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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
 ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。(…)理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。

田中小実昌『カント節』p.18-19(「ジョーシキ」)

自分が体験したこととか、頭の中で考えたことを言葉にする。
人が言葉を喋ったり書いたりする最初の動機はそのようなものだ。
(この「最初」は起源の話ではなく、その都度の最初のことだ)
その時、言葉を道具として使うことになる。
しかし哲学というのは、本当は、どこか途中で言葉が道具じゃなくなる時から始まるものかもしれない。
極端に言えば、自分が何を言っているのか分からなくなってくると降りてくるのだろう。(哲学の神様が?)
書く動機として頭の中には何かがあった。
その書く前から頭の中にあったものが、既に素晴らしい内容であることはありうる。
けれどコミさんの言う「におい」は、そこには含まれていないのではないか。
「むりかげん」というのも、何やら難しい話を書き進めるうちに熱が入ってきて、論理よりも情熱に任せてぐいぐい筆が走る、という光景がそこから想像できる。

しかしそういうトランス状態になる前は「自分」があったのだろうけど、コミさんは同じトランス状態といってもだいぶ違うようだ。
情熱なんて表現は程遠くて、淡々と、といった感じ。
「空っぽ」と本人は言っていて、なるほどと思うのだけど「空っぽ」なはずがない。
というより、何が「空っぽ」なのか。
それを知りたいと思ってコミさん本を読み進めているのだなと今思い出した。

 自分がしゃべってることが、ふらふら、あっちにとんだり、こっちにいったり、行方がわからないのでは、自分でありつづけてるとは言えまい。アイデンティティがどうもわからないなどと言ったが、本人にアイデンティティがないんだもの、アイデンティティなんてことがわかるわけがないか。
同上 p.160(「I・Dカード」)
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