言)境界人なりの工夫の余地もありそうなので、
これも出たとこ勝負で話は「郷に入って」から。
もともと適応能力は高いはずなので最初に頑張っておけばなんとかなる。
適応したくないと思ったらそれまでだけれど、
今回の異動騒動で少なからぬ人に手間と迷惑をかけているので、
まあしばらくはそれを忘れないようにすれば社会人として行動できるんやないかな。
ここのところ「そこから外れても大丈夫だよ(むしろ外れる方が正常だよ)」
みたいな本ばかり読んでいて(というか読書に没入してこのかたそういう本ばかり
好んで読んできたような気がするが、この読書傾向は明らかに「パンピー適応意欲」
の減退に繋がっているなと思う。もちろんそれはそれでいいと思ってる)、
そういう本を身を入れて読むと自由な精神やら身体性が賦活されるのだけど、
会社生活とはなかなか相性が合わなくて(読みの深さが足りないのだろうか…)、
時に社会人的体力の低下を招いていたのでやり方を変えた方がよいかもしれない。
読む本を変えるのでなくて別の習慣を変えるか人を頼るか…そこはまた考えよう。

で、最初に書こうと思ったのが、仕事ががらりと変わるのに合わせて、
入社後今まで間断なく続けてきた食習慣を変えてみようかなと。
簡単に言えば1年目から今まではほぼ毎日同じ朝食を食べてきたし、
去年の夏頃から今まではほぼ毎日同じ昼食(少量)を食べてきたし、
今年のはじめから今までほぼ毎日同じ夕食(大量)を食べてきた。
変える積極的な理由はあまりないけれど、まあ気分ですかね。
昼食を社食の定食に戻して、その量が増える分朝と夜を減らそうかなと。
ご飯をつくる充実もあるけれど、一度その手間を減らしてみてどうなるか。
異動を考え始めた頃からガタついてきた身体を改善したいとも思う。
このあたりは人体実験の心意気で。
(うん、なんかそう考えると元気になってきた。科学者ですな)
それでやっとタイトルの話になるのだけど、
もしか毎日味噌汁生活が一時休止になるかもと思ったので、
おとといの買い物で「京都の白味噌」を「締め」の意味で購入したのだった。
「これは日常的に食べるものなのだろうか…」と当初は敬遠していた白味噌で、
けれどちょっと閃くと(「八木に電流、走る」)それを思い出す前に体が動いた。
まあこれも、休止するかどうかもその時次第だけど。

さて、異動先で最初からしんどい顔見せるのもよろしくないので、
じわじわ元気を出していくとしましょう。
「本物の嘘つきはウソを身体化して本当にしてしまう」と言うけれど、
いや自分の意思が世渡りのためのウソと言いたいわけではないけど、
自分で言ったり思い込むうちに身体化していく傾向が自分は強いようで、
それは能力でもあり病質でもあって、
つまりは病質として表われていたそれをそろそろ能力として発揮しようかと思う。
「思う」と書いて実際に発揮できてこその能力で、
これは迂回のない(個の)自己言及システムで、
しかしこれはシステムの自己言及とは違うのであって、
個の自己言及はシュレディンガの猫なのである。

にゃお。
なんだか気がつけば、
ストパー意欲が失われていた。
意欲というより習慣、というより惰性なのだが、
その惰性すらはたらかなくなったらしい。

てなことはなくて、どうやら自分の髪が気に入ってきたようだ。
もう鬱陶しいを超えて長いのだけど、
うまくリンスを使うといい具合にしっとりとおさまってくれる。
シャンプーはほんの時々でよいのだ(とか言わない方がいいのかな…)。

部署の先輩に美容院の紹介割引券をその場の流れでお願いしてしまったけど、
いらないかもしれない、使わないかもしれない、色んな意味で(?)。

当面はシャンプーとリンスの使い方に習熟して、
髪方(髪の方々)が爆発せんように手なずけるとしみよう。
切るという選択肢がないのが不思議だね。
ま、必要だから。

パーマカルチャーって単語だけ聞いたことあったけど、
調べるとパーマでもカルチャーでもなかったという。
ここでは「縮毛文化」の意味でつかってます。
個人の趣味に文化もなんもないけど。

+*+*+*

『ひとりで渡ればあぶなくない』(森毅)が身に染み過ぎてちと困った。
僕は本を読む時「ふむふむ」と思えば線を引き、
「これは!」と思えば線を引いた上に○とか☆とか「…。」をつけるのだけど、
今日Veloce用に読み始めた本書はほぼ平均1ページごとに○をつけた。
つけたかった、というよりはつけざるをえなかった、というようなつけ方だった。

「みんなで渡ればこわくない」が、「ひとりで渡ればあぶなくない」。
こわいのがいやか、あぶないのがいやか。
僕は、あぶない方がいやだな。

「こわい」のはそのこわさが身に染みているからこわいのだけれど、
「あぶない」のはそのあぶなさに気付いていないからこそあぶない。
こわくても、あぶなさに気付いていたい。
きっとそれが「身体性の賦活」というやつだろう。

(そういや別のエッセイで読んだけど森先生は八幡に住んではったんですね。
 同時期ではなかったみたいやけど、ご近所さんやったとは。
 これからどんどん読んでくエッセイにも特別な親しみがもてそう)
このとき、なにがあったのだろう?

+*+*+*

祝いと呪いと予感

2013/04/05 22:52
「祝い」と「呪い」は同じものだ。
対象を縛る効果として。
その効果の呼び名を対象自らが選びとるのは難しいが、
結果としてそれを決めるのは受け手である。
「祝い」を束縛と呼ぶことに違和感があるかもしれない。
では、「祝い」は対象を生と祝福の(あるいは命の)赤い糸で結わえるものとしてみよう。
するともう一方は、対象に死を負わせる「呪い」となる。
ここでいう死は「不変」に近い。

ある効果の呼び名を決める因は「予感」にあるのではないかと思う。
時の止まった祝福は「呪い」であり、
苦境を乗り越えんとする呪詛は「祝い」となる。


当人がそれと知らずにかける「呪い」を、受け手が「祝い」に変える、
「祝い」として受け取るためにはどうすればよいか。
それは「呪い」を隠蔽したり抑圧したりすることではない。
「呪い」から逃れる意思も大事かもしれないが、
それは受け手の余力が少ない時の非常手段で、
さらなる「呪い」の増大のリスクを伴う。
「呪い」をそれと分かって耐える、という表現もあまりよく響かない。
「予感」の力を失わないために、常に変化を厭わない境地でいるために、
流れを淀ませてはいけない。
実際的な表現を使うと身も蓋もないが、
”「呪い」の変化にその都度対応する”しかない。
「予感」が完全に失われ、その足を鎖で繋がれ、その固着の状態を良しとし、周囲を飲み込まんとするものの発する「呪い」は、その対象と己との一体化が果たされないと分かれば変化せざるを得ない。
その変化が表層であれ、稀なる根本であれ、
受け手はその変化に応じて変化するべきである。
その変化と変化の応酬がどのような結果をもたらすにせよ、
両者にとって良いに違いない。
両者が己の生を信じる限りにおいて。

人は、自分が何を望んでいるかすら、完全には把握できていない。
この信念は譲るわけにはいかない。

いまのところ。

2013/04/05 23:15

+*+*+*

読み返してみてもよく思い出せないけれど、
どうもこの話と繋がっているみたいだ。
うーん。
ミドルデガー。(意味不明)

自分は何も供出せずに、相手に何かを求めること。
それは、よくない。
いけないことはないけれど、よくないことが起こる。
だから、相手に何かを求めようとしていて、しかしそれに後ろめたさを感じている時、自分は相手に何かを贈ろうとは考えていないことに気付く。
そういう風に、迂回的にしか気付けない時があるのだ。
個人が内で閉じていて、しかし頭は回っている、という場合。
おそらく、個人が外に開いていれば、相手に求める前に、
自分が相手に贈ろうとするはずだ。
そして後になって、「僕はあの人を求めていたんだ」と気付くのだ。

きっとこれは「迂遠な健全」で、しかし根がしっかりしていれば少しふらついてもどこかで戻って来ることができる。
何かといえば、後ろめたさをバネにすることもできるということ。
しかしこれは自分から「我を忘れに行く」ようなものなので、
後悔をもたらすことが多い。
もちろん、我を忘れない跳躍、というものもないはずなのだけど。

「論点の先回り」という話がある。(というこの提起がまさに「論点の先回り」の実例で、しかし今回は「論点ずらし」も加わっているのでちと複雑)
会話の進行を見越して先回りの発言ばかりしていると、
相手との会話が心地よくは成り立たない。
会話は論理だけで成り立っているのではない。
ベタな筋をたどるだけの会話が楽しいことからそれは分かる。
「論点の先回り」はその楽しみ方を自分から潰しにかかっている。
あるいはお互いがそれを知りながら「(論理的に)充実した内容で、しかし内容よりキャッチボールそのものを楽しむ」という会話も想定できようが、それはほとんど小説世界での出来事である。
なにしろ複雑に過ぎる。

しかし「論点の先回り」は、頭の回転数の上げ所を間違っているという話もあれ、頭の回転がしっかり保たれているという意味においては健全である。
だから、不用意にしてしまった時にその都度反省すればよい。
疲れるけど。
ああ、また疲労の話に…まあしちゃうけど。
恐らく自分はこの疲労を悪いものとは思っていなくて、同じことをした時の疲労が軽減されるのは身体にとって(短期的には)よいのかもしれないけど(長期的には)よくないのかもしれず、後者を重く見てあまりこの疲労に慣れたくはないなと思って、つまり変わらない疲労が続くという意味でこの疲労は重層的な疲労なのである。
疲労が蓄積していった時に、体調を崩す場合と局所的に麻痺が起こる場合があって、
この両者では疲労の質が異なっていて、僕は前者が健全だと思う(不健康だけど)。
かかったことないし想像だけど、一般的に精神科医というのは疲労をなくすのではなく麻痺させることで疲労を感じなくさせる術を処方としているのではないか。
(だから(?)名越先生や春日先生はふつうの精神科医ではないと思っている)
この麻痺というのが、弱さ(vulnerability)の封殺でもあるように感じていて、鷲田氏のファンとしてもここは譲れない一線なのである。

話を戻して。
久しぶりに気付いたきっかけは複合的なものである。
(毎度のことだけどぼかしまくってるので訳わからん話なのはご容赦。
 後に自分で読んで内容がサッパリやったらそん時はそん時ですね)
そして結論としては、「自分が相手に贈ろうとしたくなるのを待つ」なんて日和るつもりはなくて、まあ上記の「バネ」を(使う流れになっちゃったら)使うという「位相を上げた日和見」でいきましょうと。
自分が何をしたいのか、身体の底では分かってるんです、きっと。
それを信じて、待つ。
弱さを守り、麻痺しないように。

待ち人、わたし。
(ておみくじに書いてあったら「深いなあ」思うんやけど、まあないやろな)
 みんな青春が悪いんだ。一番多感な時期に、一番多感である部分(それは人に寄ってそれぞれ違う)を刺激されると、抵抗力のない──それ故にこそ局地的に純粋である青年達はそこにのめり込んでしまう。”芸術”というようなものにのめり込んだ人間の犯す最大の誤ち(”稚さ”と言おうか)は、書いてないことを見、言ってないことを聞いてしまうという、そのことね。そういうものがほしいんだから、そういうものを現出させちゃってもいいと思う──幻想を求めざるをえないその人間の”を、えない”の部分は本物なんだから。ただし、それが幻想であることも確かな事実で、それと幻想を求めざるをえないこととは自ずから別。別なんだけど、のめり込んだ人間は、そのことだけは決して認めない。それが幻想だということを認めた途端、その幻想から出なくちゃならないというのが、そののめり込まざるをえない人間が忠誠を誓う”現実社会”の掟だから。私がつまんないのは「その”掟”だってどれくらい本物なの?」ということを、その掟に縛られて(実は)逃げたがっている人間達が一向に認めないでいることね
10=それぞれの青春(橋本治『ロバート本』p.55-60)以下同
この「”現実社会”の掟」の(それが十二分に機能していることとは別に)内実がほとんど問われない(=個人の中でしか、もっと言えば非言語的な形でしか問われない)ことが、これが”現実社会”で機能している妥当性を保証しているという考え方は論理的なようで単なる循環で、このポジティブフィードバックはつまり単なる慣習的惰性で、しかしこの単純さこそが身体性と抜群に相性が良い。
個で閉じても周りを取り込もうとしても身体性は身体性で、それが満たされている時の心地よさの種類は異なるはずなのだが、片方ばかりを追求するともう片方がなおざりになる。
このあたりは個とシステムの相反性と似ているが、たぶん複数の個体が一つにつくりだす場の身体性から身体性が損なわれたもの(何を言っている?)がシステムなのかもしれない。
ここでいう「掟」を僕なら常識におきかえるが、常識の内実が公に問われるような状況はありえない、というかその時それは既に常識ではない。
 意識からすり抜けるものという意味ではイデオロギーと似ているのだろうか。
 いや、狭義の(=通用範囲が狭い)常識に論理をかませればイデオロギーになる?
時代の変化に応じて常識も変化するというが、その変化に目的があるわけはなく、自然法則なのかもしれないがそれが生態系の維持とセットになっている保証がどこにもないのは「そのもの」と同じである。
だから常識にも手入れが必要なのだ(日本の里山が「雪かき仕事」としての手入れを必要としていたように)。
「雪かき仕事」は市場原理に全く馴染まない。
馴染まないがそれなしに市場原理(を展開している社会)が成り立たないということは、市場社会は「頭の中にある」ということだ。
皆がそれを忘れると崩壊するが現に崩壊していないのはそれをいつまでも覚えている人や時々周知してくれる人がいるからで、そのアナウンスに市場価値をつけるという複雑なテクニックもあるが、原理的に「雪かき仕事」はボランティアである。
そのボランティアであるはずの仕事でお金がもらえるのは共同体(大きくは国)があるからだし、つまり市場原理主義が徹底されていないということで、ここに人間の身体が存在する余地がある。

それはよくて。(ぶちっ)
今回これを抜粋したのは「青春」という言葉に反応したからで、きっとここでは世間一般でいう中高生のそれに留まらず、大人も含めて誰しもが捨て切れずに残して抱えているものを指している。
それは「大人になる前に捨てなければならない」わけではなく、「ずっと持っているという自覚を持て」と言っているように聞こえる。
…押し付けがましくなく、社会の抱える問題を冷静に指摘する文章がほぼ例外なく読者の自覚を促すことは、問題の解決はまずもって自覚という個人の主体性から始まることを知っており、つまり読み手の思考力をその書き手は信頼しているからではないかと思う。
その信頼は不確実性の許容であり、「人事を尽くして天命を待つ」ことのようで、そしてそれは結果を期待しているのでなく「ただ期を待つ」のである。

うーん、これじゃまるで「片思い」だな。
「片思いが幸せになれない世界は、とてもさみしい世界だと思う」
とは"ライテックスの社長の息子"(@髙橋しん『いいひと』)が言っていた。
そういえばまだ最終巻に辿り着かずに立ち読みやめちゃったんだよな…
わかりやすく示唆的だなあ…再開できるのかしら。

という自由記述。
 俺、人生なんて”大人”と”子供”の二分法だけで一向にいいと思うの。ただ、その境界は、機械的に「ここ!」と決められるようなもんじゃないっていう、それだけの話。子供は子供でトータルに人間で、大人は大人でやっぱりトータルに人間である──但し、その移行段階で破綻は必ず起こる。Aなる完成が一度御破算にになって、Bなる階段へ至る以上、そうなるのが当たり前だから。だから、破綻状況を過大に持ち上げる”青春”てのは好きじゃない。(…)
 青年の論理って、実は現実にあってはいけないもんなんだよ。だって、青年ていうのは便宜的かつ観念的なある時期なんだから。現実化してしまった青年の論理の一典型がナチズムだなんて、簡単に分かるでしょ? だから嫌いなの、頭悪い青年てのが。
溝口くんは、鶴川くんになんかしてもらうことばっかり考えて、自分でなんかしようとは思わないんだもんね。そんなのいけませんよ。あなたがこわがってたから、松枝清顕はいなくなっちゃうのサ。三島由紀夫がどういう人だったか、もう一行で言えるよ。こわがりすぎて皮肉にうっちゃりを喰わされた人──そんだけ。
「06=難渋(きつおん)の文学」(橋本治『ロバート本』p.34-46)
「うっちゃり」って最初チョップのことだと思ってたけど、調べてみると違ってた。
土俵際まで相手に寄られて、すんでの所で相手を外に投げ出すこと。
土壇場で大逆転、という意味らしい。
「うっちゃる」はたぶんちゃぶ台返し的な意味だと思うんだけど、あれもまあ追い詰められてるんだろうね。
仕事と家庭の板挟みで溜めた鬱憤にポン酒で亭主がイグニション。
あかんこれ。(←違う)
それはよくて…もう一つの抜粋と合わせると話が分かりやすくなる。
三島由紀夫は、結局、皮肉に足をとられた人なの。”人は理由があってひねくれるのと同時に、なんだか理由は分からなくてもひねくれざるをえない時にひねくれる”って前に書いたけど、自分に向けられる知性と言うのは結局、この後半分のひねくれの理由を解明することでしかないみたいね。そんで、ひねくれを戻すのは、結局”鶴川くん風の明るさ”というような、アンチ文学であるような勇気だけなのよ。
最近読んだ森博嗣本のあとがきにあった「素直な天の邪鬼」というのと似た感性かと思う。
「ひねくれる」と表現される振る舞いがひねくれて見えるのは外部の何か(習慣や常識や、心理学とかの学問)に照らし合わせればそうだというだけで、それが実は「素直」であると理解するためには知性が必要で、しかし知性を発揮するための道具は外から持ってくることもあるけれど知性の発揮場所と方法は自分の中で(に)しかありえない。
冷静に考えるというのは土俵の上で「皮肉」とがっぷり四つに組むということで、しかし思考以外を削ぎ落とした思考、知性の発揮の追求だけでは、(おそらく相手に押し出されたり土俵中央で上手投げといった「明白な負け」はなくて、)抜粋の通り「勝ちが見えた」所で足(というか体)をすくわれることになる。

だから勇気!
『合言葉は勇気』なんですね。
(あ、まだ読んでない…次の次くらいに読もかしら)
皮肉を避けるのでなく突き抜けることで身体を取り戻す。
現代に必要な知性の使い方は、これだろう。
そしてこれは決して目新しいものではない。

そしてつい言ってしまうけど、
「本では得られないものがあることを本によって知る」
ことは、もちろんある。ことによっては、
「本では得られないものを本によって得る」
こともあり得る。
それが橋本治。(おお!)
読めば分かる。
(あ、でも『ロバート本』は相当危険だけどね…『蓮と刀』よりゃマシか)
掘った芋埋めたら根が生えた(?)

最近心の中で「あ、これあかんわ」と呟くことが多い。
主に会社にいる時なのだけど、何があかんのかというと、
要するにキライだということである。(答えになってない)
女の子ぶると「…やっ」と視線を背ける感じで(しかし赤面はしない)、
けれど対象と対面してなくて距離がある時に感じるのであって、
それはなけなしの世間体が身体化されて残っているからで、
別にそれを拭い取りたいわけでもないけど(どうかな…?)、
それはよくてこれはそろそろ明文化すべき時期かしらと閃き、
最近流行りの某戦艦ゲーと関係があるのかないのか(これは秘密)、
去年つけたタグ名を少しばかり変更して起爆剤(機雷?)にして、
毎度お馴染みの「予告倒れ」を防ごうという算段、なのです!

いや、口癖にするつもりはなくて…
そうね、「あらま」くらいかしらね。
シンプルに、そして曖昧に。

「漠然先生の、漠然発言」

おお、迷言。
あれー?

という感じで栃木行ってきました。
おとといにお泊まり出張で。
なんつーか逃げ切れませんでしたハハハ。
野生の勘も他人をも巻き込む事故には勝てません。

てのは冗談で、栃木は分社みたいな所だけど、思えば4年目にして初。
新人の時に見学ツアーがあったのだけど会社都合で行きそびれていた。
その時やその後に聞いた噂の数々があって、まあ「へー」という感じ。
毎度の如く当日決定で出発が遅く、日帰り不可で寮に宿泊。

時間かかったけれど、まあピンチヒッタにしては良くやった方。
(ふと思うになんで「ピンチバッタ」やないんでしょうね)
日が変わる頃に仕事を終え、分社の方々と飲みに行ってあがりは4時半。
ジムビーム・ハニーが旨かった(シングルで4杯頂きました)。

その翌日も分社出勤で8:40に迎えがくる(分社は寮から遠い)ので早起き。
睡眠3時間は久しぶりの強行で、その日は一日中つらかったです。
でも土曜日なのできっちり本厚木のブックオフで立ち読みはして、
さらに荷物あるのに歩いて帰って身体の悲鳴をずっと聴いてました。

まああれで風邪ひかなかったのなら正解で、
しかし風邪ひくつもりで無理やったので風邪ひいてても正解だった。
なんて戯言は風邪ひかなくて今日安静にして回復した今だから言える。
身体は使い過ぎてもいけないが、使わな過ぎてもいけない。

さて、今週中にはテンキの話ができるでしょうかね。
(しかし天気予報は当たらないなどと言うが、「80%の確率で雨」という予報は
 「20%の確率で雨以外」を含んでいるから、雨が降っても予報は当たっている。
 外れる予報というのは0%か100%しかないのではないだろうか)
プロフィール
HN:
chee-choff
性別:
非公開
自己紹介:
たまに書きます。現在メインはこちら↑
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
本が好き!
書評を書いています。
カウンター
忍者アナライズ
忍者ブログ [PR]